イギリスの軍人。ウーリッジの陸軍士官学校に学ぶ。1884~1885年、スーダンでゴードン将軍の救出作戦に参加、マフディー軍と戦った。1892年エジプト軍司令官に就任、1898年にハルトゥームを奪回した。同年ファショダでフランスのマルシャンJean-Baptiste Marchand(1863―1934)指揮下の軍と対峙(たいじ)、ファショダ事件を起こす。その後、南アフリカ戦争(ブーア戦争)での総司令官、インド軍総司令官、元帥(1909)。エジプト駐在代表を経て、1914年、第一次世界大戦に際して陸軍大臣となったが、弾薬不足への非難の高まりなどのなかで声望を失い、1916年ロシアへ赴く途次、船の沈没によって死去した。
[木畑洋一]
イギリスの軍人。1883年,イギリスによる占領直後のエジプトに赴いて軍務に就き,96-98年,エジプト軍総司令官としてスーダン征服戦争を指揮,マフディー派国家を滅ぼす。征服終了直後,スーダン南部のファショダでフランス遠征隊と遭遇し(ファショダ事件),イギリス権益確保のための折衝に努める。ついで南アフリカに赴き,1900-02年,ボーア戦争で指揮をとる。02-09年インド軍総司令官,11-14年駐エジプト総領事を務めた後,14年,第1次世界大戦勃発と同時に陸相に就任。迅速な動員と軍制改革によって総戦力の基盤整備に努めたが,16年,訪露途上の乗艦の沈没で死去。大規模かつ組織的で冷酷な近代戦を得意とし,1880年代後半から第1次世界大戦期のイギリス帝国主義の一つの象徴となった人物。
執筆者:栗田 禎子
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1850~1916
イギリスの軍人。1874年パレスチナなどで測量に従事。82年ゴードン将軍救出作戦に参加,92年エジプト軍司令官。96年スーダン奪回に乗り出し,98年ハルツーム占領。その間ファショダ事件の現地当事者となる。99年スーダン総督となり南アフリカ戦争で総司令官となった。1902年インド軍司令官をへて09年帰国。14年伯爵。第一次世界大戦時に陸軍大臣となったが,乗艦が沈み戦死。
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…エジプト・スーダンは,カイロからケープ植民地を結ぼうとするイギリスのアフリカ縦貫政策と,紅海沿岸のソマリランドから大西洋岸のセネガルを結ぼうとするフランスの横断政策の交差地域となった。1898年7月,コンゴを出たマルシャンJ.B.Marchand大佐(1863‐1934)指揮下のフランス隊はナイル渓谷のファショダを占領したが,イギリスのキッチナーH.H.Kitchener将軍(1850‐1916)はナイルをさかのぼってスーダンへ進軍,9月19日にファショダへおもむき,フランス軍の撤退を求めた。イギリス,フランス間の緊張は高まったが,外交交渉によってフランス側が譲歩して撤退し,翌99年3月成立の協定によって事件は正式に解決した。…
…エジプト・スーダンは,カイロからケープ植民地を結ぼうとするイギリスのアフリカ縦貫政策と,紅海沿岸のソマリランドから大西洋岸のセネガルを結ぼうとするフランスの横断政策の交差地域となった。1898年7月,コンゴを出たマルシャンJ.B.Marchand大佐(1863‐1934)指揮下のフランス隊はナイル渓谷のファショダを占領したが,イギリスのキッチナーH.H.Kitchener将軍(1850‐1916)はナイルをさかのぼってスーダンへ進軍,9月19日にファショダへおもむき,フランス軍の撤退を求めた。イギリス,フランス間の緊張は高まったが,外交交渉によってフランス側が譲歩して撤退し,翌99年3月成立の協定によって事件は正式に解決した。…
※「キッチナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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