フランスの数学者、哲学者、政治家。侯爵。9月17日北フランス、ピカルディー地方のリブモンに生まれる。8歳まで女児として育てられたため、身体の発育は著しく阻害されたが、うちに秘めた情熱は激しく、ダランベールによって「雪に覆われた火山」と評された。初めランスで、ついでパリのナバル大学で学ぶ。若くして数学に才能を発揮し、22歳のときの業績『積分論』(1765)によって、1769年科学アカデミー会員となり、1773年から1791年まで常任幹事として物故会員の頌辞(しょうじ)を執筆する。他方『百科全書』にも協力し、またパスカルの『パンセ』やボルテールの全集を編集した。1782年アカデミー・フランセーズに迎えられ、その就任講演では、数学による諸科学の統一を意図した「社会数学」という新しい学問の理念を提唱した。
1789年大革命が勃発(ぼっぱつ)すると、啓蒙(けいもう)思想家の最後の一人としてただちにこれに参加。1791年パリから立法議会に選出され、公教育委員会の議長となる。1792年議会に報告した「革命議会における教育計画」は、国民教育の第一の目的を「市民の間に真の平等を確立し、法律によって認められている政治上の平等を実現すること」に置き、「国民教育は政府にとって当然の義務である」と規定している。1792年国民公会議員に選ばれ、その議長を経て憲法委員会に入ったが、彼の起草したいわゆるジロンド憲法草案は採択されないままに、党的抗争が激化し、ジロンド派は没落する。1794年3月29日、8か月に及ぶ逃亡生活ののち、彼自身も逮捕され、ブール・ラ・レンヌの牢獄(ろうごく)で死体となって発見された。その死因は明らかではない。『人間精神進歩の歴史』(1795)は、この逃亡中のごく短期間に執筆された「世紀の遺言書」である。コンドルセはその百科全書的な知識と人類の進歩に対する強い確信のゆえに、啓蒙の世紀の最後を飾るにふさわしい思想家であった。ほかに『解析論』(1785)、『解析学を多数決に適用しうるか否かに関する試論』(1785)がある。
[坂井昭宏]
『渡辺誠訳『人間精神進歩史』2冊(岩波文庫)』▽『渡辺誠訳『革命議会における教育計画』(岩波文庫)』
フランスの啓蒙思想家,数学者,政治家。ピカルディ地方に軍人の息子として生まれ,パリのコレージュ・ド・ナバルで数学を専攻,《積分論》(1765)など早くから数学の業績をあげた。1769年にはアカデミー・デ・シアンスに迎えられ,ダランベール,ボルテール,チュルゴらと親交を結び,《百科全書》に経済学の項目を執筆した。82年アカデミー・フランセーズに入会,《ボルテール全集》の編集をするなど18世紀思想家として活躍していたが,革命が勃発すると革命に共鳴し,〈1789年のクラブ〉の会員となる一方,パリ市議会の議員に当選。さらに91年9月には立法議会議員に選出され,公教育委員会に所属した。92年4月,〈公教育の総組織に関する報告と布告の草案〉を作成している。ついで立法議会解散後,国民公会にも議員として選出され,今度は憲法委員会に所属し,93年のジロンド憲法の草案作成にたずさわった。しかし同年6月2日に国民公会からジロンド派と共に追放されることは免れたものの,のちにジロンド派との関係を疑われて,ロベスピエールやシャボなどから批判され,10月ジロンド派といっしょに告発をうけた。逃亡したが,94年春,パリ近郊オー・ド・セーヌ県のクラマールに潜伏中に逮捕され,94年3月29日,獄中で服毒自殺した。コンドルセの主著は,逃亡中に執筆され,彼の死後95年に公刊された《人間精神進歩の歴史的素描》で,これは歴史を人類の進歩によりあとづけ,フランス革命をその人類進歩の最高の到達点としたものであり,これには革命で勝利した自由主義ブルジョアジーの楽観的歴史観,彼らの歓喜と自信があらわれている。
→フランス革命
執筆者:小井 高志
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1743~94
フランスの政治家,思想家,数学者。百科全書派,啓蒙思想家の最後の一人。立法議会・国民公会議員。1793年憲法を批判し告発され(7月8日)逃亡,その間に「18世紀の遺言書」と呼ばれる『人間精神の進歩の歴史的素描』を書き,約9カ月後に隠れ家を出,自殺した。
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… フランスやドイツでは産業革命がイギリスよりもおくれて始まったが,そのためかえって科学技術の教育機関が設けられ,イギリスに先んずることとなった。フランスでは,フランス革命当時コンドルセらによって理想主義的な学校教育体系が構想され,その中で自然科学の教育が重視されていた。1795‐1802年の間存続した〈中央学校école centrale〉は,自然科学と数学の教育を極端に重んずる中等学校である。…
…ついでフランス革命期には,ジロンド派憲法草案(1793)で〈初等教育は,すべての者の需要であり,社会は,すべての構成員に対し,平等にこれを引き受けるものである〉とされ,同年のモンタニャール派(山岳派)憲法でも,教育はすべての者の需要であるとしたうえで,〈社会は,その全力をあげて一般の理性の進歩を助長し,教育をすべての者の手の届くところに置かなければならない〉とされていた。ジロンド派に属し革命後の教育計画をたてようとしたコンドルセは,教育の自律性確保のため,教育を宗教的権威から独立させると同時に行政的権力からも独立させようと試み,教育行政権を学者・知識人の互選による国立学術院にゆだねるとの構想をたてた。学校は小学校,中学校,アンスティテュinstitut(社会の指導層の養成機関),リセlycée(大学),国立学術院(学術研究のほか,公教育の監督・指導を担当)から成るとし,無償とするほか,貧困家庭の子どもの優れた者のために奨学制度を構想した。…
