目次 自然 住民 政治 経済 歴史 遺跡,文化 基本情報 正式名称 =キプロス共和国Kypriakí Demokratía(北部のトルコ系住民は,北キプロス・トルコ共和国Kuzey Kıbrıs Türk cumhuriyetiの成立を宣言している) 面積 =9251km2 人口 (2005)=80万人(キプロス共和国政府発表) 首都 =ニコシアNikosía(トルコ名レフコサLefkoşa)(日本との時差=-7時間) 主要言語 =ギリシア語 ,トルコ語 通貨 =キプロス・ポンドCyprus Pound(2008年1月よりユーロEuro,トルコ系住民地域ではトルコ・リラ)
東地中海の北東端,トルコの南64km,シリアの西97kmに位置する地中海第3の島(面積9251km2 )。トルコ語ではクブルスKıbrıs,英語ではサイプラスCyprus。1960年に独立して共和国となり,同年国連に,61年イギリス連邦に加盟。しかし74年のトルコ軍進駐以来,北部はキプロス・トルコ連邦国Kıbrıs Türk Fedele Devletiの成立を宣言(83年北キプロス・トルコ共和国として独立を宣言),南部はキプロス共和国Kypriakí Demokratíaにとどまり,住民の避難・移動によって,島は分断状態となった。北キプロス・トルコ共和国は現状の永久維持を,南のキプロス共和国は島の再統一を主張して現在にいたる。首都はともにニコシア(トルコ名レフコサLefkosa)。
自然 海岸線は曲折に富んで湾入や岬が多く,とくに北東部にはアンドレア岬が突出している。石灰岩質の山地がほとんどで,北側のキレニアKyrenía山脈の最高点は1023m,南側の最高峰はトロードス Tróodos山塊のオリュンポスOlýmpos山(1951m)である。両山地の間をメサオリアMessaoría平野が東西方向に入り込んでいる。大きな川や湖はなく,山地には降雨季にだけ流れる小川が多い。典型的な地中海性気候で,年平均気温はニコシアで約20℃。高温乾燥の夏(6~9月)と雨がちで不順な冬(11~3月)とにはっきり分かれ,春・秋は短い。
住民 キプロス共和国の公式推計(1994)によれば,島全体の総人口(72万9800)の約85%がギリシア系,約13%がトルコ系で,ほかに少数のアルメニア人 ,マロン派教徒などがいる。ギリシア系住民のほとんどがギリシア正教 の独立教会に属する。この教会は,431年のエフェソス公会議 およびビザンティン皇帝ゼノンの勅令によって,アンティオキア教会からの独立を認められて以来,アラブ,ベネチア,トルコ,イギリスなどの異教徒支配の間も一貫して独立と自治を獲得してきており,ギリシア人の指導者としての大主教の影響力は伝統的にきわめて大きい。トルコ系住民のほとんどはスンナ派のイスラム教徒 である。共和国の公用語はギリシア語とトルコ語で,英語もある程度通用する。北キプロスでは地名にもトルコ語化が進められている。
政治 1960年憲法は,独立主権の共和国と大統領制を規定している。大統領はギリシア系,副大統領はトルコ系で,各民族集団から選出され,ともに任期は5年。正・副大統領は行政権を行使し,副大統領は国防・外交の問題で拒否権を行使できる。歴史的背景と住民構成を配慮して内閣,国会,行政機関の構成員は,ギリシア系7,トルコ系3の比率となっている。国会は一院制で定員50議席,任期5年,議員は各民族集団から選出される(ただし1963年以降トルコ系住民は議会に代表を送っていない)。
