翻訳|Sarai
13~14世紀のキプチャク・ハーン国の首都で,新・旧二つの同名の都市があった。中国史料では薩萊で知られる。旧サライはボルガ川の支流アフトゥバ河岸に位置し,バトゥ(在位1227-55)の建設にかかり(バトゥ・サライ),彼はここを首都と定めた。新サライはこのやや上流にベルケ(在位1255-66)によって建設され(ベルケ・サライ),ウズベク(在位1312-42)の初期に新しい都となった。両都市とも政治都市であると同時に東ヨーロッパ,西アジア,中央アジアを結ぶ交易網のうちの要地にあたり,商業都市として栄え,13世紀の旅行家イブン・バットゥータはそのようすを伝えている。14世紀末ティムールの破壊をうけ,後に再建されたが,16世紀のロシアの占領以降は廃墟となっていった。
執筆者:堀 直
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13、14世紀のキプチャク・ハン国の首都。サライは宮殿の意。新旧の二つがある。旧サライはキプチャク・ハン国の創始者バトゥが建てたもので、その遺跡はボルガ川下流域のアストラハン市に近いセリトレンノエ村にある。しかし、有名なのはバトゥの弟ベルケが建てた新サライであって、その遺跡はボルガ川河畔で、旧サライよりも上流の一支流アフトバ川河畔のボルゴグラード市の傍らに位置する。新サライが首都となったのは第9代のウズベク・ハンのときである。サライ市は1395年にティームールの軍隊に破壊され、15、16世紀にモスクワ大公国の侵入によって廃墟(はいきょ)と化した。新サライは1843~47年に初めて発掘され、その後の発掘によって、キプチャク・ハン国時代の宮殿、モスク、手工業工場、水道装置遺跡のほか、銅鉄製品、陶磁片、ガラス器、農産物、皮革製品が大量に出土し、当時の都市生活、物質文化、商工業の姿をよく伝えている。
[佐口 透]
キプチャク・ハン国の首都。新旧二つある。旧サライはヴォルガ川支流のアフトバ河畔にバトゥにより建設され,バトゥ・サライ,ベルケ・サライなどと呼ばれた。新サライは旧サライから130kmさかのぼったアフトバ河畔におそらく14世紀前半にウズベクにより建設され,ウズベクの死の直前か死後にこの地に遷都された。新サライはウズベク時代に繁栄したが,14世紀末のティムール軍,16世紀半ばのイヴァン4世のロシア軍の破壊で荒廃した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…この名は〈父は高められる〉を意味したと思われるが,伝承では民間語源的に〈多くの国民の父〉と解され,また意味づけられている。《創世記》の叙述に従えば,アブラハムの父の一家は,ユーフラテス川下流域に比定されるカルデアの町ウルを出て,シリア北部の町ハランに移動し,アブラハムは神の命令を受けてその町で親族と別れ,妻サライSarai(後にサラSarahと改名)および彼に同行した甥のロトとともに神の示す地カナンに着いた。この地でロトと生活圏を分けた後,アブラハム一家はヘブロン付近で過ごしたが,飢饉のためにエジプトに下って難を逃れるなどの苦労を重ねた。…
…(3)修道場(リバートribāṭ,テッケtekke,ハーンカーkhānqā,ザーウィヤzāwiya) 呼称はさまざまであるが,いずれもスーフィー(神秘主義者)が称名などの修行を行う修道場のことで,リバートは,元来は国境地帯につくられた砦をさした。建築的には,マドラサや下記のキャラバンサライと同様な構成をとる。(4)墓廟(クッバqubba,グンバドgunbad,テュルベtürbe,マシュハドmashhad) 方形の墓室にドームや円錐形の屋根を架けたタイプと,円筒形ないし多角形プランの高塔の形式をとるタイプに大別される。…
…ロシア史ではこれを〈タタールのくびき〉と呼ぶ。国家の創設者バトゥ(在位1227‐55)はジュチの第2子で,1236‐41年に,キプチャク草原,ロシア,東欧を席巻し,ボルガ下流のサライを中心として国家の基礎を築いた。その際,長兄オルダOrdaらがジュチの本領(イルティシュ流域)を継いで国家の左翼となり,ハーン位を継承したバトゥは,弟のベルケBerkeやシバンShibanらとともに,右翼に所領を占めた。…
…とりわけ15世紀後半,メフメト2世によるコンスタンティノープル征服の後,新都イスタンブールに,従来の首都ブルサとエディルネにおける宮殿に加えて,〈旧宮殿〉,〈新宮殿〉(別名トプカプ宮殿)が新たに造営され,制度的にも著しい発展を遂げた。オスマン朝では,宮廷はペルシア語からの借用語で〈サライ〉と呼ばれ,君主の公務の場としての外廷と,君主の私的生活の場としての内廷と,宮廷の女性の生活の場としてのハレム(後宮)とに分かれていた。このうち内廷には,多数の小姓(イチ・オウラーン)が勤務し,小姓は,少なくとも16世紀末ごろまでは,大多数が戦争捕虜および帝国領内のキリスト教徒臣民の子弟からデウシルメにより徴収された少年からなり,奴隷身分に属するグラームであった。…
…1236年から始まったモンゴル軍の西征では,総大将としてロシア・東欧に侵入し,1241年のリーグニツの戦では,ヨーロッパ連合軍を粉砕した。ハンガリー攻略中に,オゴタイ・ハーンの死を知り(1242),兵を返したが,自分はボルガ下流域に建設したサライを中心に,キプチャク・ハーン国を建てた(1243)。オゴタイ・ハーンを継いだグユクの死後,モンケがハーン位に就く(1251)のを助けた。…
※「サライ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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