フランス中世末期の王侯詩人。王弟ルイ(オルレアン公)を父とし,バレンティナ・ビスコンティ(ミラノ公女)を母としてパリで生まれる。12歳のとき父が暗殺されたため,父の敵であるブルゴーニュ公との対決姿勢を鮮明にし,若年にして一党の旗頭となる。しかし1415年,敵方と盟約を結ぶイングランド軍とアザンクールで戦って敗れ,捕虜となり,イギリスに移され,その後25年に及ぶ捕囚を余儀なくされる。47歳で帰国,数日後にブルゴーニュ公フィリップの姪マリー・ド・クレーブと3度目の結婚をし,国内2党派間の調停に乗り出す一方,ミラノ公領を求めて外征に赴くが,いずれも手痛い仕打ちを受け,ブロアに隠棲する。マリーとの結婚後17年目にして女子をもうけ,68歳になって初めて男子にめぐまれる。これが後にフランス王ルイ12世となる。
宮廷のただ中で育ったシャルルは,10歳のときすでに詩作を始めた。捕囚時代には,獄屋にいる恋のとりこが歌うバラードやシャンソンをフランス語と英語とで作っていたが,40歳を越えたあたりから,ひたすら〈無関心nonchaloir〉を追求するようになる。他に向かう情念の力をすべて自己の内部に投入し,内面の振幅の激しいドラマを回旋(ロンド)的に描き尽くすことに専念する。ここにおいて初めてフランス文学は,内面こそ唯一の関心事とする偉大な詩人の誕生を見たのである。だがその世界は短く単純な詩型と貧弱で平凡な語彙を用いて語られているためか,後世の不注意な読者からは,安易な詩人,王様の道楽と見なされてきたきらいがある。自作のほとんどを収め,公の親筆の加わった1巻の《詩の手帳》(パリ,ビブリオテーク・ナショナルに現存)は,今日ようやく,そのかたくなな世界を開示し始めたところである。
執筆者:細川 哲士
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フランスの詩人。バロア朝第4代のフランス国王シャルル6世の弟ルイ・ドルレアンの子。政争に巻き込まれ波瀾(はらん)万丈の青春を送る。ブルゴーニュ公の刺客に暗殺された父の復讐(ふくしゅう)を目ざし、アルマニャック派の首領としてフランスを二分して戦う。アザンクールの戦いで捕虜となり、イギリスで25年の虜囚生活を送る間、フランスをしのび『獄舎の歌』をはじめ、意中の貴女(きじょ)を歌う優雅なバラードやシャンソンを綴(つづ)る。自由の身になるや平和のための調停役を務めたが、変わり果てたフランスに幻滅を感じ、政治生活を捨て、ブロワの居城に引きこもり、「無関心(ノンシャルワール)」を旨とし、お気に入りの詩人たちに囲まれて隠遁(いんとん)生活を送る。1457年に催した詩会にはビヨンも参加した。新鮮な感覚と繊細な感情の持ち主で、完成された最後の宮廷風恋愛詩人、最後の王侯詩人として、巧みなフランス語でアレゴリーを駆使し、優雅と憂愁を込めたロンドーを完璧(かんぺき)の域に高めた。
[高田 勇]
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…抒情詩としては12世紀ごろから南仏で活動したトルバドゥールと呼ばれる詩人たちの恋愛歌や物語歌がジョングルールという芸人たちによって歌われ,北仏のトルベール,ドイツのミンネゼンガーなどに伝わって,貴族階級による優雅な宮廷抒情詩の流れを生むが,他方には舞踏歌,牧歌,お針歌などの形で奔放な生活感情を歌った民衆歌謡の流れがあり,これがリュトブフ(13世紀)の嘆き節を経て,中世最後の詩人といわれるフランソア・ビヨン(15世紀)につらなる。ほぼ同じ時期に最後の宮廷詩人シャルル・ドルレアンもいて,ともにバラードやロンドーといった定型詩の代表作を残した。 いちはやくルネサンスに入ったイタリアでは,すでに14世紀にダンテが《神曲》《新生》を,ペトラルカがソネット形式による甘美な抒情詩を書いていたが,16世紀までには他のヨーロッパ諸国にもその影響がひろがる。…
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