…こうして,命令的委任の禁止や議員の発言行動の免責は,身分利害から解放された議員の討論の自由を保障するという意味をもつと同時に,ルソー流の国民自身による直接決定,および,国民による議員のコントロールという思想を排除するものでもあった。そのような議会のありかたについて,シエイエスは,〈本当の民主制〉に対する対立原理であり,それよりもすぐれた原理だと述べていたし,コンドルセは,選挙民に対する議員の意見の〈絶対的独立性〉を保つことこそが,選挙民に対する議員の第一の義務だと説いていた。それに対し,のちに普通選挙(さしあたっては男子普通選挙制にとどまるが)が成立したあとの第三共和政の議会になってくると,実質上,選挙は単に議員を指名するという意味をこえ,再選されることをのぞむかぎり,議員が選挙民からのコントロールに服するということが積極的な評価をうけるようになり,議会は,選挙民の意思を反映しつつ決定をおこなうべきものとされることとなる。…
…一般的にいえば,古代から〈暗黒時代〉とみなされる中世を経て同時代にいたるまで,人間理性の光は大局的に〈進歩〉の道をたどって来たとする考えが,啓蒙時代には大勢を占めていた。チュルゴー,コンドルセらにその典型的な表現がみられる。レッシングらにおいて,人類史を開化に向けての人類の教育と見る考え,またビュフォンらにおいて人類をも一環とした,より包括的な自然の歴史,生命の歴史への関心が見られることは注目に値する。…
…啓蒙主義は,人間の理性的判断を唯一のよりどころとするという意味での合理主義をその内容としていたから,おりから勃興しつつあった自然科学に対して適合的な思考態度をつくり出した。実際,ディドロやダランベールやコンドルセなど,啓蒙主義思想の担い手の中には自然科学者であった人たちも多い。社会科学は,これら自然科学的な合理主義を身につけた啓蒙主義思想家たちによって,自然科学の方法原理を自然とは異なる対象領域である社会の問題にも延長して適用することができるし,またそうすることが必要である,とする考え方から生み出されたものであった。…
… たとえば,単純多数決ルールは,個人的判断を社会的判断へと集計する代表的ルールの一つである。ところでこのルールは,各個人が矛盾のない判断を表明していても,それらを集計した社会的判断が循環的矛盾を生むという〈投票のパラドックス〉の可能性を含むという事実が,古くフランスの啓蒙思想家M.J.A.N.deコンドルセにより発見された。社会的選択理論における古典的成果とされるK.J.アローの一般可能性定理general possibility theoremは,このようなパラドックスは単純多数決ルールにのみ固有の欠陥ではなく,実は民主的な集計ルール一般が避けえない難点であるということを論証したものである。…
…空白の中等教育を国家主義の立場から再建する案としてのラ・シャロテーの《国民教育論》(1763)は,宗教教育は学校の任務ではなく教会の任務であるとして,宗教教育を学校から排除することを主張し,当時の啓蒙思想家たちに歓迎された。革命期には非キリスト教化運動が進められ,コンドルセの公教育改革案に代表されるように,思想・信教の自由の立場で学校教育から宗教教育を排除し,それを家庭の親の責任に帰した。これは学校と教会の役割の分離の理論化であり,信仰を私事とする近代民主主義思想の当然の結論である。…
…ついでJ.J.ルソーもまた,《エミール》(1762)のなかで女子教育論を展開したが,社会的不平等を論難し続けたにもかかわらず,彼の女子教育論は家政,育児,衛生の教育に重点がおかれ,フェヌロンのそれを超えるものではなかった。しかし,しだいに女子教育論も変化し,フランス国民議会で活躍した教育権思想の先駆者コンドルセの女子教育論は,フェヌロン,ルソーの考えを抜くものであった。彼は,《公教育の本質と目的》(1791)において,公教育は国民に対する公権力の義務としながら,女子にも男子と同一水準の教育を男女共学の形で準備すべきだと主張したからである。…
…いわゆる新旧論争を経て,近代文化が少なくともその合理的側面に関しては,古代よりも高いところまで到達した,あるいは将来そうなる可能性をもつ,という信念のうえに,はじめて〈進歩の観念〉が成立する。パスカルが人類史を個人の学習過程になぞらえたように,デカルト的な〈理性〉,F.ベーコン的な〈力としての知〉をよりどころとして,人間は歴史の主人公となり,歴史はコンドルセの《人間精神の進歩》(1795)に見られるように,人間の無限の完成可能性をめざす進歩の運動として把握されるようになる。このように〈進歩の観念〉は,古代および中世の克服という理念に根ざした近世的な観念だが,翻せば,直線的な時間観,終末論的歴史観が優勢なキリスト教の土壌にこそ生じ得るもので,その意味ではヨーロッパ世界に特殊な思想ということができよう。…
… 進歩と啓蒙の18世紀においては,一般に自由で計画的なユートピアが語られ,総じて未来への楽観的信頼が顕著である。モレリー《自然の法典》(1755),コンドルセ《人間精神進歩の歴史的素描》(1795)などは,厳密にはユートピア論とはいいがたいものの,理想社会の接近を読者に印象づけた。L.S.メルシエ《2440年,別名こよなき夢》(1770)はこの世紀の代表例である。…
…古代ギリシアでアテナイ郊外の聖なる森の中を逍遥して青年の教育にあたった哲学者アリストテレスの学校リュケイオンにちなむ。フランス革命期にコンドルセは,イエズス会に握られた守旧的な大学にとって代わる高等教育機関の名称にリセの名を与えた。リセの名称は,1802年5月の法律によって,革命末期の中央学校に代わって登場した中等教育機関に与えられ,今日に至っている。…
※「コンドルセ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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