ペルシャ湾の出口に位置し、七つの首長国で構成される連邦国家。国土の大部分は砂漠で、人口は977万1千人(2019年推定)。ビジネスの中心地であるドバイには、中東・アフリカの販売拠点として多数の日系企業が進出。外交ではイスラム諸国や西側諸国との協調を基本とする。イスラム教シーア派大国イランの影響力が中東で拡大する近年、スンニ派のUAEは、イランの脅威を共有するイスラエルとの関係改善を模索していた。(共同)
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アラビア半島東部、ペルシア湾(アラビア湾)南岸に位置する7首長国より構成される連邦国家。略号UAE。西からアブ・ダビ、ドバイ、シャルジャー、アジマン、ウム・アル・カイワイン、ラス・アル・ハイマ、フジャイラーの各首長国が並ぶ。かつてはトルーシャル諸国とか、トルーシャル・オマーンとよばれ、イギリスの保護下にあったが、1971年に独立した。領土は、北西部のカタールから北東部のオマーンに続く650キロメートルに及ぶ海岸線と、西と南のサウジアラビアに延びる砂漠、東のオマーンに囲まれた8万3600平方キロメートルの地域である。人口448万8000(2007推計)。首都はアブ・ダビ市。
[原 隆一・吉田雄介]
国土の大部分は砂漠地帯であり、ペルシア湾沿岸部は平坦(へいたん)で塩分が多く、サウジアラビア国境のアル・アイン(泉の意)地方は豊かなオアシス地帯である。北東部のムサンドゥム半島東部には、南北80キロメートルにわたるアハダル山脈が走り、最高峰は3000メートル近い。ペルシア湾沿岸の海岸線は複雑に入り組み、海は遠浅で沖には多くの島やサンゴ礁が点在する。ドバイ港は自然の入り江を利用した数少ない良港である。
人口の集中するペルシア湾沿岸地域(アブ・ダビ)の気候は、冬季の数週間(1月平均気温18.8℃)を除き、高温多湿で、夏には45℃を超えることもある(8月平均34℃)。年間降水量は60~100ミリメートルで、冬に集中する。また冬と初夏にはショマールとよばれる北西季節風が砂嵐(すなあらし)を運ぶ。内陸部はさらに降水量が少なく、砂漠気候となっている。
[原 隆一・吉田雄介]
16世紀にはポルトガルがペルシア湾岸地域で商業を独占していたが、17世紀にはオランダが、18世紀後半にはイギリスがインド洋の制海権を握るようになった。17~19世紀にかけて、伝統的な海上での生業を困難な状況に追いやられたペルシア湾岸地域の住民は海賊となっていった。とくに19世紀初頭ワハビ教団(サウジアラビア建国の母胎)の支配下に入ると、西欧勢力に対抗する海賊行為がピークに達した。このためイギリスは海賊の本拠地ラス・アル・ハイマ港や海賊海岸とよばれた沿岸各港を征服し、1820年に海賊行為と奴隷貿易の禁止協定を結び、また1835年には年間6か月間の真珠採取中は戦争を停止する海上休戦協定を各首長と結んだ。このことから、この地域をトルーシャル・コースト(休戦海岸)とよぶようになった。19世紀末になると西欧列強がこの地域に利権を求め始めたため、イギリスは、諸外国との自由な交渉を禁止する独占協定を各首長と結び、保護下に置いた。
第二次世界大戦後、インドやパキスタンが独立し、イギリスが植民地から撤退し始め、またこの地に石油が発見されると、ペルシア湾岸地域は政治の激動時代に入った。イギリスはドバイ駐在の政治顧問を議長とし、年2回9か国首長が集まる休戦首長評議会を組織し、将来の連邦化をもくろんだ。しかし1962年アブ・ダビで、その後ドバイで石油生産が軌道に乗り始めると、各首長間の利害関係が表面化し、連邦化への動きは難航した。結局カタールとバーレーンの産油国は分離独立し、1971年12月、イギリス軍の撤退後、ラス・アル・ハイマ(のち1972年2月に連邦加盟)を除く6首長国によってアラブ首長国連邦が結成された。
[原 隆一・吉田雄介]
