デジタル大辞泉
「ハミルトン」の意味・読み・例文・類語
ハミルトン(Hamilton)
ニュージーランド北島北部の都市。ワイカト平野を流れるワイカト川沿いに位置し、同国有数の酪農・農業地帯の中心地。1860年代にマオリ との入植者の間で争いが繰り返された。ワイカト大学、ワイカト博物館、ロトロア湖などがある。 米国オハイオ州南西部の都市。シンシナティ の北約30キロメートル、グレートマイアミ川沿いに位置する。製鉄、自動車部品などの工業により発展。ピラミッドヒル彫刻公園がある。 カナダ、オンタリオ州南東部の都市。トロント の南東約60キロメートル、オンタリオ湖 西岸に位置する。古くから製鉄業が盛ん。交通の便がよいため、果物や花 か 卉 き などの農産物の集散地となった。滝が多いことでも知られる。
ハミルトン(William Rowan Hamilton)
[1805~1865]アイルランドの数学者・理論物理学者。ダブリン大学トリニティーカレッジ在学中に天文学教授となる。光の波動論を支持し、光学系に特性関数を導入して幾何光学 の基礎を作り、さらに力学 の全分野に拡張して解析力学 の基礎を確立。著「光線系の理論」。
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ハミルトン
アレクサンダー・ハミルトン 米国独立戦争に参加した際、後に初代大統領となる総司令官のジョージ・ワシントン の目に留まり、1789年、初代財務長官に就任した。強力な中央政府を指向し、生まれたばかりの合衆国政府の財政・金融の基礎を築いた。中央銀行のような役割を果たした第一合衆国銀行や造幣局の設立に貢献した。(ワシントン共同)
更新日:2015年8月10日
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ハミルトン
( Hamilton ) [ 一 ] カナダ南東部、オンタリオ湖の西岸にある工業都市。ナイアガラ滝・デキュー滝などによる水力発電をもとに、製鉄・機械・繊維などの工業が発達。[ 二 ] アメリカ合衆国 中東部、オハイオ州南西端の都市。製紙・機械・化学工業が発達。
ハミルトン
( William Rowan Hamilton ウィリアム=ロウワン━ ) イギリスの数学者、物理学者、天文学者。幾何光学および四元数論に関する業績がある。ダンシンク天文台長としても活躍。主著「四元数講義」。(一八〇五‐六五 )
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ハミルトン(Sir William Rowan Hamilton) はみるとんSir William Rowan Hamilton (1805―1865)
イギリスの数学者、理論物理学者。幼時から天才をうたわれ、伯父の外国語教育を受けて13歳のときにすでに十数か国語に熟達していたといわれる。「計算少年」との競争を行ったことが契機となって数学に興味を抱き、ニュートン、ラグランジュ 、ラプラスらの著作を読み、大学に入学する以前に当時の数学をほとんどマスターし、また光学系に関する理論のアイデアに到達した。1824年ダブリン大学のトリニティ・カレッジに入学、1827年には、まだ在学中の22歳の若さながらカレッジの天文学教授に選ばれ、ダンシンク天文台の台長を兼任した。
1828年、最初の論文『光線系の理論』Theory of Systems of Rays の第一部を公刊したが、これはいわゆるハミルトンの特性関数の導入により光学系に対する一般的な代数的理論を建設したもので、幾何光学の基礎理論となるとともに、後年の力学理論の発端ともなった。ついで1832年に双軸結晶体の円錐(えんすい)屈折を予言し、これはロイドHumphry Lloyd(1800―1881)によりただちに実験的に証明された。このころから光学に導入した原理を力学の全分野に拡張する試みに着手し、特性関数を用いて光の伝播(でんぱ)と質点の運動を統一し、1834年変分原理としていわゆる「ハミルトンの原理」を提出、さらに「ハミルトンの正準運動方程式 」をたてて力学を書き替え、解析力学の基礎を確立した。
一方、「四元数」の着想を得て、この理論の展開に努力し、理論物理学すべてを包括する有用性を期待して晩年の20年近い歳月を費やしたが、大きな成果は得られなかった。しかし彼の研究した線に沿って多様な代数系への道が開かれ、多元数の理論などその後の代数学やその物理学の応用に大きな影響を与えた。この分野の著作に『四元法講義』Lectures on Quaternions (1853)、『四元法原理』The Elements of Quaternions (1866)がある。詩を愛し、当時の詩人らと多く交わった。
[藤村 淳]
ハミルトン(Alexander Hamilton) はみるとん Alexander Hamilton (1757―1804)
アメリカの政治家。イギリス領西インドのネイビス島出身。1772年に渡米し、まもなく独立革命に参加、77年にはワシントン総司令官の参謀となる。早くから強力な中央集権政府の樹立を力説。戦後は弁護士業を勤め、86年のアナポリス会議 では州を代表して、フィラデルフィア連邦憲法会議開催(1787)の推進者となった。新連邦憲法の批准を確保するため、強力な言論戦を展開し、マディソンらと『フェデラリスト 』85編を著し(1787~88)、批准の実現に多大の貢献をした。89年、ワシントン大統領下の財務長官を務める。商工業界を背景に、公債の額面償還、国立銀行の設立、輸入税・消費税の新設などにより公信用と歳入を確立し、新国家の財政基盤を整備した。フランス革命戦争下、親英的立場より中立政策を図り、国務長官ジェファソンと決裂。94年、「ウイスキー反乱 」として知られる酒税反対のための農民争乱を鎮圧、連邦政府の権力を誇示した。95年に辞職したが、野にあっても国政に巨大な影響力を残した。1804年、政敵バーA. Burr(1756―1836)との決闘により死亡した。
