19世紀末、南アフリカの産金国であるブーア人のトランスバール共和国の併合を企てて、イギリスが起こした戦争。ブール戦争、ボーア戦争、南ア戦争ともよばれ、第一次戦争、第二次戦争に分かれる。1877年、トランスバールの財政的危機とドイツの介入を恐れたイギリスは、同国を併合した。これに対しブーア人は1880年団結して蜂起(ほうき)し、翌81年マジュバヒルでイギリス軍を破り、同年4月プレトリア協定によって主権を回復した(第一次戦争)。ついで、1886年トランスバールで金の富鉱が発見されると、イギリスのケープ植民地首相セシル・ローズはその併合を企て、友人ジェームソンに命じて、95年同国に侵入させたが失敗し、ローズは責任をとり政界から引退した。しかし、チェンバレン・イギリス植民地相、ミルナー・ケープ植民地長官は併合をあきらめず、露骨な内政干渉を始めた。クリューガー・トランスバール共和国大統領は戦争を避けるため譲歩を重ねたが、ついにオレンジ自由国と軍事同盟を結び、1899年10月イギリスに宣戦を布告した(第二次戦争)。
開戦当初イギリス軍約1万5000、ブーア軍約4万で、戦闘の第一段階ではイギリス軍はブーア人の民兵に悩まされた。イギリスはロバーツを総司令官に、キッチナーを参謀総長に任命して本国から援軍を送り、1900年3月にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンを、6月にはトランスバール共和国の首都プレトリアを占領した。しかしその後、ド・ベットやド・ラ・レイなどの率いるブーア人のゲリラ軍が反撃に出たため、キッチナーは、ゲリラの根拠地を壊滅すると称して、非戦闘員の家屋や田畑を焼き払う掃討作戦を展開した。このため世界の民衆の同情はブーア人側に集まり、イギリス本国でも反戦の声が高まった。この戦争は帝国主義侵略戦争の典型とされ、特派員として派遣されたJ・A・ホブソンは取材をもとに『帝国主義論』を書いた。1902年、ブーア人側はついに降伏し、フェリーニヒング条約によって、ブーア人共和国はイギリスの直轄植民地となった。
[林 晃史]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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