フランス象徴詩派の師表と仰がれた詩人。3月18日、大蔵省官吏の子としてパリに生まれる。5歳のとき母を失い、母方の祖父母に養育されたが、のち寄宿学校に入り、「孤児」の境涯を体験。母の死は、1857年に夭折(ようせつ)した妹マリアの思い出とともに彼の心の深層に生涯癒(いや)されぬ傷を遺(のこ)した。12、3歳ころから幼い詩作を試み、生前発表されなかった少年時の作詩は50編を超えるが、1857年にポー、ボードレールの存在を年長の友人の導きによって知ったことが彼の生涯の進路を決定づけた。ことに1861年ボードレール『悪の華』(再版)の全容を知ってその強大な影響の下に置かれ、これを克服して独自の詩を生み出すことが当面の目標となる。1862年、年上の愛人マリー・ジェラール(マリア・ゲルハルトMaria Gerhard)と手を携えてロンドンに遁(のが)れた彼は、翌年夏マリーと結婚し、帰国後トゥルノン高等中学の英語講師に任命され、以後1871年パリに定住するまで地方高等中学の英語教師を歴任するが、苦悩と絶望と歓喜の交錯するこの8か年の歳月が彼をまったく新たな詩人に変容させた。
[松室三郎]
初めポーの詩観を跳躍台としてボードレールの影響を離脱し、さらにポーをも超えて独特の「天使振り(アンジェリスム)」angélismeを示すに至るが、第一次『現代高踏詩集(パルナス・コンタンポラン)』Parnasse contemporain(1866)に投じた名編「海の微風」「溜息(ためいき)」を含む初期11詩編によって詩壇に一地歩を築いたころ、彼は1864年秋に始まる長詩「エロディヤード」の創作を契機として、詩人個人にはいかんともしがたい国語との格闘、さらには対言語姿勢の大転換を促さずにはおかない詩人存在そのもののありようを、熱烈に問い続ける前人未踏の探究のさなかにあった。未完のコント「イジチュール」Igitur(1869執筆)はこの「致命的」体験の形見である。この深刻な危機体験ののち、1871年以降は前期詩風の決算である「エロディヤード(舞台)」Hérodiade(おもに1865春創作、1871発表)、『半獣神(フォーヌ)の午後』(初稿1865夏、1876完成)を公にし、また『大鴉(おおがらす)』(1875)をはじめポー詩の翻訳を次々に発表するかたわら、危機体験そのものから生まれ出たソネ(ソネット)群の推敲(すいこう)を並行的に続行、これらは1883年以降逐次発表されて、作者が生涯に二度自ら厳選し刊行した『ステファヌ・マラルメ詩集』(1887、1899)の中核となった。
[松室三郎]
彼自身の死生観を亡き詩人ゴーチエに仮託して歌い上げた長詩「葬(とむらい)の乾盃(かんぱい)」(1873)に始まる一連の芸術家礼賛詩群とともにマラルメ後期詩編を形成するソネ群は、詩論のオード「プローズ(デ・ゼッサントのために)」(1885)にも語られているように、いずれも語にイニシアティブを与えつつ丹念に構築された自己完結的な語の建築であり、同時に詩群の全体がことばの花の群生として「詩人の世界」を体現しつつ一国語による表現の極限を示している。1885年以降は多年の思索を結晶させた文学論が雑誌・新聞に発表され、これらは散文詩とともに『逍遙遊(デイバガシオン)』(1897)に集大成された。音楽会やカトリック教会のミサも含めて舞台芸術までを広い視野に収めつつ文芸の根本的あり方を深く洞察したこれらの散文作品(著者自身は「批評詩」と名づけた)は、現代フランス文学の直接の先駆として、ここに提起された問題の全体像がいまようやくその姿を明らかにしようとしている。
また、最晩年の大作「骰子一擲(さいいってき)」Un coup de dés jamais n'abolira le hasard(1897)は、特殊な組版、7種類の活字を使って、詩化された内面の波動をそのまま視覚的に見開き11面の紙面上に定着した空前の試みであり、ここに詩編は「書物」という肉体を得て宇宙的な相貌(そうぼう)をとるに至った。この作品をさらに推敲し、同時に終生のテーマたる総合詩群『エロディヤードの結婚』を完成すべく精進しつつあったマラルメは、1898年9月8日午後、バルバンのセーヌ河を隔ててフォンテンブローの森に臨む別墅(べっしょ)の書斎で、喉頭(こうとう)疾患の激しい発作にみまわれた。詩人は発作の鎮まったのち「遺書」をしたため、翌朝来診した医師の面前で前日の発作を実演してにわかに絶息、そのまま56歳の生涯を閉じた。