[池本幸三]
『田島恵児著『ハミルトン体制研究序説――建国初期アメリカ合衆国の経済史』(1984・勁草書房)』
ハミルトン(Sir William Hamilton) はみるとんSir William Hamilton (1788―1856)
イギリスの哲学者、論理学者。エジンバラ、オックスフォード大学 に学ぶ。エジンバラ大学教授。スコットランド学派 に属すが、カントの強い影響を受ける。トーマス・リードと同じく、知覚において対象は直接に知られると説く。しかしその認識は、対象の表象ないし現象を通してなされるものであり、媒介物や感覚器官による変容を受けるとして、相対主義的傾向を示した。そこからカントの二律背反に近い議論も展開する。論理学では賓辞(ひんじ)(命題の主辞について述べられることば)の量化を試み、これを論理学への大きな貢献と考えた。著書に『哲学・文学論集』(1852)、『形而上(けいじじょう)学・論理学講義』(1859~1860)など。リードやスチュアートDugald Stewart(1753―1828)の編者としても知られている。
[小池英光 2015年7月21日]
ハミルトン(Edmond Hamilton) はみるとん Edmond Hamilton (1904―1977)
アメリカのSF作家。1926年からパルプ・マガジンを舞台に娯楽的な冒険SFを書いて、古典的なスペース・オペラの発達と普及に貢献した。外宇宙からの脅威が迫って地球なり太陽系なりが絶滅の危機に瀕(ひん)したとき、ヒーローが敢然と宇宙船を駆って――というのが基本的プロットで、彼はこうした作品を量産したために「世界破壊者(ワールド・デストロイヤー)」とか「世界救済者(ワールド・セイバー)」という異名を奉られた。有名なシリーズものとしては40年代の『キャプテン・フューチャー』、60年代の『スターウルフ』があり、独立した作品には『スター・キング 』(1947)、『時果つるところ』(1951)、また、短編集に『フェッセンデン の宇宙』(1973)などがある。
[厚木 淳]
『福島正実訳『キャプテン・フューチャー』(1976・岩崎書店)』 ▽『野田昌宏訳『時果つるところ』(1969・早川書房)』
ハミルトン(Gavin Hamilton) はみるとん Gavin Hamilton (1723―1798)
スコットランド の画家、考古学者。グラスゴー大学 で学んだのちローマに赴き、生涯をほとんど同地で過ごした。メングスやウィンケルマンらとともにローマの新古典主義サークルの主導的メンバーであり、1760年代に、古代彫刻やプサンから影響を受けて制作したホメロス主題の歴史画は、その後の国際的な新古典主義様式の展開に大きな影響を及ぼした。考古学者としてローマ近郊のいくつかの発掘に参加したが、イギリス本国ではむしろ古代彫刻のディーラーとして知られた。
[谷田博行]
ハミルトン(カナダ) はみるとん Hamilton
カナダ、オンタリオ州南東部の工業都市。人口49万0268、大都市圏人口66万2401(2001)。オンタリオ湖西岸のハミルトン湾南岸斜面上に位置する。住民の59%がイギリス系で、残りはイタリア系、ドイツ系などである。1778年に最初の集落が建設されたが、1813年にジョージ・ハミルトンの農場ができてから町として発展した。カナダ太平洋鉄道 ならびにカナダ国有鉄道が敷設されると、ナイアガラ、デキュー両滝からの電力、近郊の天然ガスなどにより工業中心地となった。鉄鋼、電気、化学薬品、衣料、食品加工業が発達し、カナダのピッツバーグ とよばれる。植物園、マクマスター大学(1887創立)もあり、文化・商業の中心地でもある。
[山下脩二]
ハミルトン(イギリス) はみるとん Hamilton
イギリス、スコットランド中部の都市。グラスゴー南東17キロメートル、クライド川下流沿いに位置する。人口4万8200(2002推計)。地名はスコットランド貴族ハミルトン家 に由来する。付近のイースト・キルブライド、ウィッショー、マザーウェルなどの都市とともにグラスゴー工業地帯におけるコナベーション (連接都市域)を形成する。おもに商業・住宅都市であるが、織物、食品加工、機械などの工業も立地する。ハミルトン家の宮殿がある。
[米田 巌]
ハミルトン(ニュージーランド) はみるとん Hamilton
ニュージーランド北島中北部に位置する都市。北島第三の都市で、人口11万4921(2001)。ワイカト川中流に広がる北島第一のワイカト平野にあって、酪農、牧羊の中心地となっている。乳製品、食肉加工、木工、農機具などの工業が盛ん。1877年鉄道が開通し、農畜産物の集散地として重要性を増した。1864年先住民マオリとの紛争に備えたワイカト義勇軍の屯田兵村として開かれ、1945年市制を施行。ワイカト大学の所在地。
[浅黄谷剛寛]
ハミルトン(イギリス領バーミューダ諸島) はみるとん Hamilton
