翻訳|Salome
ガリラヤの太守ヘロデ・アンティパスHerod Antipasの後妻ヘロデヤHerodiasの娘。ただし,その物語を記したマタイ・マルコ両福音書には,サロメの名は記されていない。《マルコによる福音書》によれば,王妃ヘロデヤはヘロデの異母兄ピリポの妻であったが,サロメを連れてヘロデと再婚した。しかしその不義の婚姻をバプテスマのヨハネに非難されたため,娘をそそのかして父王の誕生日の祝宴での踊りの報酬としてその首をはねさせた。娘はこれを銀の盆に載せて母に捧げたという。さらにヨセフスの《ユダヤ古代史》にはサロメの実録があり,ヘロデヤの連れ子としてヘロデの王宮にあった後,19歳でヘロデ・ピリポ2世と結婚し,24歳で未亡人となりアリストブロスと再婚,3人の息子の母となったとある。後年になるとサロメは母王妃ヘロデヤと混同されてゆき,サロメ=ヘロデヤ伝説が形成され,強い性格が与えられ,ヨハネの首を所望するのもサロメの意志によるとする話も作られた。4世紀の終りにヨハネのためにアレクサンドリアに教会が建立され,ヨハネ信仰が強くなるにつれて殉教に役割を果たしていたサロメへの非難が強まり,しだいに悪徳と退廃の象徴ともなっていく。このような王女サロメの挿話は中世から現代まで美術,文学,音楽の主題としてヨーロッパ各国各時代の多くの作家たちに採り上げられてきている。
サロメは〈バプテスマのヨハネの生涯〉の最後の殉教場面に登場するが,各国中世聖堂にある壁画や浮彫に描かれたその像は,主として次の三つの姿をとることが多い。(1)宴会の場面で踊る姿,(2)ヨハネ断首の場面を見ている姿,(3)盆の上の首を王妃ヘロデヤに捧げる姿。これらの図像の例としては,イタリアのベローナにあるサン・ゼノ・マジョーレ教会の門扉のレリーフ(12世紀),サン・マルコ大聖堂洗礼堂のモザイク画(14世紀),フィレンツェ洗礼堂扉の鋳像(14世紀),フランス,ルーアン大聖堂の破風にある逆立ちの彫像(13世紀)が有名である。また,ルネサンスの画家,ジョット,リッピ,レーニ,ドナテロらの絵画には,華やかな宴会の席上で優美な衣をまとって踊る姿が多い。17世紀にはユディトと混同されるなどして多くの画家に描かれ,L.クラーナハがその代表である。19世紀末には時代を象徴する女人像としてG.モロー,ルドン,シュトゥック,クリムト,A.ビアズリーらによって描かれている。
オリエントの王女と聖者という人物の組合せ,舞と断首という異常な事件,異国趣味と神秘的な幻想的背景などが文学者たちの空想を刺激し,ハイネは長詩《アッタトロール》,フローベールは小説,マラルメは詩《エロディアード》,ユイスマンスは《さかしま》を書いた。O.ワイルドは一幕劇《サロメ》(1893)で,恋心から聖者の首をはねて口づけし,盾の下に圧死する王女像を定着させた。ワイルドのこの作品はイギリス本国では宗教上の理由で上演禁止され,初演はパリのテアトル・ド・ルーブル(1895),本国での上演は1905年であった。日本では1913年松井須磨子主演で,島村抱月の芸術座が帝国劇場で上演した。
ワイルドの《サロメ》のH.ラハマンによるドイツ語訳を基に,R.G.シュトラウスはオペラ《サロメ》を作曲,マスネーは繊細で優美な曲《エロディアード》(1881)を書き,F.シュミットはR.デュミュエールの詩を基にバレエ曲《サロメの悲劇》(1907)を作曲している。
執筆者:井村 君江
R.G.シュトラウスの第3作目の1幕のオペラ。O.ワイルドの同名の戯曲(ドイツ語訳,H. ラハマン)に基づく作品で,1905年,ドレスデンのオペラ座で初演され,その初演は,官能的で頽廃的な筋書と絢爛豪華なシュトラウスの音楽によってセンセーションをまきおこした(日本初演1962)。物語は聖書の記述を背景にくりひろげられ,ヘロデ王の義理の娘サロメが,預言者ヨカナーン(ヨハネ)に恋し,《七つのベールの踊り》を踊って,幽閉されているヨカナーンの首を手に入れるというもの。シュトラウスはワーグナーの楽劇から大きな影響を受けながら全体をまとめ,ライトモティーフを組織的に用い,分厚いポリフォニックな音の織地,アリオーソ的な歌唱法,豊かな色彩的なオーケストレーション,不協和音を含む大胆な和声法などによって,激しい表現力をもった官能的な作品を完成した。20世紀初頭に初演されたが,世紀末的な色彩が強い作品であると評される。