詩人生涯の夢であった「究極の歌(オード)」、また「世界がそのためにこそ存在する、書かるべき唯一無二の書物」は、当然にも未完に終わったとはいえ、彼の言説は、晩年彼の周囲に結集したバレリー、クローデル、ジッドら「火曜会」Les Mardis(1877年ころから徐々に形成された詩人宅での集い)のもっとも若いメンバーに深甚な衝撃を与えて、20世紀前半の文学をそれぞれに代表する優れた応答を引き出すこととなった。第二次世界大戦後は、戦中に始まる本格的なマラルメ研究の成果が人類滅亡の危機意識を背景に、文学を根源的に問い直すサルトルら知的選良によっていち早く取り上げられ、現代作家各自ののっぴきならぬ問題として深化されつつある。
[松室三郎]
日本へのマラルメ紹介は1905年(明治38)上田敏(びん)の名訳『嗟嘆(といき)』(『溜息(ためいき)』)ならびに探訪記者ジュール・ユーレJules Huret(1864―1915)に対する探訪での詩人の回答の部分訳(いずれも『海潮音』所収)にさかのぼるが、一般には新奇な文学意匠と受け取られるか単なる誤読の域を脱せず、真のマラルメ理解への道は1919年(大正8)前後を境に鈴木信太郎の孤立した研究・翻訳によって切り開かれた。日本でもこの詩人の本格的受容は第二次世界大戦後のことでしかない。
[松室三郎]
『鈴木信太郎訳『マラルメ詩集』(岩波文庫)』▽『鈴木信太郎他訳『筑摩世界文学大系48 マラルメ他』(1974・筑摩書房)』▽『松室三郎訳『詩の危機』『書物について』『文芸の中にある神秘』(『世界批評大系2』所収・1974・筑摩書房)』▽『松室三郎訳『マラルメ 詩と散文』(1987・筑摩書房)』▽『ジョルジュ・プーレ著、松室三郎訳『マラルメ』(『人間的時間の研究2』所収・1977・筑摩書房)』▽『菅野昭正著『ステファヌ・マラルメ』(1985・中央公論社)』
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フランス象徴派の師表とされた詩人。大蔵省官吏の子としてパリに生まれ,生涯の大半を高等中学校の英語教師として送る。12~13歳ころから幼い作詩を試みるが,1857年ポー,ボードレールの存在を知ったことが生涯の進路を決定づけた。第1次《現代高踏詩集》(1866)に投じた名編《海風》《溜息》を含む初期詩編によって詩壇に一地歩を築いた頃,彼は64年に始まる《エロディアード》創作を契機として詩的言語,さらには詩人そのもののあり方を熱烈に問い続ける前人未到の探究のさ中にあった。この深刻な危機体験の後,71年以降は,前期詩風の決算である《エロディアード》の一部を成す〈舞台〉(1871発表),《半獣神の午後L'après-midi d'un Faune》(初稿1865,76完成)を公にし,またポーの詩の翻訳を次々に発表するかたわら,危機体験そのものから得られたソネ群の推敲を並行的に続行し,これらは84年以降逐次発表されて,作者が生涯に2度自ら厳選し刊行した《ステファヌ・マラルメ詩集》(1887,99)の中核となった。長詩《葬いの乾盃》(1872)に始まる芸術家礼賛詩群とともに彼の後期詩編を形成するソネ群は,いずれも語にイニシアティブを与えつつ丹念に構築された自己完結的な語の建築であって,一国語による表現の極限を示している。
85年以降は多年の思索を結晶させた文学論が諸雑誌に発表され,これらは散文詩とともに《逍遥遊Divagations》(1897)に集大成された。舞台芸術も含む広い視野に立って文芸の根本的あり方を深く洞察したこれらの散文作品(著者自身は〈批評詩〉と名づけた)は,現代フランス文学の直接の先駆として,ここに提起された問題の全体像が今ようやくその姿を明らかにしようとしている。また最晩年の大作《骰子一擲(さいいつてき)Un coup de dès jamais n'abolira le hasard》(1897)は特殊な組版,7種類の活字を使って詩化された内面の波動をそのまま視覚的に紙面に定着した空前の試みであり,ここに詩編は〈書物〉という肉体を得て宇宙的な相貌をとるにいたった。生涯の夢であった〈究極の歌(オード)〉は当然にも未完に終わったとはいえ,彼の言説は晩年彼の周囲に結集したバレリー,クローデル,ジッドら〈火曜会〉の若いメンバーに深甚な衝撃を与えて,20世紀前半の文学をそれぞれに代表する優れた応答を引き出すとともに,第2次世界大戦後は戦中に始まる本格的なマラルメ研究の成果が人類滅亡の危機意識に裏打ちされて,文学を根源的に問い直すサルトルら知的選良によって作家各自ののっぴきならぬ問題として深化されつつある。