イギリス領バーミューダ諸島の首都。北大西洋西部にあるバーミューダ島西岸に位置する。人口1669(1984)、854(2016センサス)。1790年に建設され、1815年同諸島の首都となった。町の中央にネオ・ゴシック式の大聖堂があり、その周辺に議会、最高裁判所などの官庁がある。パラ・ウィユ公園内には歴史博物館、図書館があり、北西部にビクトリア公園 がある。1956年以来、貿易促進のため自由港となっている。
[林 晃史]
ハミルトン(アメリカ合衆国) はみるとん Hamilton
アメリカ合衆国、オハイオ州南西部、グレート・マイアミ川に臨む都市。人口6万0690(2000)。シンシナティの北40キロメートルに位置する工業の中心地で、製紙、機械、化学、自動車部品、モーターなど多種工業の発達が目覚ましい。1791年に町が建設され、1803年オハイオ州の誕生を契機に本格的な発展がみられ、1887年より市制が施行された。
[作野和世]
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ハミルトン Alexander Hamilton 生没年:1755?-1804
アメリカの政治家。西インド諸島 のネビス島に生まれ,1773年アメリカに渡り,キングズ・カレッジ(現在のコロンビア大学)に学んだ。独立革命中はワシントンの副官として活躍,戦後はニューヨーク で弁護士を務めた。強力な中央政府確立の必要を主張し,合衆国憲法の制定運動に尽力,その批准の際にはJ.マディソン,J.ジェーの協力を得て,アメリカ政治思想史上著名な《フェデラリスト 》(1787-88)を著して憲法を擁護した。89-95年ワシントン政権の初代財務長官を務め,《公信用に関する報告書》《国立銀行に関する報告書》(ともに1790)などを連邦議会に提出,戦時公債全額を額面どおり連邦政府公債に借り換え,第一合衆国銀行を創設し,蒸留酒消費税(これに反対してウィスキー一揆 が起こる)などの新税制を整備し,貨幣法を制定するなど,財政金融上の重要な政策をやつぎばやに遂行して,公信用ならびに連邦政府の財政的基盤を短時日に確立した。しかし,このためT.ジェファソン国務長官と事ごとに対立し,ジェファソンを中心とする反対党の形成を招いた。
彼はさらに,経済通の補佐官T.コックスの協力を得て作成した《製造工業に関する報告書》(1791)において,後進国の工業保護育成論を展開し,その実践として大規模な模範工場(いわゆるSUM)の設立を試みた。この計画は失敗に終わったが,彼の保護主義論は後年レーモンドDaniel Raymond,ケアリーHenry C.Careyなどの保護主義論者ならびにドイツのF.リストに強い影響を与えた。財務長官退任(1795)後弁護士業に従事するとともに,ジェー条約批准を促進するなど内政・外交にわたりフェデラリスツ の強力な指導者として活躍したが,J.アダムズ大統領と対立し党の分裂を招いた。政争がもとで起こったA.バーとの決闘において重傷を負い急逝した。1780年彼はオルバニーの大地主スカイラーの娘エリザベスと結婚し8人の子をもうけている。 執筆者:田島 恵児
ハミルトン William Rowan Hamilton 生没年:1805-65
アイルランドの数学者,物理学者。ダブリンに生まれ,数学,光学,力学を一体のものとして研究し,新生面を開いた。幼時から数学に優れた才能を発揮し,15歳前後にI.ニュートンの《プリンキピア 》を読んで天文学に興味をもち,1822年P.S.ラプラスの《天体力学》を読み,誤りを発見した。27年ダブリン郊外のダンシンク天文台の所員,またトリニティ・カレッジの天文学教授となった。天体観測は得意ではなかったが,数学的,理論的な思索に多くの時間を費やした。32年ローヤル・ソサエティ・オブ・アイルランドの会員となり,37年から8年間,その会長の地位にあった。早くから光学に数学的な考えを導入し,幾何光学の新しい数学的定式化を提唱した。その結果,幾何光学と力学とはまったく類似の形をとることになり,光学的観点から見れば光の粒子性,波動性の二重性にとくに立ち入る必要がなくなることを強調した。ハミルトンの力学における業績は,J.L.ラグランジュの考えを別の観点から推し進めたものであり,発表当時は叙述のせいもあってあまり評価されなかったが,量子力学の誕生とともにその価値が認められた。その理論の数学的部分は,ドイツの数学者C.G.J.ヤコビによって明快なものとなり,ハミルトン=ヤコビの理論として有名である。ハミルトンの四元数は彼がもっとも力を注いだものであり,《4元数講義》(1853)は736ページの大著である。概して論文は難解で観念的である。ハミルトンは文学,哲学に強い関心を示し,詩的精神が知的活動にとって重要であることを強調した。 執筆者:溝畑 茂
ハミルトン Hamilton
カナダ,オンタリオ州の工業都市。大都市域人口71万4935(2005)。州南部,オンタリオ湖西端の湖岸都市で,交通の便がよい。1778年に最初の集落がつくられたが,1813年,ジョージ・ハミルトンの農場ができてから発展した。1830年には港,50年代には鉄道が開通した。93年には製鉄所ができ,現在,カナダ第1の製鉄都市となっている。果物,花などの農産物の集散地でもある。マクマスター大学所在地。 執筆者:正井 泰夫
ハミルトン Hamilton
ニュージーランド北島北部の都市。オークランド の南南東約110km(道路距離),ワイカト川中流に臨む。人口13万1400(2005)。酪農を中心とした北島の代表的な農牧地帯の中心都市,北島第3の工業都市で,食品工業はじめ各種工業が発達し,空港(国内線),ワイカト大学がある。1864年に築かれた軍事拠点を起源とし,名称はマオリとの戦いで戦死した軍人名に由来する。1945年市制をしいた。 執筆者:谷内 達
