改訂新版 世界大百科事典 「カルムイク共和国」の意味・わかりやすい解説
カルムイク[共和国]
Kalmyk
ロシア連邦西部の共和国。ソ連時代のカルムイク自治ソビエト社会主義共和国Kalmytskaya ASSRが1990年主権宣言をして共和国となった。ボルガ川下流の西岸,カスピ海の北西に位置する。面積7万5900km2,人口29万2410(2002)。首都はエリスタElista。民族構成はカルムイク人45.4%,ロシア人37.7%,その他(ダルギン人,チェチェン人,カザフ人,ウクライナ人,タタール人など)16.9%(1989)。国土のほとんどがカスピ海の北部低地に属し,大部分は標高0m以下である。わずかに西部国境沿いにエルゲニ丘陵(最高点222m)が走っている。気候は大陸性で夏は乾燥して暑く,冬は雪が少なく寒い。7月の平均気温は23~26℃で,1月のそれは-8~-5℃。年降水量は北西部で300~400mm,南東部で170~200mm。大部分の地域が単調なステップである。産業面の中心をなすのは牧畜で,家畜のほとんどはメリノー種を中心とする羊である。とりわけ,中部と南部には冬期になると国内のみならずボルガ川下流域や北カフカス,あるいはザカフカスからさえ羊が移動してくる。また,カスピ海沿岸地域では漁業が行われている。工業面では,機械・金属加工などの工場もあるが,中心になっているのは畜産物・魚類の加工を主とする食品工業である。首都エリスタ(人口10万4254,2002)は,工業,文化両方の中核をなし,5学部をもつカルムイク大学(学生数5000)その他の学術・教育機関がおかれている。
この地域には,紀元前にはスキタイ人,アラン人,サルマート人などが住み,紀元後にはハザル人,次いでポロベツ人の勢力圏内となった。1240年代にはキプチャク・ハーン国の支配下に入り,キプチャク・ハーン国の解体後に,この地域にアストラハン・ハーン国が成立したが,1556年にロシア帝国に併合された。そして,17世紀の初頭から半ばにかけて,ジュンガリアからカルムイク人が移住し,ロシア帝国の枠内でカルムイク・ハーン国を形づくった。カルムイク人は,ロシア帝国の軍隊として北方戦争(1700-21),七年戦争(1756-63),祖国戦争(1812)など17~18世紀のロシアの主要な対外戦争のほとんどに参加した。しかし,ロシア帝国の圧迫はカルムイク人の不満と反抗をひきおこし,ラージンの乱やプガチョフの乱へのカルムイク人の参加の原因となる一方,1771年にボルガ川東岸のカルムイク人はロシアを去って中国へと移った。残ったボルガ川西岸のカルムイク人約1万3000人はアストラハン県に組み入れられ,カルムイク・ハーン国は廃止された。19世紀には,ロシア政府によって遊牧地の収奪とロシア人農民の入植を中心とする植民地主義的な政策が進められ,1803年に250万頭いたカルムイク人の家畜は96年には45万3000頭に激減した。革命・内戦の結果,カルムイク民族革命派,デニキン軍を破って1920年にソビエト権力が確立。同年にカルムイク自治州が成立し,35年に自治共和国に昇格した。しかし43年12月に対独協力の理由のもとに,カルムイク人はシベリア,ウラルに民族ごと流刑となり,自治共和国も廃止された。スターリン批判後の57年にこの措置は撤回され,カルムイク人も戻り,自治州として復活し,翌年に自治共和国に戻った。
執筆者:青木 節也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報