イタリア北部,ロンバルディア州の同名県の県都。人口5万4230(1990)。ポー川の支流であるミンチオ川の湾曲部の内側に位置する農産物の集散地,軽工業の中心地。ローマ時代の代表的詩人ウェルギリウスの生地として知られるマントバは,その叙事詩《アエネーイス》によれば,エトルリアに起源をもつとされる。中世には自由都市として栄え,1167年ロンバルディア都市同盟の一員となり神聖ローマ皇帝に対抗,1273年にはボナコルシ家が権力を手中に収めたが,1328年以来1707年までゴンザーガ家の統治するマントバ公国となる。ルネサンス期には,拮抗する三大勢力(ミラノ,ベネチア,教皇領)の緩衝地帯として政治上重要な地位を占め,また学芸擁護の中心地ともなった。ルイジ3世(在位1444-78)はルネサンスを代表する英明君主で,都市を整備するとともに,建築家L.B.アルベルティを招請し,サン・セバスティアーノ聖堂,サンタンドレア聖堂の設計を委嘱。また,A.マンテーニャを宮廷画家として抱え,〈カメラ・デリ・スポージ〉に一族の生活を主題としたフレスコ画を描かせた。フランチェスコ2世(在位1484-1519)の夫人イザベラ・デステは,ルネサンス期に活躍する女性の中でも最も魅力的な人物で,作家,芸術家に取り囲まれ,洗練された宮廷文化を繰り広げた。フェデリコ2世(在位1519-40)は,神聖ローマ皇帝カール5世に献呈する〈ゼウスの愛の物語〉を扱った一連の作品をコレッジョ(1489-1534)に委嘱。G.ロマーノ(1499ころ-1546)には,幻想的な別荘(パラッツォ・デル・テ)の設計と内部装飾を委嘱し,さらに同市の都市計画も依頼し,ヨーロッパでも有数の整備された美しい都市とした。ちなみに,天正遣欧使節一行がマントバ滞在のおりには,グリエルモ公(在位1550-87)の訪問をうけ,ミンチオ川の形成する湖上で市民3万人以上の歓迎の花火大会に出席している。1707年オーストリア領となり,96年6月から8ヵ月間ナポレオン軍に包囲されて陥落した。1815年再びオーストリア領となり,66年イタリア王国に統一された。
執筆者:望月 一史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア北西部、ロンバルディア州マントバ県の県都。人口4万6372(2001国勢調査速報値)。ポー川支流ミンチオ川の右岸、ポー川との合流点から約20キロメートル上流でミンチオ川が湾曲して土手と橋でくぎられた三つの湖を形成する地点に位置する。農産物の集散地、交通の要地であるほか、第二次世界大戦後、化学や機械などの重化学工業が発展した。マルゲーラ(ベネチア本土部の工業地区)とはオイル・パイプラインで連結されている。イタリア・ルネサンス文化の代表的中心地の一つであり、かつてのゴンザーガGonzaga家の宮殿で現在では美術館・博物館となっているドゥカーレ宮殿(13~18世紀)をはじめ多数の旧跡があり、訪れる観光客も多い。
[堺 憲一]
紀元前6~前5世紀のエトルスク(エトルリア人の町)を起源とする都市で、ローマ時代に栄えた。紀元後601年にはロンバルディア公国の支配下に入り、その後ロンバルディア同盟に属するコムーネ(自治都市)として、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髯(あかひげ)王)やフリードリヒ2世の支配に抵抗した。その後、ゴンザーガ家の支配時代には、とくに同家のフランチェスコ2世(1466―1519)と結婚したイサベラ・デステが多くの文人や芸術家を保護した。その間にジュリオ・ロマーノ設計によるゴンザーガ家の別荘デル・テ宮殿ができ、マンテーニャのフレスコ画で有名なドゥカーレ宮殿も建てられた。ナポレオンのイタリア支配崩壊後、オーストリア支配下に置かれたが、1866年イタリアに属した。
[藤澤房俊]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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