ハミルトン Edmond Hamilton 生没年:1904-77
アメリカの大衆的なSF作家。夫人のブラケットLeigh BrackettもSF作家として知られている。《スター・キング》(1951),《時果つるところ》(1951)など宇宙文明を扱った作品が優れているが,一般には人気の冒険活劇シリーズ《キャプテン・フューチャー》(1940-51)の作者として名高い。 執筆者:山野 浩一
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ハミルトン(侯・公家) ハミルトン[こう・こうけ] Hamilton, Marquesses and Dukes of
スコットランドの貴族の家柄。爵位はハミルトン家 ,次いでダグラス家 が保有。ハミルトン家の2代アラン伯の次男ジョン (1532~1604) が,1599年侯爵に叙せられたのに始る。その子の2代侯ジェームズ (1589~1625) は,1609年伯父の跡を継いでアラン伯を兼称,吸収し,17年イングランド の枢密顧問官になり,19年功によりイングランドの爵位ケンブリッジ 伯を授けられたが (→ケンブリッジ〈伯・公家〉 ) ,初代バッキンガム (公) の親フランス政策に反対したため,公により毒殺されたといわれる。その長男ジェームズ (06~49) は初代ハミルトン (公) 。2代侯の次男ウィリアム (16~51) が兄を継いで2代公になり,清教徒革命 においてスコットランド長老派の首領として活躍したが,51年ウースターの戦い で戦傷死。その後爵位保有権は初代公の長女アン (31頃~1716) に移り,60年王政復古 時に彼女の要請により夫ウィリアム・ダグラス (1635~94) に与えられ,彼は3代公として,名誉革命 の際スコットランド議会を指導した。これより公爵位はダグラス家に移り,3代公の長男4代公ジェームズ (58~1712) は名誉革命の際連隊長として国王ジェームズ2世に従い,18世紀初頭にはスコットランド国民派の指導者としてイングランドとの合同に反対し,1708年フランス軍の侵入を策したとして投獄され,最後は決闘して死亡。7代公ジェームズは 61年ダグラス侯とアンガス伯を兼称した。
ハミルトン Hamilton, Alexander
[生]1755? イギリス領西インド,ニービス島 [没]1804.7.12. ニューヨーク アメリカの政治家。 1772年ニューヨークに移り,翌年キングズ・カレッジ (現コロンビア大学) に入学。 74年『大陸会議 の政策を全面的に擁護する』というパンフレットを書き,独立革命運動に参加。独立戦争が起ると砲兵隊大尉として活躍し,77年認められて G.ワシントン総司令官の副官をつとめた。その後オールバニで法律を学び弁護士を開業。 82年大陸会議にニューヨーク州代表として出席,三権分立による中央集権国家の必要を力説。合衆国憲法制定会議 開催に重要な役割を果し,多くの憲法反対論者に対して,『ザ・フェデラリスト』 The Federalistを執筆し憲法擁護の論陣を張って世論に多大の影響を与えた。 89年発足したワシントン政権の財務長官に任命され,公債の発行,合衆国銀行の設立,関税の設定,工業振興など新国家の経済的基礎を固めるため諸政策を次々に実施した。 94年国内消費税をめぐるウイスキー反乱 が起ったとき,みずから陣頭に立って連邦軍を指揮して鎮圧。 95年財務長官を辞職したが,連邦派 の指導者として政治的影響力は衰えなかった。しかし,連邦派の第2代大統領 J.アダムズ との対立を深め,その後 1800年の大統領選挙で共和派の T.ジェファーソン と A.バー が同数の選挙団投票を得て下院に決選が持込まれたとき,彼は連邦派の意向に反してかつての政敵ジェファーソンを推したため,党内の支持を失った。 04年宿縁の政敵バーとの決闘で受けた傷がもとで死去した。
ハミルトン Hamilton, Sir William Rowan
[生]1805.8.4. ダブリン [没]1865.9.2. ダブリン アイルランドの数学者,物理学者。幼少から異常な才能を発揮し,1820年頃数学に興味をもちはじめ,A.C.クレロー,ニュートン ,P.ラプラス などの著作を読破,22年幾何光学に関する論文を書いてアイルランド王立アカデミー会長から称賛された。 23年にダブリンのトリニティ・カレッジに入学し,在学中に天文学の教授に任命された。おもな業績は,独自の特性関数を導入して幾何光学を新しい数学体系に仕上げ円錐回折を予見したこと,現在ハミルトンの原理 として知られている原理を使って正準方程式 を導き解析力学の基礎を確立したこと,さらに乗法の交換法則の成立しない四元数 を発見したことなどがある。彼の業績の重要性は量子力学の誕生後初めて十分に認識された。 35年ナイトの称号を授けられ,37年アイルランド王立アカデミー会長。主著『光線系の理論』 (1827) ,『力学の一般的方法』 (35) ,『四元法の原理』 (66) 。
ハミルトン Hamilton, Richard William
