ユーラシア大陸中央で、中国やロシアに近接する内陸地域。旧ソ連圏のカザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの5カ国がある。「ロシアの裏庭」とも呼ばれてきたが、西側諸国ともバランスを取った多角化外交を展開している。中国は巨大経済圏構想「一帯一路」の要衝と位置付け、関係を強化。日本は5カ国との対話枠組みを2004年に創設し、外相会合や実務者会合などを重ねてきた。欧米も関与を強めている。
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中央アジアとは,〈アジアの中央部〉を意味する漠然とした用語である。したがって,アジアの〈中央部〉をどこと考えるかによって,この用語の含む地理的範囲は変化する。すなわち広義には,東・西トルキスタンのほかに,カザフ草原,ジュンガル草原,チベット,モンゴリア,アフガニスタン北部,イラン東部,南ロシア草原を含み,その内容は〈内陸アジア〉という用語の内容とほぼ一致する。これに対して狭義には,東・西トルキスタンのオアシス定住地帯のみを指す。またソ連では,〈中央アジア〉を表すのに二つの用語を用いていた。まずスレードニャヤ・アジアSrednyaya Aziya(Middle Asiaの意)は,西トルキスタンのウズベキスタン,キルギスタン,タジキスタン,トルクメニスタンの4共和国が占める地域を指し,普通は,スレードニャヤ・アジア・イ・カザフスタンSrednyaya Aziya i Kazakhstan(〈中央アジアとカザフスタン〉の意)と連称して,ソ連領内の中央アジア全域を指した。次にツェントラーリナヤ・アジアTsentral'naya Aziya(Central Asiaの意)は,ソ連領外の中央アジア,つまり東トルキスタン,ジュンガル草原,チベット,モンゴリアを指した。すなわちソ連では,広義の中央アジア(内陸アジア)に対する呼称としては,ソ連の領内にある地域と領外の地域とを明確に区別し,それぞれを別々の名称で呼んでいた。日本では,一般に東・西トルキスタンと,その北に連なるカザフスタンおよびジュンガル草原の一帯を総称して中央アジアと呼ぶ。したがって,ここでもこの意味での中央アジアについて述べることにする。
中央アジアは年間降雨量のきわめて乏しい,極度の乾燥地帯に属し,そこにはタクラマカン,キジルクム,カラクムといった広大な砂漠が横たわる。また世界の屋根ともいわれるパミールを中心に,4000~7000m級の山々が連なる崑崙,天山,アルタイ,ヒンドゥークシュといった高峻な山脈が立ち並ぶ。万年雪を頂くこれらの山々の雪どけ水を集めて,シル・ダリヤ,アム・ダリヤ,ゼラフシャン,ムルガーブ,バルフ,チュー,タラス,ヤルカンド,イリ等の諸河川が渓谷を経てやがて砂漠の中に流れ込み,あるものはアラル海,バルハシ湖,イシク・クルといった湖を形成するが,あるものは砂漠の砂の中に〈尻無し川〉としてその姿を没する。アルタイ山脈の南西麓から,天山山脈の北麓を経てアラル海,カスピ海の北岸に至る地域は,ジュンガル草原,カザフ草原とも呼ばれるように,広大な草原地帯である。また,水の極度に乏しい砂漠の中には,古来,河川,泉,カレーズ(カナート)の水を利用したオアシスがつくられている。この極度の乾燥地帯である中央アジアで,人間が居住できたのは,南部の,ときに〈砂漠の中の島〉にたとえられるオアシスと,北部の広大な草原地帯,それに天山,ヒンドゥークシュなどの山々に点在する山間牧地に限られた。このうち,南部のオアシス地帯の住民が農耕定住民であったのに対し,北部の草原地帯と山間牧地の住人は遊牧民であった。すなわち中央アジアには,その地理的条件に対応して,北部の遊牧民と南部の定住民という,まったく生活様式を異にする2類型の人びとが居住しており,その意味では,中央アジアを〈草原とオアシスの世界〉とも呼ぶことができる。
