エンリケ(読み)えんりけ(その他表記)Henrique o Navegador

デジタル大辞泉 「エンリケ」の意味・読み・例文・類語

エンリケ(Henrique)

ポルトガル王子ヘンリーのこと。エンリケ航海王子

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エンリケ」の意味・わかりやすい解説

エンリケ(航海王子)
えんりけ
Henrique o Navegador
(1394―1460)

英語名はヘンリーHenry the Navigator。ポルトガル王子。ジョアン1世の三男で、母はイギリスのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリパである。両親のはぐくむ素朴で宗教的な雰囲気のもと、狩猟と乗馬を愛するたくましい若者に成長した。1415年、対岸にある北西アフリカのムーア人の要都セウタCeutaの攻略戦に参加して武勲をたて、華やかに騎士の叙階を受ける。このセウタ滞在中に耳にした、アフリカ大陸内陸部に君臨するというプレスター・ジョン王の話や、黄金を運ぶ隊商、あるいはアフリカ西海岸に延びる海岸の話などに刺激され、帰国後、その海岸方面の探検事業に着手する。この結果、ポルト・サント島とマデイラ島(1418)、アゾレス諸島の一部(1427)、さらにベルデ岬諸島(1456)など大西洋上の島々が発見された。また、キリスト騎士修道会統轄者として自由にできる資金を元に、1422年より西海岸南下の船隊を派遣し、1434年ボジャドール岬を突破、1441年リオ・デ・オロ着、1443年ギニアに到達した。そして彼が他界する1460年の時点では、シエラレオネまでの海岸が探検されるに至る。こうした航海事業推進の背景には、プレスター・ジョンと連絡して、イスラム勢力を挟み撃ちにするという十字軍精神があったと考えられる。事実、終生妻をめとらず、敬虔(けいけん)なキリスト教徒として一生を送った。また、大西洋上の諸島での積極的な植民事業、ギニアに対する通航税と交易税の徴収、黒人奴隷の売買による利益取得になんら躊躇(ちゅうちょ)しなかったことなどは、鋭い経済観念の持ち主であったことを示している。

[青木康征]


エンリケ(2世)
えんりけ
Enrique Ⅱ
(1333―1379)

カスティーリャおよびレオン王(在位1369~79)。カスティーリャ王アルフォンソ11世の庶子。即位するにあたって協力した貴族・聖職者に多くの領地を与えたため「恩寵(おんちょう)王」、また出自から「庶子王」とよばれる。1351年父王没後、異母弟で正式な嫡男である「残酷王」、あるいは「正義王」とよばれたペドロ1世Pedro Ⅰ(1334―69)が即位すると、王位奪取を恐れた弟王とその生母によってエンリケの生母は殺され、自身も命をねらわれる。そのため翌年から兄弟間の王位継承争奪となり、エンリケはフランスなどを味方に、一方弟王はイギリス王エドワード3世の長子「黒太子」(1330―76)の支援傘下で、内乱は長期化した。エンリケは最終局面において1366年に王を名のり、国内貴族・聖職者の絶大な援軍の下、1369年には弟軍勢を破り、弟を処刑後正式に王位につく。エンリケはトラスタマラ伯(養子)であったことから、以後トラスタマラ朝の開祖となる。これに対し、ポルトガル王フェルナンドFernando(1345―83)は、カスティーリャ王サンチョ4世の正統な孫としてカスティーリャ王位継承権を主張し、アラゴン、グラナダのイスラム教国と同盟を結び、ガリシアに侵入した。一方、エンリケは、ブラガを征服、ギマランイスGuimarãesを包囲する。1371年教皇グレゴリウス11世の仲裁で両王は和平を結んだ。ポルトガル王は、カスティーリャ王位継承権を放棄したものの、新しく王位継承権を主張するランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(黒太子の弟、故ペドロ1世の庶子コンスタンサの夫)を支持した。エンリケは内乱勝利に恩義あるフランスと同盟し、1372年イギリス海軍に大勝した後、1373年2月リスボン入りを果たす。この両戦とも英仏百年戦争の一環をなし、いずれもポルトガルの敗戦に終わっている。

[林田雅至]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エンリケ」の意味・わかりやすい解説

エンリケ(航海王子)
エンリケ[こうかいおうじ]
Henrique o Navegador

[生]1394.3.4. オポルト
[没]1460.11.13. ビラデインファンテ
ポルトガルの王子。ヘンリー航海王とも呼ばれる。ジョアン1世 (名王)の三男。母后はイギリスのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘フィリッパ。大西洋およびアフリカ西海岸に多くの探検隊を派遣して大航海時代におけるポルトガルの海外発展の基礎を築いた。父王ジョアン1世は,リスボン,オポルトの海商ブルジョアジーの支援を得て即位したという経緯から海外交易重視の政策をとり,それはポルトガル海外進出の嚆矢とされる 1415年のセウタ征服に結果として現れた。セウタ攻略に従軍したエンリケは,以後,海外探検に強い関心を示し,1419年ポルトガル南部のアルガルベ総督に任命されてラゴスに居を定めると,外国の著名な天文学者,海図作成者,航海者を招いて航海術の発展に努めた。一方,エンリケの派遣した探検隊はマデイラ島 (1418) ,アゾレス諸島 (1427) に到達し,1434年には前人未踏のボジャドル岬の通過に成功,さらにアフリカ西海岸の金と奴隷を求め,エンリケが死亡した 1460年にはシエラレオネまで達した。以後,エンリケの事業はジョアン2世 (完全王) に引き継がれた。

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百科事典マイペディア 「エンリケ」の意味・わかりやすい解説

エンリケ[航海王子]【エンリケ】

ポルトガルの王子で父はジョアン1世。ヨーロッパの新航路推進と航海術向上の最大の功労者として伝説化されてきたが,近年ではその多くが否定されつつあり,その評価は大きく揺れている。1415年に北アフリカのセウタに遠征,以後セウタに最も近いアルガルベの知事,キリスト騎士団長となって長い間ポルトガルの海外政策とかかわった。天文学者や数学者を招き,その配下の航海者たちが西アフリカの探検を推進した。

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367日誕生日大事典 「エンリケ」の解説

エンリケ

生年月日:1394年3月4日
ポルトガルの王子。通称“エンリケ航海王子”
1460年没

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