[生]1922.2.24. ロンドン [没]2011.9.13. オックスフォード近郊 イギリスの芸術家。「ポップ・アート の父」と呼ばれた。ロイヤル・アカデミー,スレード美術学校などで学んだのち,デザイナーとして活躍した。1950~60年代の文化をパロディー化した作品が多い。ポップ・アートの先駆者として認められたのも,中産階級の家庭生活を風刺したコラージュによるところが大きい。代表作となったこのコラージュは『いったい何が今日の家庭をこれほど独特なもの,これほど魅力あるものにしているのか』Just What Is It That Makes Today's Homes So Different, So Appealing?と題し,インデペンデント・グループとして知られる画家たちが 1956年にロンドンのホワイトチャペル・ギャラリーで開いた『ジス・イズ・トゥモロー』展で発表された。後年,コマーシャル・アートをはじめ,写真に絵の具を塗る技法やスクリーン印刷,オブジェ・アートなども手がけた。なかでもビートルズ の通称『ホワイトアルバム』(1968)のジャケットデザインで知られる。
ハミルトン Hamilton, James
[生]1769. ロンドン [没]1829.9.16. ダブリン イギリスの語学教育者で,ハミルトン方式 (外国語教育法) の創始者。わずか4年の教育を受けただけで,フランスとハンブルクで数年間行商を営み,その間ハンブルクでフランス人亡命者ド・アンジェリ将軍にドイツ語を習った。 1815年農業とカリ工場の経営を計画してニューヨークに向ったが,航海中に翻意してド・アンジェリの方法による外国語教授を行うことにした。 16年フィラデルフィアでハミルトン方式の最初の授業を実施,以後アメリカやカナダの諸都市で教え,大成功を収めた。 23年イギリスに帰り,諸都市で成人を対象に外国語を教授した。彼は自分で教科書を著作したが,それは文法を用いるかわりに原文の各行に逐語訳を付したもので,この行間逐語訳式翻訳のおもなものに『ヨハネ福音書』『イソップ物語 』などがある。著書『ハミルトン方式の歴史と原理と実際と成果』 The History,Principles,Practice and Results of the Hamiltonian System (1829) がある。
ハミルトン Hamilton, Emma, Lady
[生]1765.5.12. チェシャー,グレートネストン [没]1815.1.15. カレー イギリスの外交官ウィリアム・ハミルトンの夫人。チェシャーの鍛冶屋の娘として生れたが,早く父を失い,1780年頃から将来の夫となるハミルトンの甥 C.グレビルの保護と教育を受け,美貌と才気で社交界の花形となった。やがてグレビルの借金返済の代償としてハミルトンの愛人となり,のち夫人となった (1791) 。夫の任地ナポリの社交界で,情報収集の役割を演じ,98年イギリス艦隊のナイルの戦い での勝利に貢献。これを契機に H.ネルソン の愛を得,1801年彼の娘ホレーシャを生んだ。夫ハミルトンの死 (1803) とネルソンの戦死 (05) により,莫大な遺産を得たが,ギャンブルと浪費にふけり,窮乏のなかでフランスに逃れ,カレーで世を去った。
ハミルトン(公) ハミルトン[こう] Hamilton, James Hamilton, 1st Duke of
[生]1606.6.19. [没]1649.3.9. スコットランドの政治家。2代ハミルトン侯の子。アラン伯ジェームズ・ハミルトンの直系にあたるためスコットランド王位継承権を所持した。オックスフォード大学を卒業後,1625年に3代ハミルトン侯を継ぎ,枢密顧問官となった。 31年にスウェーデン王グスタフ2世 救援のためドイツに遠征し,41年には国王チャールズ1世のスコットランド訪問に従った。 43年公爵に昇格。清教徒革命 の第2次内乱でスコットランド議会を掌握して大軍を集め,チャールズ1世救援にイングランドに侵入したが,48年8月プレストンの戦いで O.クロムウェル に敗れ,捕われて処刑された。
ハミルトン Hamilton
カナダ,オンタリオ州南東部の都市。オンタリオ湖の西端,トロントの南西 58kmに位置する。 1669年フランスの探検家ラサールがハミルトン湾岸に初めて上陸。 1778年ロイヤリスト (王党派) が町を建設,1846年市となった。 30年ハミルトン湾とオンタリオ湖を結ぶバーリントン運河が開通し,50年鉄道網の中心となって以降工業都市として発展。特に 93年に操業を開始した鉄鋼業は,カナダ鉄鋼生産の大きな部分を占める。ほかに鉄道,電機,衣料,化学などの工業も立地。重工業は湖岸部に集中し,港はオンタリオ湖と約 6kmの長さをもつ砂礫州で分けられる。また北アメリカ屈指の果樹生産の中心地で週3回開かれる果実,野菜,花卉の市場は有名。原子核研究で名高いマックマスター大学 (1887) やロイヤル植物園がある。人口 51万9949(2011)。
ハミルトン Hamilton
イギリス ,スコットランド 中南部,サウスラナークシャー の行政府所在地。グラスゴー の南東,クライド川 の左岸にあり,エーボン川の合流点に近い。炭鉱地帯にあったことから町は採炭によって発展,19世紀には鋳鉄,機械などの関連工業が進出した。しかし 1947年までに炭鉱はすべて閉山し,今日では果樹栽培,園芸,酪農の盛んな農業地帯を背後に控えて,おもにその商業中心地として,またグラスゴーの郊外住宅地として機能している。軽機械,繊維,食品などの工業も行なわれる。人口 4万8220(2004推計)。
ハミルトン Hamilton, William Gerard