中央アジアの草原と山間牧地の住民,すなわち遊牧民の財産は,馬,羊,ヤギ,牛,ラクダなどの群れをつくる本能をもつ有蹄類の動物である。遊牧民はこれらの動物とともに,夏の居住地(夏営地)と冬の居住地(冬営地)の間を,定期的・周期的に季節移動する。移動を容易にするために,彼らは普通固定家屋をもたず,組立て式の,羊毛を圧縮して作ったフェルト製のテントに暮らす。食生活も,主としてドライ・ヨーグルト,バター,チーズなどの乳製品でまかなわれ,その財産である動物の肉が食用に供されるのは,祭りや客の接待,冬季の保存食など,特別の機会・用途のために限られる。また彼らの帽子,靴,衣服などの日常用品も動物の毛皮や毛を利用してつくられる。すなわち,中央アジア遊牧民の衣食住は,基本的にすべてその所有物である動物によってまかなわれ,その社会を,南方のオアシス定住社会からは独立した,独自の社会と考えることができる。
→遊牧
遊牧民の最も小さな社会的単位は一つのテントに同居する家族であるが,これらの家族は,共通の祖先をもつと考えられている他の家族とともに,一つの遊牧集団を形成して,ともに遊牧した。この遊牧集団を構成した家族の数は必ずしも一定せず,数家族の場合もあれば,50家族にものぼる場合もある。この遊牧生活の最も基本的な単位を,一応,氏族と呼ぶことができる。このような氏族が他のいくつかの氏族と連合して,さらに大きな遊牧集団を形成した場合,これを部族と呼ぶ。さらにこの部族が,他の諸部族とも連合してより大きな政治的・社会的集団を形成した場合,これを部族連合体ないし国家と呼ぶ。すなわち遊牧国家とは,氏族・部族をその構成要素とするピラミッド状の政治的統一体であり,これがその外部に存在した他の部族ないし部族連合体をも併合したとき,その支配領域はきわめて広大なものとなる。このような〈遊牧帝国〉とも呼びうる強大な国家が,中央アジア史上に華々しい活動を見せた,匈奴,突厥(とつくつ),ウイグル,モンゴル帝国等の諸国家である。
これらの遊牧国家ないし遊牧帝国の君長は,それぞれの国家ないし帝国の形成にあたって,その形成の中核となった特定の一氏族の成員の中から選出され,単于(ぜんう)ないしハーンの称号を名のったが,これらの君長の選出や,外国遠征等の国家の重要事は,その国家の構成メンバーである諸部族の支配者たち,すなわちベグないしノヤンと呼ばれた遊牧貴族たちから成る国会(クリルタイ)の議を経て決定された。すなわち遊牧国家の君長は,彼らが特定の氏族のみから選出されるというところに由来するある種のカリスマ性を具有していたにせよ,十分の統率力をもちあわせぬ場合には,ただちに遊牧貴族らによって交替させられるという意味において,決して絶対的な君主ではなかった。遊牧国家の軍隊は,ハーンを警護する親衛隊を別にすれば,その国家の構成要素である,各氏族・部族を単位として編成された。そして各氏族ないし部族の長は,それぞれ自らの氏族・部族を率いて戦いに参加した。彼らは,その氏族員・部族民の多寡に応じて,十人隊,百人隊,千人隊,万人隊という,十進法的軍事組織に編制され,さらに全体としては,左右両翼ないし中軍のいずれかに属して戦った。すなわち,中央アジア遊牧民の社会においては,平和時における社会組織が,戦時における軍事組織と完全に一致しており,これが遊牧国家の軍事的エネルギーの一つの根源であった。
これに対して,南部のオアシス地帯の住民は,本来,定住農耕民であり,その社会のあり方は,北部の遊牧民の社会とは著しい対照を示す。中央アジアのオアシスは,ごく小さな農村あるいは交通路上の宿駅としてのオアシスを別にすれば,いずれも市街地を囲む城壁をもつ城郭都市であった。城壁内には,都市の支配者の権威を象徴する内城(アルク,クヘンディズ),宮殿のほかに,狭い街路で区分された多数の居住区(マハッラ,グザル)があり,これが一般のオアシス都市住民の日常生活の場であった。各居住区には,住民の精神生活の中心である神殿,寺院があり,また城内の各所には,住民の商業・産業活動の中心であるバーザール(市場)や,住民の憩いの場である公共浴場などが設けられた。城外には農村地帯が連なり,そこで生産された農作物が城内のバーザールで売買された。11世紀の東トルキスタン西部のオアシス都市の住民は,同時代の文献に次のように分類されている。(1)ベグ(支配階級),(2)預言者ムハンマドの子孫たち,(3)イスラム学者,(4)医師,(5)巫術師,(6)夢占師,(7)占星術師,(8)詩人,(9)農民,(10)商人,(11)遊牧民,(12)職人,(13)貧者。このうち,ベグ階層は城郭都市の内外に土地,店舗,製粉所,水利権などを所有し,それを農民,商人,職人らに貸与して多くの利益をあげた。彼らはまた各都市の諸官職(ハーキム,イシク・アーガーなどと呼ばれた官職)をも独占し,これらの諸官職に付随する徴税権などを利用してさらに多くの富を蓄積した。なお中央アジアでは,15世紀以降のナクシュバンディー教団のシャイフたちのごとく,宗教関係の聖職者が,ベグと同様,莫大な土地・財産を所有した例も知られる。
