ドイツ西部,ラインラント・ファルツ州の都市。人口10万8003(1999)。ライン川とモーゼル川の合流する三角州に位置し,対岸でラーン川とも結ぶ水陸交通・軍事上の要衝にあたる。防衛技術調達庁,国境警備隊本部,公文書館,上級地方裁判所などの連邦や州政府の諸機関,商工および手工業会議所,工業専門学校,教育大学,中部ライン博物館がおかれ,かつ連邦最大の軍営地である。伝統的産業は,ブドウ酒取引とビール,ゼクト酒の醸造であったが,EC(現,EU)の誕生でライン地方の経済的比重が増すにつれ,金属加工業,化学製造業,食品・嗜好品工業,印刷・製紙業も盛んとなった。コブレンツの名は,古代ローマ人の保塁Confluentes(合流の意味)に由来する。フランク時代に王宮がおかれ,1018年皇帝ハインリヒ2世がトリール大司教ポポに王宮と市場開設特権を付与して以来,モーゼル川からラーン川の流域にひろがるトリール大司教(選帝侯)領の中心都市として発展をとげた。1216年ドイツ騎士団が居館をかまえ,地形にちなんだ俗称〈ドイツ岬Deutsche Ecke〉が生まれた。歴代の選帝侯は,市内の城と対岸のエーレンブライトシュタイン城(後のプロイセン要塞)に好んで滞在し,15世紀後半には選帝侯の宮廷(離宮)がおかれ,1777-86年古典主義様式の宮殿(現在の合同庁舎)が建てられた。三十年戦争,ファルツ継承戦争で都市は被害をうけ,フランス革命期には亡命貴族の反革命運動の拠点となり,ナポレオン軍に占領された。1815年プロイセン王国に編入,1945年までラインラントの主都であった。両大戦で繰返し戦場となり,なかでも第2次大戦末期ナチス・ドイツ軍の架橋爆破撤退作戦に際して多くのコブレンツ市民の生命が失われた。ライン川を睥睨(へいげい)する皇帝ウィルヘルム1世騎馬像も,アメリカ軍の榴弾で吹き飛んだ。53年連邦大統領ホイスは,その残った台座に,ドイツ全州の紋章を刻み込ませ,東西ドイツ統一への念願をこめた記念碑として除幕した。
執筆者:小倉 欣一
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ドイツ中西部、ラインラント・プファルツ州の都市。人口10万8000(2000)。ライン川にモーゼル川とラーン川が合流する交通上の要地にあり、ローマ時代から軍事拠点であった。19世紀以来のプロイセンの要塞(ようさい)都市の伝統を引き継ぎ、NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍やドイツ国防軍の大規模な駐屯地となっており、連邦国防技術研究所や国境警備隊司令部の所在地でもある。州北部の中心都市としての諸機能のほか、ライン川、モーゼル川沿岸の観光基地としてもにぎわっている。ラインワイン、モーゼルワインの取引中心地で、車両部品、洗剤、家具、ピアノ、織物などの工業も行われる。
[朝野洋一]
ローマ皇帝ティベリウスの時代にライン川とモーゼル川の合流点に建設された城塞が、コブレンツの起源である。名称は、合流点を意味するラテン名コンフルエンテスConfluentesに由来する。5世紀以降、しばしばフランク国王の居住地となり、それに伴って都市的生活も発展をみたが、航行可能な二つの大河の合流点に位置し、マインツ―ケルンを結ぶ陸上路にも沿っているという地理的好条件に恵まれ、とりわけモーゼル川沿岸産のぶどう酒の集散地として重要な役割を果たした。市域はもともと帝国(神聖ローマ)領であったが、1018年、皇帝ハインリヒ2世(在位1002~24)がこれをトリール大司教に寄進した結果、司教都市となり、15世紀後半以降は大司教の居館が置かれた。1254年のライン都市同盟の結成に際し、コブレンツもこれに参加した。フランス革命当時、フランスからの亡命貴族がこの町に集まり、反革命的な企ての策源地となった。ルイ16世の弟のプロバンス伯(後のルイ18世)とアルトア伯(後のシャルル10世)が共同して、1792年「コブレンツの宣言」を発したのもその一例である。ナポレオン戦争によってフランス軍に占領され、一時ライン・モーゼル州の首都となったことがある。第二次世界大戦に際しては、連合軍の空襲により徹底的な被害を受けた。
[平城照介]
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