[生]1729.1.28. ロンドン [没]1796.7.16. ロンドン イギリスの政治家。オックスフォード大学を出て 1754年下院に入り,貿易,植民,アイルランド関係の役職を歴任した。下院での処女演説 (1755.11.13.) が 15時間に及ぶ熱弁で,H.ウォルポール や S.ジョンソン らもその才気を評価してやまなかったので,「一発演説のハミルトン」 Single Speech Hamiltonとあだ名されたことで有名。
ハミルトン Hamilton, Sir William
[生]1730.12.13. スコットランド [没]1803.4.6. ロンドン イギリスの外交官,考古学者。エマ・ハミルトンの夫。陸軍軍人であったが,富裕な最初の妻との結婚後陸軍を退き,外交官となった。 1764~1800年ナポリ公使。その間にベズビオやエトナの火山活動を研究,数編の論文を公にした。また有名な古物収集家でもあり,彼の集めた数多くの財宝は大英博物館に納められている。妻の死 (1782) で多くの遺産を相続し,1791年,のちに H.ネルソンの愛人となるエマと再婚し,ナポリ社交界をにぎわした。
ハミルトン Hamilton, Sir William, Baronet
[生]1788.3.8. グラスゴー [没]1856.5.6. エディンバラ イギリスの哲学者。 1821年エディンバラ大学教授。スコットランド学派 (→常識哲学 ) の代表者で,認識論的には,カントの影響を受け,絶対者は認識の対象ではなく,信仰の対象であるとして,認識の相対性を主張した。また心理学的には能力心理学の立場に立った。主著『形而上学,論理学講義』 Lectures on Metaphysics and Logic (4巻,1859~60) 。
ハミルトン Hamilton, Sir Ian Standish Monteith
[生]1853.1.16. イオニア諸島 ,ケルキラ [没]1947.10.12. ロンドン イギリスの軍人。 1872年に陸軍に入り,第2次アフガン戦争 ,南アフリカ戦争 ,ナイル川探検などで活躍。日露戦争では日本軍への軍事使節団長を務めた。 1915年に地中海方面の司令官となり,第1次世界大戦中,ガリポリの戦い を指揮したが,戦果が上がらず,なおも作戦の継続を主張したため更迭された。著書『ガリポリ日記』 Galipoli Diary (2巻,1920) 。
ハミルトン Hamilton
アメリカ合衆国,オハイオ州南西部の都市。シンシナティの北 37km,グレートマイアミ川沿岸に位置する。 1791年インディアンとの戦いにそなえてハミルトン砦が建設され,94年これに接してフェアフィールと呼ばれる町が創設されたのに始る。砦は 96年に放棄され,この頃地名は A.ハミルトンにちなんで改称された。 1854年対岸のロスビルを合併した。製紙,ボルト,自動車車体,機械,ディーゼルエンジンなどの工業が行われる。マイアミ大学の分校がある。人口6万 1368 (1990) 。
ハミルトン Hamilton, Lord George Francis
[生]1845.12.7. [没]1927.9.22. ロンドン イギリスの政治家。 1868年保守党から下院に入る。経済学者としても著名で救貧法,失業に関する調査委員会の委員長として活躍。 78~80年教育行政を担当。 85~92年海相。海相時代の業績が最もよく知られている。海軍兵器管理権の陸軍省から海軍省への移管,海軍省情報部の創設,その他ドイツとの建艦競争期の立役者として,また第1次世界大戦初期の海相フィッシャー卿の補佐役として貢献した。
ハミルトン Hamilton, Anthony
[生]1645頃 [没]1719.4.21. サンジェルマン アイルランドの作家。フランス語で執筆。少年期の 10年と 45歳頃から死ぬまでの時期をフランスで過した。主著『グラモン伯回想録』 Mémoires du comte de Gramontは義兄の老伯爵が叙述した形をとっており,1713年出版されるや大成功を収めた。記録としては不正確であるが,ユーモアあふれる文体で当時のイギリス宮廷を如実に描いている。
ハミルトン Hamilton, Earl Jefferson
[生]1899.5.17. ミシシッピ,ハウルカ [没]? アメリカの経済学者,経済史家。スペイン近代初期の経済史を専攻。 1927~29年デューク大学経済学講師,29~44年同大学教授。その後ノースウェスタン大学,シカゴ大学,ニューヨーク州立大学 の各教授を歴任。主著に『スペインにおける戦争と物価 1651~1800年』 War and Prices in Spain 1651-1800 (1947) がある。
ハミルトン Hamilton, Patrick
[生]1504頃 [没]1528.2.29. スコットランド宗教改革の最初の説教者,殉教者。パリ大学に学び,ルター,エラスムスらの影響を受けた。帰国後,セントアンドルーズ大学で研究を続けたが,改革を説いたため異端の判決を受け,火刑に処せられた。 P.メランヒトン にならって,彼自身の神学論叢『ロキ・コンムネス』 Loci Communes (1526) を書く。
ハミルトン Hamilton, Andrew
[生]1676 [没]1741.8.4. フィラデルフィア スコットランド生れのアメリカの法律家。幼時にアメリカに移住し,1717年ペンシルバニアで弁護士となった。 35年,ゼンガー事件 として有名な名誉毀損事件で,印刷業者,J.ゼンガーの弁護に成功し,植民地アメリカにおける出版の自由確立の基礎を築いた。
ハミルトン Hamilton
