イタリアの映画監督、演出家。11月2日、6世紀も続いたミラノの貴族モドローネ公爵家の第4子として生まれる。1936年、ファシズムのイタリアを去って人民戦線のフランスに行き、ジャン・ルノワールの教えを受けた。ミラノに帰ると演劇に関係した。以後、彼の活躍は舞台と映画の交互にわたった。舞台は主としてローマで、イタリア古典劇のほかコクトーの『恐るべき親たち』、サルトルの『出口なし』、ウィリアムズの『欲望という名の電車』、ミラーの『セールスマンの死』などのイタリア初演を手がけた。また『椿姫(つばきひめ)』『アンナ・ボレナ』『トスカ』などをスカラ座をはじめ世界各地のオペラで演出(ときには装置、衣装も)して名声をあげた。
映画の処女作は1942年の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(原題『妄執』)である。現実凝視のリアリズムの深さは、ネオレアリズモの先駆をなすものと評された。第二次世界大戦後の第一作『揺れる大地』(1948)は、貧しいシチリアの漁村の生活そのままを忠実に描き、ビスコンティはこれによってネオレアリズモの一方の始祖となった。1954年の大作『夏の嵐(あらし)』は、彼の作風の変化を示し、国家統一時代の情熱の悲劇を子細に描いて、ここに「ネオレアリズモ・ロマンティコ」が生まれた。『若者のすべて』(1960)は労働者の生活を描くネオレアリズモ作品だったが、シチリアの没落貴族の高貴な姿を主題とした傑作『山猫』(1963)以後、ビスコンティは、過去の記念すべき階級の真実の再現を自らの芸術的使命とした。『ベニスに死す』(1971)、『ルードウィヒ』(1972)、『家族の肖像』(1974)などすべてそうである。『ルードウィヒ』制作後半身不随となったが、病をおして監督を続け、『イノセント』(1976)を残して、1976年3月17日ローマに没した。
[飯島 正]
郵便配達は二度ベルを鳴らす Ossessione(1942)
トスカ La Toska(1944)
揺れる大地 La terra trema : episodio del mare(1948)
ベリッシマ Bellissima(1951)
われら女性 Siamo donne(1953)
夏の嵐 Senso(1954)
白夜 Le notti bianche(1957)
若者のすべて Rocco e i suoi fratelli(1960)
ボッカチオ'70~「仕事中」 Boccaccio '70 - Il lavoro(1962)
山猫 Il gattopardo(1963)
熊座の淡き星影 Vaghe stelle dell'orsa…(1965)
華やかな魔女たち~「疲れきった魔女」 Le streghe - La Strega bruciata viva(1966)
異邦人 Lo straniero(1968)
地獄に堕ちた勇者ども La caduta degli dei(1969)
ベニスに死す Morte a Venezia(1971)
ルードウィヒ 神々の黄昏 Ludwig(1972)
家族の肖像 Gruppo di famiglia in un interno(1974)
イノセント L'innocente(1976)
『フィルムアート社編集部編『ヴィスコンティ集成――退廃の美しさに彩られた孤独の肖像』(1981・新書館)』▽『モニタ・スターリング著、上村達雄訳『ルキーノ・ヴィスコンティ――ある貴族の生涯』(1982・平凡社)』
イタリアの映画監督であり演劇・オペラの演出家。映画史的には,ロベルト・ロッセリーニ,ビットリオ・デ・シーカと並ぶ〈ネオレアリズモ〉の巨匠として評価されている。ミラノ生れ。その家系は中世にまでさかのぼるミラノ随一の名家の公爵家である。幼児から完ぺきな貴族教育を受け,父親の影響で早くから演劇,オペラに興味をもつが,長じては家出を数回も繰り返したほどの反逆精神の持主であったため,反動的に新しい芸術である映画にのめりこんでいった。30歳のとき,服飾デザイナーのココ・シャネルの紹介でフランスの映画監督ジャン・ルノアールの助監督となり,多くのフランスの映画人と知り合い,彼らを通じて人民戦線にもかかわりをもった。そんなことから,のちに〈赤い公爵〉と呼ばれるようになる。1942年,アメリカのハードボイルド小説《郵便配達は二度ベルを鳴らす》(1934。ジェームズ・ケーン作)を映画化,〈新しいイタリア映画の夜明け〉と絶賛されたが,まもなく上映禁止となる。レジスタンスに参加し,戦後は演劇活動に精力的に取り組んだが,48年にはシチリアの漁村にオール・ロケした映画《揺れる大地》をつくり,〈ネオレアリズモの最高傑作〉と絶賛された。日本では55年に公開されたカラー作品《夏の嵐》(1954)で初めて知られ,ファッション界からそのブームが起こった《地獄に堕ちた勇者ども》(1969)から晩年の《ルードウィヒ 神々の黄昏》(1973),《家族の肖像》(1974),遺作《イノセント》(1976),そして死後リバイバル公開された《山猫》(1963)に至るまで,むしろその〈様式美〉で評価され,人気を得ている傾向がある。
執筆者:吉村 信次郎
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…フィレンツェに生まれ,建築を学ぶ。1940年代から50年代にかけて,M.アントニオーニ,V.デ・シーカ,L.ビスコンティに師事。ビスコンティは彼の舞台装置家としての才能を認め仕事を依頼,49年ビスコンティ演出《トロイラスとクレシダ》の装置で注目された。…
…フランスでナポレオン3世の第二帝政の出現(1852)とそのパリ改造計画(1853‐70)を契機として起こったバロック建築様式の復興をいう。ビスコンティLudovico Visconti(1791‐1853)とルフュエルHector M.Lefuel(1810‐81)は,ルーブル宮殿新館でイタリア・バロック風の彫塑的な壁面とマンサード屋根を組み合わせ,これは,いわゆる〈第二帝政式〉として流行した。また,C.ガルニエのオペラ座(1861‐74)はその豪華壮麗さで世界を驚かせ,当時帝国主義的競争の渦中にあった先進諸国は,ネオ・バロック様式こそ国家の威信を最もよく表現する建築様式とみなして,いっせいに採用するようになった。…
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[誕生と発展]
戦後のイタリアでは,ナチス・ドイツ軍の過酷な弾圧に対する抵抗運動や貧困と生活苦などをテーマにした数々のイタリア映画の傑作が生まれた。ロベルト・ロッセリーニ監督《無防備都市》(1945),《戦火のかなた》(1946),ビットリオ・デ・シーカ監督《靴みがき》(1947),《自転車泥棒》(1948),ルキノ・ビスコンティ監督《揺れる大地》(1948),等々である。これらの作品に共通する現実告発の厳しい態度ときわめてドキュメンタリー的な撮影方法,主人公は貧しく,主としてしろうとを使い,ロケを主体とする現場主義,即興的演出(同時録音はせずに,せりふもすべてアフレコだった),生きたスラングや方言の採用,さらにクローズアップを少なく,ロング・ショットを多用したこと等々に対して,人々は新しいリアリズムの誕生という意味で〈ネオレアリズモ〉と呼んだ。…
※「ビスコンティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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