独立時に暫定憲法が制定された。最高決議機関は7首長国代表者からなる連邦最高評議会で、このなかから初代大統領にアブ・ダビのザイード首長、副大統領にドバイのラシード首長を選出した。大統領は首相と内閣を指名し、また議会は、各首長に任命された20名と選挙で選出された20名の計40名の議員による連邦国民議会で、任期は4年。40名の議員のうち9名を女性が占めている(2009)。立法権は限定的である。連邦発足後、石油に絡む領土紛争が続発した。砂漠地帯ではブライミー・オアシスとサウジアラビアとの間で、またペルシア湾ではアブ・ムーサ島および大・小トゥム島とイランとの間で、それぞれ係争関係が生じた。
1973年の第四次中東戦争とそれによる石油危機を契機に、まとまりが悪かったアラブ首長国連邦は結束し、強力にアラブ陣営を支持した。1974年以降、莫大(ばくだい)なオイル・ダラーが流れ込み、その経済力と政治的団結の雰囲気のなかで、大統領のザイードは次々と行政改革に取り組み、連邦体制強化を打ち出していった。しかし、その発言力の増大を警戒し、各首長国の独立性を尊重すべきであるとするドバイの副大統領ラシードとの間に主導権争いが表面化した。とくに1979年2月にペルシア湾の対岸でイラン革命が起こると、湾岸の安全保障体制再編化を主張するザイードと、国内にシーア派が多いこともあって急遽(きゅうきょ)イランのホメイニ政権に接近する現実派のラシードとの対立は激化し、連邦の分裂騒ぎにまで発展した。しかしこの危機はアラブ諸国の調停で、副大統領のラシードが首相を兼任し、新内閣を組織することでなんとか避けることができた。また、いままで連邦予算の90%以上を負担してきたアブ・ダビにかわり、各産油首長国はそれぞれ石油収入の50%を予算に醵出(きょしゅつ)することに合意した。1981年11月の再選以来、ザイードは1996年12月に6選を果たしている。首相兼副大統領のラシードは1990年10月に死去、息子のマクトム皇太子がその職を継いだ。1996年5月に連邦最高評議会は暫定憲法を改正して恒久的なものにしている。
[原 隆一・吉田雄介]
経済の中心は石油であり、典型的なアラブ産油国型である。2006年現在の確認石油埋蔵量は978億バレルと推定される。石油が発見される以前のおもな経済活動はオアシス農業、沿岸漁業、中継貿易などに限られていた。しかし1959年にアブ・ダビで商業ベースにのる油田が発見されると、経済情勢は激変した。原油生産量は1970年の日産平均69万5000バレル(当時アブ・ダビのみ)から、1977年には3首長国で日産平均199万バレルのピークに達したが、その大部分は欧米や日本に輸出され、全国家収入の90%近くを占めた。1973年と1978年の二度にわたる原油価格の大幅値上げでオイル・ダラーは急増し、1979年120億ドル、1980年には160億ドル以上になった。巨大な石油収入をてこに多くの経済社会開発プロジェクトが組まれた。1981年の1人当り国民所得は2万5000ドルで、クウェートを上回り世界第1位であったが、1990年代以降は為替(かわせ)レートや石油価格の変動が激しいために年ごとに大幅に変動している。石油に依存する経済の宿命で、1人当り国民所得の順位は1990年代には50位台にまで落ちた。また、経済も1976年をピークに停滞したため、石油依存から産業の多様化を目ざしたが、国内市場が小さく、熟練労働者も不足しているため急速な工業化はむずかしく、金融国家や観光国家への道も模索している。
国土の大部分が砂漠のため、耕作可能面積は0.4%にすぎない。このため農業は砂漠のオアシス地帯とムサンドゥム半島の一部に限られている。小麦、大麦、雑穀類、ナツメヤシ、マンゴー、飼料作物、タバコなどが主要生産物である。沿岸には魚類が多く、また20世紀初頭には天然真珠産業も栄えていた。現在の漁業の中心はムサンドゥム半島東部で、とくにアジマンは有職人口の3分の1近くが漁業に関連している。製造業は多くの工業化プロジェクトの完成により急速に成長している。精油所、石油関連産業、製粉、建設資材、セメント、清涼飲料工場などがおもなもので、これらは二大産油国のアブ・ダビとドバイに集中している。