1960年憲法に規定されたようなギリシア系とトルコ系の権力分担の体制も63年11月マカリオス 大統領が提起した憲法改正案を,キュチュク副大統領がトルコ系住民に不利であるとして拒絶したのを契機に破綻し,両系住民の対立が再燃,武力衝突に発展した。好戦的なエノシス(ギリシアへの復帰)運動の高揚に対抗したトルコ系住民は,トルコ本国の軍事的支援を要請,同時にトルコ系議員,公務員・軍人全員を引き揚げ,国の分割を主張した。64年国連軍が派遣され,両民族間に緩衝地帯(グリーン・ライン)を設置して平和維持に努めた。67年11月に成立したギリシア軍事独裁政権によるキプロスへの干渉は,またもや両民族の騒乱を引き起こしたが,このときも国連軍により事態は凍結された。しかしついに74年7月アテネの軍事政権とその支持をうけたエノシスの地下運動組織エオカの軍事クーデタによってマカリオスが追放されると,トルコ軍はキプロスへの全面的な軍事介入を断行,カエリニアを中心に首都ニコシアの北部を含む島の38%を占領した。このエオカのクーデタの失敗を契機として74年7月23日にはギリシアの軍事政権も崩壊し,11月にはマカリオスが再び大統領として帰国した。しかし75年北部ではキプロス・トルコ連邦国を宣言,同年9月までに島総人口の約3分の1が難民となって南北それぞれに移動を行ったため,キプロスは完全に北のトルコ系と南のギリシア系とに二分される結果となった。さらに83年11月,北部トルコ系住民は,〈北キプロス・トルコ共和国〉を宣言したが,今日これを承認しているのはトルコ一国のみである。
マカリオスの死(1977)後,南のキプロス共和国は,大統領キプリアヌ(在職1977-88),バシリウ(1988-93),クレリデス(1993-2003),パパドプロス(2003- )のもとで,南北の分断という事態をあくまで一時的なものとみなし,再統一を目ざすべく,国連,非同盟諸国,イギリス連邦,EU諸機関に働きかけてきた。これまで国連主導のもとで,数回にわたって調停が行われ,〈連邦制〉による解決などが提示されたものの,大きな進展は見られていない。両民族のコミュニティでも対立は継続し,特に96年に,北部占領に抗議してギリシア系キプロス人が国連の緩衝地帯に侵入したことに端を発する一連の殺害事件は,南北の緊張を高めた。97年のギリシア系キプロス人の防衛を目的としたロシアからのミサイル購入の動きは,北キプロスのみならず,アメリカ,ヨーロッパ諸国に非難され,その射程距離内に位置するトルコは,配備阻止のための軍事行動の可能性を明らかにした。一方ギリシアはこれに反発し,キプロス共和国の対トルコ防衛政策を支持した。また,キプロス共和国が1990年に正式にECへの加盟申請を行って以来,北キプロスは一貫してそれに反対し,トルコとの合併を示唆するなど強硬な態度をとっている。
経済 独立当時は,遅れた農業(労働人口の46%,GNPの18%)を中心とした低開発経済の諸特徴を示していたが,国連の開発案に基づく五ヵ年計画や世界銀行・IMFの融資の下に,1960年代の国民経済は飛躍的に成長し,観光産業および手工業産業の急速な拡大によるにわか景気の時代を迎えた。にもかかわらず,この増大する繁栄の陰にトルコ系キプロス人はむしろ抑圧され,彼らの1人当りの収入は61年にはギリシア系キプロス人の80%であったものが,71年には50%にまで落ち込んだ。これが1963-64年の両民族分極化の一因に考えられている。74年の事変以後の島の分断と難民の問題は共和国の経済発展にとって致命的であった。1960年以降,年平均7%を示していた経済成長率は止まり,失業率は一時は難民のために30%に達した。しかしその後の修復も著しく,70年代後半には再び好景気を迎えた。この要因には,難民収容の必要から生じた建築ブーム,海外移民からの資金援助,農作に適した好天に恵まれたこと,レバノン内戦 後の同地からの企業家の流入,輸出の増加(とくにアラブ諸国が全体の48.2%を占めるまでに伸びた)によると見られている。
一方,72年のECとの間の連合協定以来,準加盟国としてEUとの関係は強化され,98年3月には正式加盟手続が開始された(2004年正式加盟)。
