改訂新版 世界大百科事典 「サカ」の意味・わかりやすい解説
サカ
Saka
ヘロドトスによれば,ギリシア人がスキタイと呼ぶ北方草原民族を,古代ペルシア人はサカSaka,サカイSakaiと総称したという。前5世紀のペルシア戦争の際にペルシア側について参戦したサカは,とりわけ〈アミュルギオンのサカ〉と呼ばれた人々で,キルギスのステップに住み,尖り帽子,ズボン,独特の弓と短剣,戦斧を身につけた強力な部隊であった。なお中国史料の塞民族をサカにあてる説があるが疑わしい。
執筆者:小谷 仲男 時代が下って前1世紀ころサカ勢力は大月氏の西方移動におされて,西北インドに侵入した。インドでは一般にシャカŚakaの名で呼ばれる。最初の重要な王はマウエースMauēsで,ギリシアやペルシアにならって発行した貨幣や碑文にその名がみえる。王は〈諸王の王〉と称して西北インドにシャカ国Śakasthānaを建てる一方,中部インドのマトゥラーにまで遠征を企てた。王の下にはマハー(大)・クシャトラパmahā-kṣatrapa,クシャトラパを置き,国内を監督させたが,これはアケメネス朝以来の地方総督であるサトラップのインド語訛であるといわれる。
マウエースの死後王国は一時分解したが,後1世紀ころクシャトラパの一系統のブーマカBhūmaka,ナハパーナNahapāna父子によって,サウラーシュトラ,マールワー地方に勢力が築かれた。この王朝はクシャハラータKṣaharāta朝と呼ばれ,インド文化との同化に努めてバラモン教,仏教を共によく保護した。クシャハラータ朝はデカン地方のサータバーハナ朝によって2世紀前半に滅ぼされるが,再びクシャトラパ出身の王チャシュタナCaṣṭanaによってシャカの勢力が確立した。王はサータバーハナ朝を退けてウッジャインにまで勢力を伸ばした。チャシュタナの孫のルドラダーマンRudradāman王は大規模な治水灌漑事業を行ったことで広く知られ,王の治績は長大なサンスクリット碑文に伝えられている。この王統は4世紀末にグプタ朝によって滅ぼされるまで続いた。
シャカの文化の特長は,彼らの移動先の諸文化,すなわちバクトリアのギリシア人文化,ペルシア文化,インド文化をよく吸収したことにあり,仏教の伝播に果たした役割も少なくない。
執筆者:石川 寛
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報