日本へのマラルメ紹介は1905年上田敏の名訳《嗟嘆(といき)》ならびにジュール・ユーレの探訪での詩人の回答の部分訳(いずれも《海潮音》所収)にさかのぼるが,一般には新奇な文学意匠と受けとられるか,単なる誤読の域を脱せず,真のマラルメ理解への道は1919年前後を境に鈴木信太郎の孤立した研究・翻訳によって切り開かれざるをえなかった。日本の文学者が明確な問題意識のもとにこの詩人を受容したのは,福永武彦ら〈マチネ・ポエティク〉同人を嚆矢(こうし)とし,それは十五年戦争末期,および戦後のことでしかない。
執筆者:松室 三郎
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1842~98
フランスの象徴派詩人。意味よりも音楽性を重視した言葉の結合により,純粋で理想的な美を暗示しようとした。ヴァレリら20世紀作家に及ぼした感化は大きい。代表作は「牧神の午後」を含む『詩集』など。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 1860年代,70年代を通じて,しだいに地歩を固めてきたこうした新しい文学が,多少とも広く知られる機会をつくったのは,84年に発表されたユイスマンスの《さかしまÀ rebours》である。愚劣,猥雑な現実社会に背を向け,孤独な生活にひきこもって夢想に耽り,美を享楽する人物を主人公として,それ自体が象徴主義のひとつの側面を濃厚に体現したこの小説のなかで,ボードレール,ベルレーヌ,マラルメの詩が熱烈に紹介された。それもただの紹介ではなく,適切な評価に基づいて賞賛されたのである。…
…本来はローマ帝国末期の文化が爛熟の極に衰退して技巧的になり,不自然,不健康,腐敗の様相をあらわしてくることを指したが,ここではパリを中心とした19世紀末の一群の芸術家たちの傾向を指す。1880年から85年にかけて,マラルメの〈火曜会〉に列席する青年たちがしだいに数を増してき,他方ではカフェを中心として,数多くのクラブが設立されたり小雑誌が刊行されたりして,デカダンスの美学を公然と口にする者がふえてきた。その際,彼らが師表として仰いだ先輩詩人はボードレール,ビリエ・ド・リラダン,ベルレーヌ,マラルメであったから,その運動は象徴主義(サンボリスム)のそれと重なり合うことになった。…
… 卒業後大賞受賞者としてローマに滞在,留学作品に合唱つきの交響組曲《春》,カンタータ《選ばれた乙女》(ロセッティ詩のフランス語訳)などがあるが,後者はほとんどパリでつくられたもので,93年初演されていささか彼の名を世間に知らせた。同年末に弦楽四重奏曲,翌年末マラルメの詩に基づく《牧神の午後への前奏曲》と,傑作があいつぐ。かたわら,熱狂していたR.ワーグナーへの批判がめざめた。…
…それは小説と劇場が重なる現象でもあり,《椿姫》以来小説の舞台化が流行する。と同時に,フローベール,ゴンクールら同時代文学(小説)の先鋭的な部分は劇場では成功せず,あるいはマラルメを師とする象徴派(象徴主義)のように劇場への両義的思い入れを抱きつつも劇場から排除される。象徴派あるいはその風土から出発した劇作の中では,M.メーテルリンクは上演されたが,A.ジャリの真価が認められるのはダダとシュルレアリスム以後であり,P.クローデルの劇の大々的上演は半世紀以上後のことになる。…
…ドビュッシーはこの作品で自己の作風を確立すると同時に,20世紀のオーケストラ作品の方向を決定した。マラルメの同名の象徴詩に感動した作曲者は,1892年,〈前奏曲〉〈間奏曲〉〈敷衍曲〉の3曲からなる大作に着手したが,結局〈前奏曲〉だけを94年9月に完成した。初演は,同年12月22日,サル・ダルクールでG.ドレの指揮によって行われた。…
※「マラルメ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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