今日,産業の中心をなすのは,観光,〈オフショア 〉業務を含む銀行業を主とするサービス業で,GDPの69.2%を占め,全労働人口の62%が従事している(1994)。海運業も急速に成長し,95年にはキプロス船籍登録は世界第4位となった。かつての主産業であった農林水産業に占める労働人口は次第に減少し,1985年22.6%から94年には12.4%(GDPの5.3%)になった。産物は小麦,大麦,ジャガイモ,ニンジンその他野菜類,マメ,かんきつ類,ブドウである。工業部門はGDPの25.4%,全労働人口の25.6%を占める。鉱産資源としては古代より知られる黄銅鉱のほかに,黄鉄鉱,石綿,クロム,セッコウなどがある。衣料品は主たる輸出品で全輸出額の20.3%(1994)にものぼる。全体的な輸出額の増加にもかかわらず貿易収支は毎年大幅入超である。主な貿易相手国はイギリス,アメリカ,アラブ諸国,フランス,ギリシアである。輸出品物は衣料,イモ,薬品。輸入品目は自動車,鉱物,織物,食糧。以上が北キプロスの占領地域を除外した状況であるが,一方,南北の経済格差は拡大しつづけ,1994年の時点では,1人当りのGNPで比較すると,南(1万2500米ドル)は北(3093米ドル)の4倍の差を示している。
歴史 アジア,アフリカ,ヨーロッパ3大陸に囲まれた東地中海の要衝にあって,古来さまざまな民族がこの地を往来し,多彩な歴史を織りなしてきている。遺跡から確認されるところでは,キプロスには前5800年ころより新石器文化の存在が認められる。ついで前2300年ころ青銅器文化を迎え,その後期(前1600-前1050)には,オリエント の商業中心地として繁栄したことはヒッタイト やメソポタミア の記録からも明らかである。キプロスは,この時代以来豊富な銅の産出で知られるようになり,キプロスという呼称も,これに関係するといわれる。前1450年ころには,エジプトのトトメス3世の支配を受け,前1400年ころからミュケナイ との交易が開かれ,前13世紀にはアカイア系ギリシア人(アカイア人 )が島に到来,植民を行った。このギリシア文化の影響は決定的で,鉄器文化時代(前1050-前950)には,キプロス原住民とアカイア人の文化的融合が進み,ここにシリア,アナトリア 的要素を含む現代キプロス人の核ができたと考えられる。
オリエント各地との交易は前9世紀以降さらに活発になり,前800年ころにはフェニキア人が島に来住した。前709-前670年アッシリア支配,前560年ころよりエジプト支配下に入ったが,この両支配の間の約100年が古代キプロスの黄金時代で,都市国家が発達し王政が敷かれるようになった。前525年ころアケメネス朝ペルシアの支配に帰し,その下ではサラミス王エウアゴラスが反ペルシア・親アテナイ勢力の伸張に努め,前350年にはキプロス諸王が反乱を起こすなど,解放の動きはあったが成らず,アレクサンドロス大王 のイッソスの勝利(前333)ののち,キプロス諸都市は西方からの征服者を迎え入れた。やがてプトレマイオス家の領有に帰し,ついで前58年ローマに併合された。プトレマイオス家とローマ支配時代には,パフォスのアフロディテの聖壇が民族宗教・文化の中心であったが,1世紀半ばころにはパウロとバルナバの伝道がここに及んでキリスト教化が始まった。
ローマ帝国の東西分裂(395)後は,ビザンティン帝国 の一部となったが,7世紀以来しばしばアラブ・イスラム教徒の侵入を受け,ニケフォロス2世(在位963-969)によってビザンティン帝国に奪回されはしたものの,第3回十字軍時代には,イギリスのリチャード1世に占領されて(1191-92),テンプル騎士団 に根拠地として与えられた。その後エルサレム王国 (1099-1187)の王であったフランスのギー・ド・リュジニャン の手に帰し,以後3世紀にわたりこの王朝の下で封建君主制が続いた。15世紀以降は地中海上の覇権を争うジェノバ,ベネチア両国の基地と化し,1489年ついに島全体がベネチアの領有に帰したが,1571年にはオスマン・トルコがこれに代わった。
