改訂新版 世界大百科事典 「シニョリーア制」の意味・わかりやすい解説
シニョリーア制 (シニョリーアせい)
中世末期のイタリア都市における事実上の君主制。シニョリーアsignoriaは主権を意味する。古代ギリシア都市の例を援用して〈僭主制〉と訳す場合もある。また主権を掌握した君主をシニョーレと呼ぶ。11世紀以降,北・中部イタリアの各地に成立したコムーネ(都市国家)は,13世紀に入ると党派の対立,都市相互の抗争の結果,政治的な安定を失い危機を迎えることになった。一部の都市,とくに大都市に圧迫されているロンバルディアやロマーニャの中小規模の都市において,権力を一人の有力者の手に集中することによって危機を克服する試みが行われた。フェラーラ(1209年以降エステ家が支配)やベローナ(1226年からエッツェリーノ・ダ・ロマーノが,1260年からデラ・スカラ家が支配)などが早い例である。シニョーレとして権力を掌握した者の出自はさまざまであった。都市の司政官(ポデスタ,カピターノ・デル・ポポロなどと呼ばれ,都市法に立脚した統治を委任されるもの。任期は半年から2年程度)が全権を掌握し,職務を終身のものとしてしまう場合,強力な軍事力をもつ領主層が軍事指揮官としてコムーネに招聘され,さらに政権を得る場合などがあった。いずれの場合も彼らはコムーネの正規の議決機関の決定を得て,その支配を正当化しようとする。またシニョーレ間の交渉によって,都市の支配権が買い取られる場合もあった。こうして権力を握ったシニョーレは官吏の任免権や条例発布権を得て,実質的にコムーネの制約から解放されることになる。13世紀末から14世紀において,北・中部イタリアのほとんどの都市にシニョリーア制が拡大した。14世紀は飢饉,黒死病,百年戦争のような天災・人災が襲来し,国際貿易に従事する大商人が相次いで倒産した〈危機〉の時代であった。それがコムーネの政治を極度に不安定にし,結果的にシニョリーア制を普及させたといえよう。ミラノのビスコンティ,マントバのゴンザーガ,リミニのマラテスタ,ウルビノのダ・モンテフェルトロなどが有名なシニョーレの家である。なかでもビスコンティ家は1329年以降皇帝代官の称号を得て,15世紀初頭には北イタリアを統一する勢いを示した。一方,1434年にフィレンツェの実権を握ったメディチ家は,コムーネの伝統が強固であるために,シニョーレを名のらず,陰の支配者にとどまった。また,都市貴族(大商人)層の強固な支配が確立していたベネチアでは,ついにシニョリーア制が成立しなかった。これらのシニョーレの中から,14世紀から15世紀にかけて皇帝や教皇の代官,公,侯のごとき称号を獲得し,固有の君主国家を形成するものが現れた。
→コムーネ
執筆者:清水 廣一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報