大西洋北西部,バミューダ諸島の主島 (大バミューダ島) の北岸にある港湾都市。イギリス領バミューダの首都。 1790年に建設され,1815年セントジョージズ島のセントジョージに代ってバミューダの首都となった。 1956年以来自由港となっている。市の中心部に新ゴシック様式の大聖堂がある。おもな収入源は観光業。人口 969(2000)。
ハミルトン Hamilton
ニュージーランド,ノース島ワイカト地方の中心都市。オークランドの南南東約 110km,タウポ湖から流出するワイカト川中流右岸に位置する。付近はニュージーランド最大の平野で,乳製品や木材の集散・加工地。ワイカト大学がある。人口9万 8500 (1990推計) 。
ハミルトン Hamilton, William
[生]1665頃.レディランド [没]1751.5.24. ラトリック スコットランドの詩人。スコットランド高地特有のゲール語による詩の先駆者。 A.ラムゼーとの韻文による往復書簡やゲール語の伝承物語に拠る近代詩で知られる。
ハミルトン Hamilton
オーストラリア,ビクトリア州南西部の町。メルボルンの西 286kmにあり,19世紀なかばにポートランドと金鉱との中継地点として発達した。同州西部の農牧地域の中心都市の一つ。人口 9756 (1991推計) 。
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ハミルトン
米国の政治家。独立戦争中G.ワシントン の副官として活躍,戦後は中央政府強化論を主唱。ワシントンの下で初代財務長官(1789年―1795年)となり,公債の処理,合衆国銀行の設立等連邦財政の基礎を固め,また産業育成を提唱した。フェデラリスツ の指導者として活躍したが,政敵A.バーとの決闘で死亡。J.マディソン,J.ジェーとともに米国政治思想上の最重要文献とされる《ザ・フェデラリスト》(1787年―1788年)を執筆。 →関連項目ウィスキー一揆
ハミルトン
英国の画家。ロンドン生れ。1956年制作のコラージュ 作品《何が一体今日の家庭をこんなにも魅力的にしているのか?》(チュービンゲン美術館蔵)は,ボディ・ビルダーの裸体やヌードの女性,テープレコーダー,テレビなど,雑誌から切り抜いたイメージで現代的な家庭の室内風景を構成し,ポップアート 誕生の記念碑的な作品となった。大衆文化に積極的な関心を示し,1963年以降はスクリーン・プリントの技法を用いて連作《スウィンギング・ロンドン》(1968年―1969年)など,写真を含むさまざまな素材のイメージを合成した作品を発表している。
ハミルトン
アイルランドの数学者,物理学者,天文学者。ダブリンの生れ。1827年ダンシンク天文台の所員。ハミルトンの特性関数を導入して幾何光学を体系化,ハミルトンの最小作用の原理,ハミルトンの正準運動方程式等により解析力学の基礎を確立。また四元数を発見。 →関連項目解析力学 |四元数
ハミルトン(カナダ)【ハミルトン】
カナダ,オンタリオ 州南東部,オンタリオ湖西岸の都市。1813年,ジョージ・ハミルトンの農場が作られて以降発展。水陸交通の結節点をなす交通の中心。鉄鋼,電気機器,繊維,食品加工などの工業が盛ん。果実の大市場,マクマスター大学もある。51万9949人(2011)。
ハミルトン(ニュージーランド)【ハミルトン】
ニュージーランド北島の半島基部にある都市。豊かな平野の中心にあり,酪農,牧羊が盛んでチーズ,粉ミルクなどの工場がある。18万4838人(2006)。
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ハミルトン Alexander Hamilton
1755~1804
アメリカ建国期の政治家。西インド諸島 の生まれ。独立戦争中ワシントン の副官に抜擢され,ニューヨークの名門の女性と結婚した。連邦体制の強化に努力し,ワシントンの大統領就任とともに財務長官となり,連邦財政の基礎を固めた。その後も連邦党 の指導者として隠然たる勢力を持ち続けたが,1804年政敵アーロン・バーから挑戦され決闘で死んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」 山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
ハミルトン Alexander Hamilton
1757〜1804 アメリカの政治家 独立戦争中,ワシントンの副官。中央集権強化のためアメリカ合衆国憲法の起草を推進し,起草完了後,批准促進のためジェー・マジソンと『フェデラリスト』を著した。ワシントン大統領の下で財務長官となり,合衆国銀行の設立,保護関税など財政政策を推進し,州権論をとる民主共和党と対立した。公私の宿敵バーと決闘して死亡。
出典 旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について 情報
ハミルトン
2015年初演のミュージカル。原題《Hamilton》。作詞・作曲・脚本:リン・マニュエル・ミランダ。アメリカ建国の父の一人と称されるアレクサンダー・ハミルトンの生涯をヒップホップ音楽に乗せて描く。2016年に第70回トニー賞(ミュージカル作品賞)、ピュリッツァー賞戯曲部門を受賞。
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世界大百科事典(旧版)内の ハミルトンの言及
【バミューダ[諸島]】より