2006年の石油生産量は日産平均297万バレルに達している。2007年の国内総生産(GDP)は1901億ドル、国民1人当りGDPは4万2349ドル、1人当り国民総所得(GNI)は4万1000ドルとなった。
2006年の輸出額は1425億ドル、輸入額は861億ドルで、おもな輸出品目は原油、天然ガス、石油製品、アルミニウム、電化製品などの再輸出品、輸入品目は自動車、機械、電化製品など。おもな輸出相手国は日本、韓国、タイ、インド、イラン、輸入相手国はアメリカ、中国、インド、ドイツ、日本となっている。
アラブ首長国連邦から日本が輸入する原油量は、日本の年間原油総輸入量(15億2934万バレル。2008)の25.4%を占めており、日本の原油輸入先としてはサウジアラビアについで第2位である。2007年の日本との貿易額は、輸出323億ドル、輸入80億5000万ドルと日本の大幅な輸入超過になっている。日本へのおもな輸出品目は石油、天然ガス、金属類で、おもな輸入品目は輸送機器、機械類、家電などの電化製品、鉄鋼などである。
[原 隆一・吉田雄介]
オイル・ブームでアブ・ダビやドバイを中心に外国人労働者が大量流入した。なかでもインド人、パキスタン人が60%、ついでアラブ諸国からの流入者が25%を占める。1980年代に入ってからはフィリピン人も急増している。1995年には、雇用主を殺害した罪で起訴されたフィリピン人メイドの裁判をめぐってフィリピン政府との間で国際問題に発展した。また、出稼ぎ労働者の急増で、男性の人口比率が1995年には66%に達した。公用語はアラビア語でペルシア語の影響が大きい。宗教はイスラム教スンニー派が大部分だが、ドバイにはシーア派が多い。
教育制度は、小学校6年、中学校3年、高等学校3年の6・3・3制で、義務教育は小学校の6年間である。高等学校まで進学するのが一般的で、大学進学率も高い。公用語のアラビア語以外に小学校1年から英語が必修となっている。大学にはアラブ首長国連邦大学(UAE大学)、ザイド大学、シャルジャー大学、シャルジャー・アメリカン大学、ドバイ・アメリカン大学などがある。
[原 隆一・吉田雄介]
『脇祐三著『中東激変』(2008・日本経済新聞出版社)』▽『日本経済新聞社編『まるごとわかる中東経済』(2009・日本経済新聞出版社)』▽『池内恵著『中東危機の震源を読む』(2009・新潮社)』
基本情報
正式名称=アラブ首長国連邦Dawla al-Imārātal-`Arabīya al-Muttaḥida, United Arab Emirates
面積=8万3600km2
人口(2011)=789万人
首都=アブ・ダビーAbū Zabī(日本との時差=-5時間)
主要言語=アラビア語
通貨=ディルハムDirham
ペルシア湾の南岸,カタル,オマーン,サウジアラビアにはさまれた連邦制国家。UAE,ア首連と略称される。アブ・ダビー,ドバイ,シャルジャ,ラス・アルハイマ,アジュマーン,フジャイラ,ウンム・アルカイワインの7首長国(アラビア語でimāra,英語でemirate)により構成される。このうち,首都のあるアブ・ダビーが国土の80%を占める。
東西にのびる海岸線は長さ約700km,南北の幅約100~300km,領内を北回帰線が通過している。海岸部では,夏は極度に高温多湿となり最高気温は50℃に達するが,冬は最高30℃で夜間は10℃以下になることもある。降水量は,平地部では年間30mmを割るのが普通で砂漠を形成するが,標高1000mを超すところもある東部山岳地帯では150mm,ときとして200mmになり,農業地帯といえるところも若干ある。しかし大半が植生の少ない砂質土のため,雨が降ると鉄砲水となって洪水をおこすことがある。北西の風に伴ってときとして砂嵐がくる。海岸は極端な遠浅で暗礁や島が点在する。夏期の水温は32℃になり蒸発も多量であるため,塩分濃度は世界最高の約4万ppmをかぞえる。魚類は比較的豊富。漁業や真珠採取のほかに,ペルシア湾の出口でホルムズ海峡をへてイランが目と鼻の先にあるという立地条件から,古来国際商業でも栄えた。東方からダウ船で運ばれてくる荷物がここでおろされて西方へ再輸出される。したがって古くからイラン人,パキスタン人,インド人の居住者があり,服装や住居にもその影響のみられるところがある。奴隷貿易時代にアフリカから連れてこられた黒人の子孫もいる。