オアシス定住地帯では,オアシス定住民を支配者とする強力な統一国家が形成されることはきわめてまれで,砂漠の中の島にたとえられるその自然的な条件も作用して,各オアシスはそれぞれに孤立する傾向が強かった。しかし,ときに一つのオアシス都市を中核に,いくつかの周辺のオアシス諸都市が連合して,一つのオアシス都市連合体を形成することもあったが,この連合体には,他の連合体をその支配下に収めてより大きな政治的統一体を形成するだけの力がなく,結局それも北方の遊牧国家など,外国勢力の支配下に組み入れられるのを常とした。
中央アジアの歴史は,北部の草原地帯と山間牧地を居住地とした遊牧民と,南部のオアシス地帯に居住した農耕定住民の相互関係のありようを基軸として展開された。同時に中央アジアの周囲には,東方の中国,西方の西アジア,ヨーロッパ,さらに南方のインドといった独自の文化圏が存在し,古来これらの文化圏を結ぶ東西交通路・隊商貿易路(シルクロード)が中央アジアのただ中を通過していたがゆえに,中央アジアは政治的にも文化的にも,これらの文化圏と種々の交渉をもった。すなわち中央アジアの歴史を考える場合には,この地帯が時代を問わず常にその内部に包含していた遊牧民と定住民の相互関係,いわば南北の関係に最大の注意を払いつつも,同時にまた,この地帯が周辺地域との交渉によって時代時代に受けた影響の度合,いわば東西の関係による影響のほどについても留意する必要がある。
まず南北の関係についていえば,その関係の第1は,政治的な支配・被支配の関係である。この場合,支配者は常に軍事的に優勢な遊牧民であり,その支配を甘受せねばならなかったのは強力な軍事力をもたぬオアシスの定住民であった。前2世紀の匈奴,5世紀の柔然,高車,エフタル,6~7世紀の突厥によるオアシス地帯の支配はその好例である。この支配・被支配の関係から,遊牧民が得たものは,まず自らの社会に不足した農産物,鉱産物など,オアシス社会で生産される諸物資であり,これらは貢納という形をとって遊牧民によって徴収された。遊牧民はまた,オアシス地帯を支配することによって,この地帯を通過する隊商から通行税をも徴収することができた。
一方,オアシス定住民は遊牧民の支配下に入ることによって,自らに不足する軍事力を補うことができた。オアシス地帯が,中国,西アジアからの軍事的脅威にさらされたとき,この地帯を防護したのは遊牧民の軍事力であり,またこの軍事力は,東西交通路(シルクロード)の安全保障のためにも利用された。これらの事実が示すように,遊牧民と定住民の関係は,単に支配・被支配の関係にとどまらず,同時に,互いの長所を利用しあう一種の共存関係でもあった。この共存関係は,特に遊牧国家の支配者と,オアシス都市の商人の関係の中に明確に読み取ることができる。すなわち,前イスラム時代のソグド商人(ソグド人)などに代表されるオアシス都市の商人たちは,突厥,ウイグルなど遊牧国家の内部深くにくいこみ,遊牧国家の軍事力を背景に,中国~モンゴリア間の貿易を独占するなど,その商業的活動圏を,国際的スケールのものに拡大するのに成功している。一方,これらの商人たちは,商品とともに宗教・文字など,オアシス定住地帯の文化をも遊牧国家内にもたらし,それが遊牧地帯の文明化に大きな影響を及ぼしたことは,ソグド商人の影響下に,遊牧民によって突厥文字,ウイグル文字などが作成・使用されたことからも明らかである。
中央アジアにおいて,中央アジアを本拠とする最も強力な国家が出現したのは,9~10世紀のサーマーン朝,14~15世紀のティムール朝の時代などであるが,これらの国家が強力であったのは,これらの国家の内部で,遊牧民の軍事力と定住民の経済力とが最もスムーズに結び合わされ,そこに巨大なエネルギーが生み出された結果であったと考えられる。しかし一方,この中央アジアを支えている二つの要素,すなわち遊牧民の軍事力と定住民の経済力のうち,その軍事力(弓矢を主とする騎馬戦術と,その機動力が特徴)が,火器を主体とする近代的先進諸国の軍事力に対抗できなくなったとき,中央アジアはその他の世界からは独立した一つの小世界としての立場を徐々に失っていかざるをえなかった。16世紀以降にみられる中央アジア社会の停滞と,19世紀におけるこの地域の清,ロシアによる併合は,このような中央アジアを支えた遊牧民の軍事力の相対的低下の中に,その原因を見いだすことができる。