…大西洋航路の中継地,イギリス海軍の基地として利用されたが,現在はアメリカの空軍・海軍基地が設置されている。中心都市のハミルトンHamiltonではしばしば米英首脳会談が開かれた。 なお,バミューダとフロリダ,プエルト・リコの3点を結んだ三角地帯を〈バミューダ・トライアングル〉と呼ぶ。…
【摂動】より
…古典力学や量子力学において,解の求められている運動をする系に,さらに別の比較的小さな力が作用してもとの運動をわずかに変化させるとき,その小さな力の影響をいう。運動を規定するものとしては,ふつう系のエネルギーを表すハミルトニアンというものを使うが,摂動はそれに対する付加項として表される。太陽による惑星の運動に及ぼす他の惑星の力や,原子に作用する外部電場の作用などが摂動の例である。…
【摂動論】より
…近似解を求める方法として,物理的意味が明確であり普遍的に用いられるのが摂動論である。与えられた系に働く力(一般には系を記述する[ハミルトニアン]H )を主要部分H 0 と残りの小さい[摂動]H ′とに分ける。主要部分(H 0 )のみの場合の正確な解が求められているとき,この解をもとにして,摂動による補正を逐次近似で求める計算法が摂動論と呼ばれるものである。…
【波動力学】より
… シュレーディンガーの波動方程式は次のようにして与えられる。古典力学により電子を記述し,その座標をx i ,共役な運動量をp i ,[ハミルトニアン]をH (x i ,p i )とする。その表式においてp i を微分演算子(ħ/i )(∂/∂x i )でおきかえる。…
【ゼンガー事件】より
…約9ヵ月間獄中にあったが,ゼンガー夫人が獄中から原稿を受け取って新聞を出し続けた。同年8月4日に開かれた公判で,ゼンガーの弁護士ハミルトンAndrew Hamiltonは,言論の自由がいかに必要かを熱烈に訴え,記述内容の判断は裁判官のみが行い,陪審員は問題の新聞を出したかどうかだけの判断を求められる慣行に対して,陪審員も記述が真実か否かの判定をするように求め,〈無罪〉の評決を勝ちとることに成功した。この裁判の結果は,植民地時代のアメリカの新聞に本国政府を批判する実質上の自由を与え,独立戦争にいたる〈世論〉形成にも大きな役割を果たす里程標となった。…
【アメリカ合衆国】より
… 1787年起草の合衆国憲法の下では,共同の防衛に備え,合衆国陸海軍が常設されることになったが,同時に各州の民兵も組織,維持され,合衆国防衛は連邦軍と州兵との二重組織によって担当されることになった。建国当初フェデラリスト政権の下では,ハミルトンを中心に合衆国陸海軍の強化が企てられたが,1801年ジェファソンの大統領就任とともに常備軍の削減が行われ,以来合衆国は南北戦争のときは別として,19世紀末まで基本的には大規模な常備軍をもたずにすませてきた。これは,大西洋という自然の安全保障のおかげで,軍隊という人為的な安全保障装置が必ずしも必要とされなかったことによるところが大きい。…
【ウィスキー一揆】より
…ウィスキー反乱ともいう。1791年A.ハミルトン財務長官の提案にもとづき制定された内国消費税法は,巨額の公債利子支払いの財源捻出のため国産ウィスキーに対する課税などを決定した。ところが,民主的伝統ならびに反政府的気運の強いペンシルベニア西部では,農民が唯一の換金商品としてウィスキーを醸造していたので,この新税法は彼らに不当な財政負担をおわすものであるとしてこれに強く反対した。…
【ジェファソン】より
… 90年初代大統領G.ワシントンのもとに,国務長官に就任。しかし当時国務長官の権限は限られており,新興国としてのアメリカの基礎づくりは,財務長官A.ハミルトンの手になることが多かった。両者は財政政策・外交政策をめぐって激しく対立し,この対立は,アメリカ最初の全国的政党――フェデラリスツおよびリパブリカンズ――の形成に発展した。…
【重商主義】より
…政策史的には,ナポレオンの大陸制度,18世紀ドイツの領邦諸国家で〈官房学Kameralismus〉の名称で知られる経済・財政政策,本源的蓄積政策としての意義をもった1834年のドイツ関税同盟や1789年以後のアメリカの工業保護制度などが注目される。重商主義者としては,イタリアのA.セラ,フランスの[J.ボーダン]や[A.deモンクレティアン],ドイツの官房学者J.J.ベッヒャーとJ.H.G.vonユスティ,保護主義者としてはフランスのF.V.D.deフォルボネ,J.A.シャプタル,ドイツの〈新重商主義者〉と呼ばれる[F.リスト],〈アメリカ体制論者〉の[A.ハミルトン],D.レーモントらが注目される人たちである。【時永 淑】。…
【フェデラリスト】より
…1787年起草のアメリカ連邦憲法案がいよいよ各州憲法会議の批准を得るにあたって,強い抵抗が予想された。ことにニューヨークにおいては反対論が激しかったので,賛成派のA.ハミルトン(後の初代財務長官)はJ.ジェー(後の初代最高裁判所首席裁判官),ニューヨーク滞在中のバージニアのJ.マディソン(〈憲法の父〉と呼ばれ,後の第4代大統領)とともに,ニューヨークの新聞紙上に匿名で憲法賛成論を展開,各地の新聞にも転載された。憲法案批准という具体的な政治的課題と取り組みながら,権力と自由,中央政府と地方政府といった基本問題をとりあげたこの所論は,立憲政治の真髄を説いたものというべく,アメリカ政治学史上の古典の地位を占めている。…
※「ハミルトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」