17世紀にはポルトガルに代わってイギリスが進出,18世紀中ごろには絶対的な優勢を確立する。こうしたイギリスの支配に抵抗して,地元住民たちは外国船舶への妨害に出たが,イギリスはこれを海賊行為とみなし,港湾を中心に武力で征圧した。この地が海賊海岸と呼ばれたのはこのためである。その後イギリスは各首長国と休戦協定を締結,1853年には各協定を一本化し,恒久休戦条約を結んだ。以後この地域は休戦海岸と呼ばれるようになる。イギリスは1892年から各首長国と外交・行政権に関する排地条約を結び,イギリスの保護領下においた。
1968年,イギリスが湾岸からの撤退を決めると,7首長国はバーレーン,カタルとともに連邦結成協定に署名した。しかし,71年バーレーン,カタルが単独で独立したため,ラス・アルハイマを除く6首長国がアブ・ダビー首長ザーイドを大統領にアラブ首長国連邦として独立した。翌72年にはラス・アルハイマも連邦に加盟,今日のアラブ首長国連邦が成立した。
連邦の最高機関は各国首長で構成される最高評議会であり,そのもとに連邦政府とその諮問機関,各国代表40人からなる連邦国民評議会が置かれる。大統領は最高評議会で選ばれ,同評議会議長を兼ねる。連邦最高評議会の決定では5人の首長の同意が必要だが,アブ・ダビーとドバイは拒否権をもつ。連邦内では行政の一元化も進み,1976年には国防軍の統合も決定されたが,統一促進にはなお慎重な勢力もある。
1人当りGDP(国内総生産)が1万6500ドル(1995)という連邦の経済の中心は石油である。石油の生産が始まったのはアブ・ダビーで1962年,ドバイで69年,シャルジャで74年で,全生産量の80%をアブ・ダビーが占める。96年の生産量は220万バレル/日であり,その60%以上が日本に輸出されている。石油収入による工業化の一環として,ルワイス(アブ・ダビー)とジュベル・アリ(ドバイ)に大規模な工業団地がつくられている。とくにジュベル・アリの自由貿易地域(フリーゾーン)は100%外国資本を許し,スポンサーもいらず,関税,所得税を免除するなどの措置がとられており,数多くの外国企業が進出している。国内でのおもな工業は石油精製,ガス液化,化学肥料,セメント,鉄加工,海水淡水化,食品,繊維等である。貿易では輸出入とも日本と欧米の比重が大きい。商業活動も活発で輸入の15%は近隣へ再輸出されている。通貨はディルハム(DH)である。
政府は農林水産業にも力をいれているが,GDPの3%を超えることはなく,農産物消費の多くは輸入に依存している。近年の農業開発がかえって地下水位を下げて塩害をもたらすという矛盾もある。
近年の石油産業の発展とともに人口は増え始め,1968年にはわずか18万人であったものが96年の推計では250万人に増加した。これは主として,石油収入による開発投資がうみだした急激な雇用増をまかなうために移民労働者が流入したためである。
執筆者:冨岡 倍雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ペルシア湾南部の連邦国家。アブダビ,ドバイ,シャルジャ,ラアスルハイマ,アジュマーン,ウンムルグワイン,フジェイラの7首長国からなる。19世紀にイギリスが進出,当初海賊海岸などと呼ばれたが,のちその保護下に入り,1971年独立。真珠の採取が経済の中心だったが,60年代から世界有数の産油国となる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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