次に東西の関係についていえば,アケメネス朝,ササン朝,ウマイヤ朝,アッバース朝など西アジアの諸国家による西トルキスタン支配,アレクサンドロス大王の遠征などヨーロッパ勢力の到来,〈西域経営〉の名で知られる中国の漢・唐の主として東トルキスタンへの進出など,この地域への東西の外国勢力の断続的な進出が見られたが,これらの進出は,宗教をはじめとする東西の文化のこの地域への伝播のためにも大きな役割を演じた(東西交渉史)。これについては,次の[文化]の章で扱うことにする。
なお中央アジア史は,便宜的に以下の四つの時代に区分することができる。(1)考古学的遺物によってしかその状況を記述することの不可能な長い先史時代(前5千年紀ころ~前7世紀ころ)。(2)この地域のオアシス定住地帯に,インド・ヨーロッパ語族系の言語を話すアーリヤ系の人びとが居住し,仏教,ゾロアスター教,マニ教,景教などを信奉していた前イスラム時代(アーリヤ時代。前6世紀ころ~後9世紀ころ)。(3)この地域のオアシス定住地帯に,草原のトルコ系遊牧民(トルコ族)が進出してこの地をトルコ化する一方,宗教的にはイスラム化してトルコ・イスラム世界を成立させたいわゆるトルコ・イスラム時代(10世紀ころ~19世紀前半)。(4)この地域が,清朝およびロシアに併合され,やがてこの地に社会主義が波及した近・現代(19世紀後半以降)。さらに,ソ連崩壊とともに中央アジア5共和国は独立し,新たな時代を迎えている。
草原地帯の遊牧民は,その遊牧生活に適したテント,ズボン,乳製品など,みごとな生活文化を編み出す一方,精神生活の面では,シャマニズムの信奉者であり,それは,彼らの間にマニ教,仏教,イスラムなどが浸透した時代においても,なお根本的には変化を見せなかった。遊牧民の間における文字の使用については,7世紀末~9世紀半ばの突厥文字,13世紀以降のモンゴル文字など,若干の例はあるにしても,中央アジアの遊牧民は,基本的には文字をもたぬ人びとであった。そのため彼らの間ではすぐれた口承文学が発達し,なかでも〈マナス〉〈アルパムシュ〉などの長大な英雄叙事詩は,口伝えに今日もなおキルギス,カザフなどのトルコ系遊牧民の間に伝えられ愛誦されている。
一方,南部のオアシス定住民の間では,前イスラム時代,シルクロードを経てもたらされた仏教,ゾロアスター教,マニ教,景教といった外来宗教が信奉され,それらの宗教の経典が,ホータン・サカ語,トカラ語など現地のインド・ヨーロッパ語族系の諸言語に訳出された。また各オアシス都市の寺院,神殿,宮殿などには,外来文化の影響を色濃く残す壁画や彫像が飾られていた。すなわち前イスラム時代,この地域にはきわめて国際性豊かな文化がはぐくまれていたことになる。その国際的文化の様相は,イスラム化の遅れた西ウイグル王国の文化の中に,最も明瞭に看取することができる。
しかしイスラム時代に入ると,仏教をはじめ従来の異教的要素はこの地域から徐々に一掃され,やがてこの地はイスラムのみが信奉される,モノ・トーン的なトルコ・イスラム世界へと変質していった。各都市には,従来の種々の宗教的建造物にかわってモスク,マドラサなどイスラム的建造物が建ち並び,また従来の複雑な言語状況にかわって,イスラムを象徴するアラビア文字を用いたトルコ語が使用され始めた。イスラムへの改宗は,結婚・相続など,住民の日常生活のあり方をも,そのすべてをイスラム的なものへと変化させた。20世紀におけるこの地域への社会主義の波及は,この地域に1000年以上にわたって深く根づいたイスラム的価値観を一掃しようとする試みであったともいえる。なお,この地域の美術については,〈イラン美術〉〈イスラム美術〉などの項を参照されたい。
執筆者:間野 英二
