改訂新版 世界大百科事典 「コシチューシュコ」の意味・わかりやすい解説
コシチューシュコ
Tadeusz Kościuszko
生没年:1746-1817
ポーランド最初の独立蜂起を指導した人物。19世紀以来,国民的な英雄とされている。ポレシエ地方(現在の白ロシア共和国領)の農村に下級シュラフタ(貴族)の次男として生まれた。1765年その有能さが認められて国王スタニスワフ・アウグストがシュラフタの子弟教育のためワルシャワに開いた騎士学校に入学し,69年には国王の援助でパリに留学した。パリでは工兵学,とくに要塞建築の技術を学び,74年に帰国した。しかし,1772年の第1回ポーランド分割後のポーランドでは望むようなポストが得られず,73年工兵将校の不足に悩むアメリカ植民地軍に大佐として参加するためアメリカに渡った。77年のサラトガの戦やウェスト・ポイントの要塞建設で功績が認められ,84年に准将として植民地軍を退役した。同年に帰国するが,望むようなポストはやはり得られず,少将として彼がポーランド軍に招かれるのは,89年になってからである。その前年,〈四年セイム(国会)〉がポーランド軍の大増強を決定したおかげであった。
コウォンタイら改革派が91年に五月三日憲法を強行採決したのに対して保守派(タルゴビツァ派)がロシアの介入を要請したが,92年ドゥベンカでロシア軍に勝利したコシチューシュコは一躍名声を博した。しかし93年に国王がロシアの要求に屈して保守派を支持したため,彼は改革派とともにザクセンに亡命し,そこで独立蜂起を準備した。94年3月コシチューシュコはクラクフで〈蜂起宣言〉を行い,みずから最高司令官の地位に就いた。同年4月彼の率いる大鎌部隊がラツワビツェでロシア軍を破り,これを契機に蜂起は全国に広がっていった。5月には農民の地位改善を約束した〈ポワンツェ宣言〉を公布したが,農民の大規模な動員には成功しなかった。10月にマチェヨビツェの戦でコシチューシュコはロシア軍の捕虜になり,蜂起は11月に敗北で終わった。彼はペテルブルグのペトロパブロフスク要塞に収容されたが,ロシア皇帝エカチェリナ2世の死とパーベル1世の皇帝就任のおかげで96年釈放された。
釈放後アメリカに渡ったが,ナポレオンの登場でポーランドの独立運動に新たな展望が生まれてくると,98年パリに居を移した。しかしせいぜい彼にできたことは,自分の名声がナポレオンやロシア皇帝アレクサンドル1世に利用されないようにすることだけであった。1800年に《ポーランド人は独立を戦い取ることができるか》と題したパンフレットをパリで出版したが,これはいわば彼が後世にあてて書いた遺言状であった。もちろんコシチューシュコは,ポーランド人が独立を戦い取ることを可能だとしている。しかしそれが実現するのは,彼が死んでから100年も経ってからのことであった。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報