改訂新版 世界大百科事典 「カレリア共和国」の意味・わかりやすい解説
カレリア[共和国]
Karelia
ロシア連邦北西端にあるロシア連邦内の共和国。1940-56年の間はソ連邦の構成共和国でカレロ・フィンKarelo-Fin共和国と称していたが,56年6月カレリア自治共和国に格下げされ,90年に共和国を宣言した。面積17万2400km2,人口71万6281(2002)。このうちカレリア人10%,ベラルーシ人7%,フィンランド人2.3%で,ロシア人が74%を占める。首都はペトロザボーツク。東は白海とオネガ湖,南西はラドガ湖で限られ,北はコラ半島に続き,西側は高地によってフィンランドと接している。全土の62%が針葉樹の森でおおわれ,6万もの湖が散在している。月平均気温は2月が-13~-9℃,6月が14~16℃,年降水量は北部で400mm,南部で600mm。川は短いが急流であるため,水力発電の源となっているし,地下に埋蔵されている沼鉄鉱,チタン鉱,方鉛鉱などの鉱物資源の開発が進められている。おもな産業は木材工業で,ペトロザボーツク,コンドポガ,セゲジャ,ソルタワラに工場がある。紙やセルロースの生産も盛んである。耕地は7万5000haで,そのうち85%が飼料作物に,残りは穀類,ジャガイモ,野菜などの栽培にあてられている。
カレリアには純朴で古来の習俗がよく保持され,叙事詩《カレワラ》の大半はこの地で歌い継がれてきた。ロシア語とフィンランド語が公用語で,ペトロザボーツクには総合大学と教育大学およびロシア科学アカデミーの分室がある。
歴史
カレリア人はフィンランド人と人種も言語(カレリア語)も同類であるが,スウェーデン,ロシア二大勢力の対立の中で,フィンランドがスウェーデンに支配されたのに対し,カレリアはロシア領に属していたことが両族の運命を別なものにした。カレリア人は古くからラドガ湖の南東部に住み,ノブゴロド王国の下でカレリア地峡およびラドガ湖の北西へと進出した。1143年カレリア人がノブゴロドに協力してフィンランドのハメ族と争った記録がある。かくてカレリア人はギリシア正教を信奉し,ロシア化していった。55年スウェーデンは十字軍をフィンランドに送ってその南西部を領有し,1293年にはカレリアのビボルグに城を築いた。さらにスウェーデンのグスタブ2世アドルフはロシアを破り,ストルボワの和議(1617)でラドガ湖の中央を南北に走り北極海へ至る国境線を設定した。このため北欧文化がカレリアへ浸透したが,重税とルター派への改宗を避けてカレリア人の一部はロシアへ逃れ,トベーリ(ソ連時代の旧称カリーニン)付近に移住した。その子孫は今も6万2000を数える。だが北方戦争でスウェーデンはロシアのピョートル大帝の軍に破れニスタットの和約(1721)でカレリア地峡とラドガ湖北岸の地を失った。さらにフランス革命後ナポレオンと手を結んだロシアは反ナポレオン勢力のスウェーデン軍を粉砕し全フィンランドを手に入れた。ロシア革命後フィンランドは独立し(1917),ソ連との間はストルボワの国境線に近いものとなった。1939年ソ連はフィンランドに侵攻し(ソ・フィン戦争),冬戦争の後,40年の国境はニスタット和約の線に後退した。第2次大戦後ビボルグやラドガ地峡のカレリア人40万はフィンランドに引き揚げた。カレリアでは1980年代末から,民族語・民族文化を保護し,経済的・政治的自立を目ざす運動がおこっている。
執筆者:小泉 保
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報