古代の中央アジア音楽については,ソ連の考古学的発掘で判明した,この地域に広がっていた楽器の種類によって知ることができる。つまり,前4~前3世紀のものとしては古代オリエントあるいは古代ギリシアの楽器(ハープ型,リラ型の弦楽器)がみられるのに対し,紀元前後,匈奴が勢力を誇っていた時代のものには,遊牧民の楽器(リュート型弦楽器。現代の中央アジアにおける撥弦楽器と形状がよく似ている)が多く発見された。さらに仏教文化の栄えた時代の出土品には,琵琶,箜篌(くご)類と細腰鼓(腰鼓)が見られて,それぞれの時代の音楽を彷彿させる。また中国で胡楽として伝えられるものが中央アジアの音楽を総称しているといえるが,唐代に完成された十部伎のうち五部伎(亀茲(クチャ),康国(サマルカンド),疏勒(カシュガル),安国(ブハラ),高昌の各楽)までが中央アジアの都市国家の名前で呼ばれており,それぞれに独自な音楽様式をもっていたことが知られる。
8~10世紀にかけては中央アジアの大部分がイスラム化し,10世紀のファーラービー,11世紀のイブン・シーナーといった音楽理論家は中央アジアの出身者であるが,アラブ音楽の理論家としてのみ知られている。15世紀ティムール朝の中心地であったサマルカンドでは,有名な《音楽論》を残したジャーミーが知られている。サマルカンドの宮廷音楽の片鱗は,現在ウズベクとタジクに〈シャシマコームshashmakom(六つのマカーム)〉の名で伝えられている。旧ソ連の中央アジア諸国では,イスラム化の遅れたカザフスタンとキルギスタンにはシャーマンの音楽も残っていて,都会的文化の栄えたウズベキスタン,タジキスタン,中間的なトルクメニスタンなど,それぞれに独自な音楽文化の再興に努力している。代表的な楽器としては,擦弦楽器ではカザフのコビズ,キルギスのキヤク,トルクメン,ウズベク,タジクのギジャク,撥弦楽器では,カザフのドンブラ,キルギスのコムズ,トルクメン,ウズベク,タジクのドタールなどをあげることができる。管楽器,打楽器も種類が多いが,イスラム系のものがほとんどである。
執筆者:森田 稔
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アジア大陸中央部の地域名称。その境界は一定ではなく,狭義には1991年にソ連から独立したカザフスタン共和国,クルグズ共和国,ウズベキスタン共和国,タジキスタン共和国,トゥルクメニスタンの5カ国をさし,これに中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区を加えることもある。これはほぼ歴史的なトルキスタンに相当する。広義には,これにモンゴル,チベット,アフガニスタンを加えた地域をさす。中央に万年雪を戴くパミール高原があり,これからの東方に天山山脈,崑崙(こんろん)山脈が,西方にはヒンドゥークシュ山脈がのびる。気候は乾燥していて,砂漠が多い。山岳に発する河川沿いに都市が発達し,農耕が行われる一方,広大な草原地帯では遊牧が行われてきた。古代の住民はイラン系で,古代ギリシア人がトランスオクシアナ(Transoxiana)と呼んだアム川とシル川の流域やタクラマカン砂漠の周縁には,多くのオアシス都市国家が栄え,ゾロアスター教やマニ教,仏教が普及した。6世紀の突厥(とっけつ)以降,北部草原のトルコ系遊牧民の勢力が南部のオアシス地域に及び,19世紀まで続いたトルコ系遊牧民の南部への移動と定住の結果,住民のトルコ化が進んだ。また8世紀のアラブの侵攻以来イスラーム化が進展し,東部の仏教圏と対照をなした。中央アジアの歴史は,北部の遊牧民と南部の定住民との相互関係を縦軸,ユーラシアの東西を結ぶ通商と文化交流の関係を横軸として展開し,モンゴル帝国やティムール帝国は遊牧民の卓越した軍事力と定住民の経済力とを統合した代表的な例である。18世紀以降,中央アジアはしだいにロシアと清朝の周縁と化したが,20世紀に入ると東西の帝国における革命を契機として民族運動の胎動が始まり,ソ連と中国のなかで社会主義的な変革を経験した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アジア大陸内陸部の地域名。その範囲はかならずしも一定していないが、一般にパミール高原を中心として、東はタリム盆地から西はカザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの5共和国を含む。
[編集部]
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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