サン・シモン(読み)さんしもん(英語表記)Louis de Rouvroy, duc de Saint-Simon

日本大百科全書(ニッポニカ) 「サン・シモン」の意味・わかりやすい解説

サン・シモン(Claude Henri de Rouvroy de Saint-Simon)
さんしもん
Claude Henri de Rouvroy de Saint-Simon
(1760―1825)

フランスの空想的社会主義者。パリ生まれだが、家系はピカルディー地方の貴族(伯爵)の出。啓蒙(けいもう)思想家ダランベールの教育を受ける。アメリカ独立戦争に、ワシントン指揮下のフランス遠征軍の一員として参加。フランス革命が勃発(ぼっぱつ)すると1791年から1793年にかけ地方のジャコバン派や民衆の結社に参加し、バブーフに会ったらしいという説(マチエ)もある。他方、国有財産の売却にまつわる投機に手を出し、1793年に逮捕、1年間投獄さる。最初の著作『一ジュネーブ住民の同時代人への手紙』(1802)を刊行。以後1814年までは19世紀にふさわしい総合的な科学をつくることに努め、1814年に『ヨーロッパ社会の再組織について』を刊行。以後、関心は社会問題に集中する。1819年以前は自由主義者であったとする説もあるが、本来の自由主義とはいいがたい。非生産者(貴族・地主・金利生活者・軍人)の支配に対する反対、生産者の団結とすべての権力を生産者へという主張、怠け者と働く者との対置、法の前の平等だけを説く法律家批判がみられるからである。その基礎には「産業主義」があり、それは「すべては産業によって、そしてすべては産業のために」という標語に集約される。そこから有閑階級批判と自由主義批判も出てくる。「すべては産業のために」組織されなければならぬからである。『産業体制について』(1821)において構想される未来の産業体制は、能力に基づく階層制組織をもつが、旧支配者は消滅し、能力により指導機能を発揮する管理者が登場する。この階層制はいかなる特権・支配権とも結び付いていない。「人間の支配」にかわって「事物の管理」が実現する。つまり国家の消滅であり、これが彼の構想する生産者の「協同社会」である。

 だが、彼のいう生産者、産業者には労働者と同時に資本家も含まれており、そこに当時のフランス資本主義の未熟さが反映しているが、『産業体制について』では産業階級内部の雇主と労働者との対立への注目がみられ、「労働者諸氏へ」あて、「私の提案する主要な目的は、あなたたちの境遇をできるだけ改善すること」だとしたが、以後「もっとも数が多くもっとも貧しい階級の境遇の改善」を訴え、かつ「プロレタリアート財産をうまく管理する能力を有する」と主張した。最後の著作『新キリスト教』(1825)は、「宗教は、社会を、もっとも貧しい階級の運命のできる限り急速な改善という大目的に導くべきだ」とした。『産業体制について』が産業者に無視されたこともあって絶望し、1823年ピストル自殺を図り失敗。その後2年間生き延びるが、斬新(ざんしん)で多面的な思想を体系化できなかった。死期に際して彼は、「私の全生涯はすべての人間にその人の自然的素質のもっとも自由な発展を保証するという一つの思想に要約される」と語ったといわれる。

[古賀英三郎]

『森博編訳『サン・シモン著作集』全5巻(1987~1988・恒星社厚生閣)』


サン・シモン(Louis de Rouvroy, duc de Saint-Simon)
さんしもん
Louis de Rouvroy, duc de Saint-Simon
(1675―1755)

フランスの作家、政治家。封建大貴族として誇り高く、大きな政治的役割を演じようとの野望を抱いていたが、ブルゴーニュ公の死によって望みを断たれ(1712)、友人であった摂政(せっしょう)オルレアン公フィリップの死後、「素町人の長い治世」を憎んでラ・フェルテ城に隠棲(いんせい)し、著述に没頭した。なかんずく有名な『回想録』は1694年から1752年にかけて書き続けられたもので(ただし公刊は死後)、ルイ14世の治世の末年と摂政時代(1694~1723)とについての貴重な証言である。その情報的価値の高さもさることながら、無数の廷臣たちの人間像を愛憎の赴くままに活写した筆力のたくましさは、彼をしてフランス文学史上最大の散文作家の一人たらしめている。1983年、この『回想録』の新版(全8巻)がプレイアード叢書(そうしょ)に入って彼の名声はいっそう高まった。

[大塚幸男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サン・シモン」の意味・わかりやすい解説

サン=シモン
Saint-Simon, Claude-Henri de Rouvroy, Comte de

[生]1760.10.17. パリ
[没]1825.5.19. パリ
フランスのユートピア社会主義者。『回想録』の著者サン=シモン公の甥の子。アメリカ独立戦争に参加し,恐怖政治期はリュクサンブール宮殿に監禁されたが,1793年釈放。 1803年『一ジュネーブ住民の書簡』 Lettres d'un habitant de Genève à ses contemporainsをスタール夫人に献じ求婚したが失敗,日夜を分たぬ浪費で,やがて貧困の境涯に転落した。 23年自殺を企て,『新キリスト教論』 Nouveau Christianisme (1825) の執筆を最後に失意のうちに没した。サン=シモンの歴史観は社会進化の要因を,観念または思想の変化に求める精神史観と,経済に求める経済史観の二元論から成り,フランスの歴史を非産業階級に対する生産的,産業的階級の対立の歴史とみなし,産業階級を社会第1階級とする理想社会 (産業制社会) の成立を強調し,当時の産業革命の進行と工業化社会の将来を予測した。その思想は弟子の B.アンファンタン,M.シュバリエらによってサン=シモン主義として伝えられ,特に第二帝政の資本家や銀行家の理論的支柱となった。主著『産業体制論』 Système industriel (20~22) 。

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