オスマン帝国支配初期,アナトリアからは多くのトルコ人のイスラム教徒が移民し,キプロス各地に拡散してキリスト教徒住民と共存・融合するようになった。これがトルコ系キプロス人の起源である。18世紀後半以降ギリシア系キプロス人は,島の解放を目ざしてしばしば反乱を起こすようになり,1821年に開始されたギリシア本土の独立戦争にも多くが参加した。しかし露土戦争ののち1878年,スエズ運河防衛の軍事基地としてキプロスに注目していたイギリスが,オスマン帝国から島の行政権を獲得し,1914年に併合した。そして1925年にはローザンヌ条約 (1923)に従って正式にイギリスの直轄植民地となった。その後1950年代からギリシア系住民によるエノシス運動 を中核とする反英民族主義運動が展開した。これに対するトルコ系住民による反エノシス運動と時の中東国際情勢がからんで事態は紛糾を極めたが,59年2月イギリス,ギリシア,トルコ3国と住民代表の間に,独立に関するチューリヒ・ロンドン協定 が成立し,大統領選挙(大主教マカリオス3世が当選),国会選挙を経て60年8月16日キプロスは正式に共和国として独立を宣言するにいたった。 →キプロス問題 執筆者:真下 とも子+村田 奈々子
遺跡,文化 新石器時代後期の遺跡には,南岸のリマソル西方のコイロコイティア Choirokoitíaに,キプロス最古の農耕集落址(前5800-前4900)があり,石を用いた円形住居や石製の容器や武器が発見されている。特に墓域をつくらず,死者を住居の床下に埋葬する習慣はこの時代の特徴である。前5000年ころからは焼いた土器が出現し,磨いた赤色土器,白地に赤色文様の土器,櫛目文様の土器などが,コイロコイティアやその近くのカラバソスKalavassós,エリミErími,北西部のアンベリクAmbelikoú,北東岸のトゥルーリなど各地で出土している。青銅器時代初期(前2300-前2000)には各地に石室式あるいは竪穴式の独立した墓がつくられ,発掘の結果,そこからアナトリア風の突出した注口をもつ嘴壺(くちばしつぼ),人物・動物・鳥の像をあしらったり,刻文を施した独創的な変形壺,極端に抽象化された板状土偶,多数のテラコッタ像が発見された。中期(前2000-前1600)には,青銅のほかに金や銀の装身具の製作も始まる。キプロスで最古の都市エンコミEnkomiが建設されたのもこの時代(前1900ころ)である。後期(前1600-前1050)には,クレタ・ミュケナイ文明との接触や,ギリシア人(アカイア人)の移住により,キプロスの言語・宗教・美術・習慣などは決定的な影響を受けた。エンコミをはじめギリシア人都市サラミスSalamis,クリオン,パフォス,ラピトスLapithos(現,ランブサLamboúsa),フェニキア人都市キティオンKition(現,ラルナカLárnaka)などの遺跡から出土した多数の青銅製品,象牙細工,金銀細工,土器などは,当時のキプロス工芸のレベルの高さをよく示している。前1050年ころからの鉄器時代には,土器はギリシアの幾何学様式 に似た抽象的図形文で飾られる。一時期フェニキアの影響も現れるが,前6世紀中ごろからは,ほぼギリシア美術と並行した発展をとげる。アフロディテ信仰の中心地パフォスやクリオン,サラミス,ソロイSóloiなどにはギリシア・ローマ時代の神殿,劇場,浴場,競技場などの遺跡が残る。
中世のキプロスはビザンティン帝国領となり,教会建築には,ニコシアの聖ソフィア(13世紀,現,セリミエ・モスク)とファマグスタ の聖ニコラウス (14世紀,現,ララ・ムスタファ・パシャ・モスク)のゴシック大聖堂やラルナカの聖ラザロ聖堂(9~10世紀),修道院には地中海東部で最も美しいといわれるベラパイス修道院(13世紀)や聖クリュソストモス修道院(11世紀),キッコ修道院(12世紀)などがある。また,城塞建築にはシェークスピア の《オセロ》の舞台となったファマグスタ城をはじめ,キレニアKyrenía,カンタラKantára,コロッシKolóssiの城などが知られている。 執筆者:松島 道也