執筆者:船山 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの作家オスカー・ワイルドが名優サラ・ベルナールのためにフランス語で書いた一幕劇。1893年パリで出版、英語版は友人アルフレッド・ダグラスAlfred Douglas(1870―1945)の訳にA・V・ビアズリーの有名な挿絵を添えて1894年に出版された。イギリスでの上演は禁止され、初演は1896年パリのテアトル・ド・ルーブル。リヒャルト・シュトラウスによるオペラの成功(1905)もあった。ユダヤ王妃エロディアスの娘サロメの美しい踊りに心奪われた継父エロド・アンティパスが、獄中のヨカナーンの首をサロメに与えたという『新約聖書』「マタイ伝」14章の物語。世紀末的幻想とワイルドの色彩豊かな文章によって世紀末を代表する戯曲となった。
[前川祐一]
『『サロメ』(佐々木直次郎訳・岩波文庫/西村孝次訳・新潮文庫/日夏耿之介訳・角川文庫)』
『新約聖書』の登場人物。ガリラヤとペレアの領主(前4~後39)であった義父ヘロデ・アンティパスの誕生日の祝宴で舞い、その褒美として、母ヘロデヤにそそのかされて洗礼者ヨハネの首を所望した王女。サロメという名は福音書(ふくいんしょ)(「マタイ伝福音書」14章、「マルコ伝福音書」6章)にはなく、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』Josephus, Flavius “Ioudaikē Archaiologia”17巻による。サロメは、洗礼者ヨハネの死にまつわるエピソードとして、とくに首を盆にのせるというショッキングな事件のために有名であり、オスカー・ワイルドの戯曲の悲劇性や、リヒャルト・シュトラウスの楽劇で演じられる「七つのベールの踊り」の官能美に目をひかれやすい。それとは別に、サロメを通して当時のユダヤの宮廷生活の近親婚に触れることができる。母ヘロデヤはヘロデ大王の孫娘で、叔父たちの政略結婚に翻弄(ほんろう)されたとも理解できる。
[市川 裕]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…イギリス,ブライトンに生まれ,建築事務所,保険会社に勤めた後1891年,バーン・ジョーンズに勧められて画家を志す。デント版の《アーサー王の死》を最初に《ステュディオ》,O.ワイルドの《サロメ》,《イェロー・ブック》,《サボイ》などの挿絵や表紙の制作に携わる。ラファエル前派,ホイッスラー,日本の版画などの影響を受けるが,形体を自由にデフォルメし,流麗な線と,黒白の対比が鮮やかな素描で,頽廃の色濃い特異な装飾的画面をつくり出している。…
…しかし,彼の才能が最もよく発揮されているのは,その劇作品である。彼の唯美主義が如実に示されている《サロメ》(フランス語で書かれ1893年パリで出版。英訳は翌年発表),機知にあふれた風俗喜劇《ウィンダミア夫人の扇》(1892初演),《誠こそたいせつ》(1895)など,イギリス,アメリカのみならず各国の劇壇でいまなお上演されている。…
…このような理由から,すぐれた戯曲がただちにオペラに適するとは限らず,すぐれたリブレットが,文学的価値が高いとも限らない。とはいえ,メーテルリンクの戯曲によるドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》,ワイルドの戯曲によるR.シュトラウスの《サロメ》,G.ビュヒナーの原作によるベルクの《ウォツェック》のように,ごくまれに幸福な結びつきが見られるのも事実である。
[オペラと歌舞伎]
明治年間にドイツに留学した森鷗外は,故郷への便りの中で,オペラという言葉にかえて〈西洋歌舞伎を見た〉と記したという。…
…ガリラヤの太守ヘロデ・アンティパスHerod Antipasの後妻ヘロデヤHerodiasの娘。ただし,その物語を記したマタイ・マルコ両福音書には,サロメの名は記されていない。《マルコによる福音書》によれば,王妃ヘロデヤはヘロデの異母兄ピリポの妻であったが,サロメを連れてヘロデと再婚した。…
※「サロメ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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