クラマー(読み)くらまー(英語表記)Dettmar Cramer

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラマー」の意味・わかりやすい解説

クラマー
くらまー
Dettmar Cramer
(1925―2015)

サッカー選手、監督、国際サッカー連盟(FIFA(フィファ))巡回コーチ。ドイツ生まれ。第二次世界大戦ではイタリア戦線に従軍した。戦後ボルシア・ドルトムントの選手となるが、膝(ひざ)を傷めて1951年に引退した。ドイツ西部地域協会の主任コーチとなる。1960年(昭和35)、オリンピック・東京大会での活躍を目ざす日本代表チームのコーチとして来日、手腕を振るった。日本を離れた後はFIFAの技術委員となり巡回コーチとして90を超える国を訪れた。ブンデスリーガでの監督経験もあり、バイエルン・ミュンヘンを率いてヨーロッパ・チャンピオンズ・カップで二度(1974~1975年、1975~1976年シーズン)の優勝を飾った。

 日本とのかかわりは、当時の日本蹴球(しゅうきゅう)協会会長の野津謙(1899―1983)が西ドイツサッカー協会にコーチの派遣を依頼したことに始まる。1960年8月、日本代表がドイツ合宿を行ったときから指導を開始、以降1968年までの約8年間、日本代表強化に力を注いだ。クラマーが徹底したのは基本のたいせつさと正確さであった。日本代表の技術のなさを見抜き、高度な戦術を授けてくれると期待する関係者の思いをよそに、徹底して基本を教え込んだ。その教えは日本代表をオリンピック・東京大会でベスト8に導き、続くメキシコ大会では銅メダルを獲得するという形で結実した。技術面だけではなく、自らの人間性でも日本人を魅了し、当時、「どん底」とよばれていた日本サッカー界を精神的にも鍛え直した。同時に「タイムアップの笛は、次の試合へのキックオフの笛である」「サッカーは少年を大人にし、大人を紳士に育てるスポーツである」ということばに代表されるように数々の名言を残した。また、国際試合の経験を増やすこと、各年代に専属コーチをつけること、コーチ育成システムを確立すること、リーグ戦を実施すること、芝生グラウンドをつくることなど、数々の提言を行った。日本サッカーに大きな転機をもたらしたクラマーは、「日本サッカーの父」とよばれた。1971年9月に、日本政府から長年の功績をたたえられ勲三等瑞宝(ずいほう)章が与えられた。また2005年には、永年にわたり日本サッカーの発展に尽力した功労者をたたえる「日本サッカー殿堂」の第1回受賞者に選ばれた。

[中倉一志]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クラマー」の意味・わかりやすい解説

クラマー
Cramer, Dettmar

[生]1925.4.4. ドルトムント
[没]2015.9.17. ライトイムビンクル
ドイツのサッカーコーチ。1960年に 4年後の東京オリンピック競技大会に向けた日本代表チーム強化のため訪日以後もたびたび訪日して日本サッカー界を情熱的に指導し,釜本邦茂,杉山隆一らを中心選手に育てるなどオリンピック競技大会の 1964年東京大会ベスト8,1968年メキシコシティー大会銅メダルに貢献した。指導者や若手選手の育成,競技人口の拡大にも寄与したほか,日本スポーツ界初の全国リーグとなった 1965年の日本サッカーリーグ(→Jリーグ)設立を提言。「日本サッカーの父」「日本サッカーの育ての親」といわれる。国際サッカー連盟 FIFAの公認指導者を務めるなど世界 50ヵ国以上をコーチとして訪れ,ドイツなどのプロクラブも指揮母国の強豪バイエルン・ミュンヘンの監督として 1974年からのヨーロッパ・チャンピオンクラブズカップ(→ヨーロッパ・チャンピオンズリーグ)3連覇のうち 1975,1976年の連覇に導いた。1989年から 2年間,日本サッカー協会に技術アドバイザーとして招かれ,低迷していた日本代表の再建のために尽力した。(→メキシコシティー・オリンピック競技大会

クラマー
Klammer, Franz

[生]1953.12.3. モースワルト
オーストリアアルペンスキー選手。滑降のスペシャリストとしてワールドカップで 25勝し,1976年のインスブルック・オリンピック冬季競技大会で金メダルを獲得した。1975年のワールドカップ滑降で全 9戦中 8勝したため,翌 1976年のインスブルック・オリンピックでも優勝候補と目されていた。前大会札幌オリンピック冬季競技大会の覇者であるスイスのベルンハルト・ルッシとの戦いは予想以上に厳しかったが,クラマーはオリンピックの歴史に残る緊迫した滑りを見せた。途中まではルッシに 1秒ほど遅れたものの,最後の 1000mをいつ転倒してもおかしくない捨て身の姿勢で攻め,わずか 3分の1秒差で金メダルをかちとった。1975~78年までワールドカップの滑降を連覇し,1983年にも優勝している。1974年の世界選手権大会では,複合で金メダルを,滑降で銀メダルを獲得した。1981年にはオーストリアのスポーツマン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。長年の活躍によって,当代で最も大胆かつ刺激的なアルペンスキー選手の一人といわれるまでになった。

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