フランス文学(読み)ふらんすぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス文学」の意味・わかりやすい解説

フランス文学
ふらんすぶんがく

フランスは国土がヨーロッパの中央に位し、気候温和、地味豊かであるうえに、海陸の交通にも恵まれていたので、早くからヨーロッパの文化の中心になっていた。フランスの国民は一般に性格が陽気で、自由と快楽を追求するといわれているが、その反面また厳格なカトリック教徒でもあり、デカルト哲学を生むような合理主義者でもある。また過激で急進的な革命を敢行したが、頑固な保守主義的な傾向も多分にもっている。文学もこうした国民性を反映して複雑多様であるが、概括すれば、ロマン主義的であるよりはむしろ現実主義的である。情熱的というよりはむしろ理知的であって、明快さと秩序と論理を重んじ、感情の自由奔放な表出よりも、形式の調和を尊重する傾向がある。また、他の国の文学に比べて、より人間的であり、内面的な人間研究を重んじるという、いわゆるモラリスト的傾向の強いことも特徴である。

[新庄嘉章・平岡篤頼]

フランス文学の展開

中世――宗教的教化文学 武勲詩 笑いと風刺の文学

フランス文学の開花はほぼ12世紀に始まるが、ラテン語の俗化した古代フランス語で書かれた最初の文学的作品『聖アレクシ伝la Vie de Saint Alexisは1040年ころにつくられている。もちろんこれはラテン語の著作によるもので、作者は教養ある聖職者と推定されている。これをみても、当時の文化の担い手は聖職者であったことがわかる。ゴールGauleとよばれていたフランスの土地を征服したローマ帝国は、ギリシア、ローマの文明とともにキリスト教をもたらし、その後のフランク王国もキリスト教を尊重した。したがって、教会を通して文化統一が行われ、当時の代表的知識人であった聖職者が一般民衆のために、ラテン語で書かれた著作をフランス語に移したものと考えられる。『聖アレクシ伝』をはじめ多くの聖者伝がつくられたが、これらはまだそれほど文学性の高いものではなかった。

 真の文学的作品は、11世紀なかば前ころにつくられたと推定される作者不詳の『ロランの歌』を最高傑作とする、いわゆる武勲詩だといえよう。武勲詩の多くは11世紀後半から12世紀にかけての封建制度確立時代の騎士的情熱と、十字軍戦士にみられるようなキリスト教精神との融合から生まれたものである。これらの聖者伝や武勲詩は旅芸人によって市場の広場などで語られ、巡礼や民衆に教化的な娯楽を与えるものとなった。騎士道文化はさらに一連の宮廷風騎士道物語を生んだが、この物語の特徴は高貴な女性への愛を中心としたことである。また南フランスの吟遊詩人トルーバドゥールたちは、武勲詩にみられる叙事詩形式のものではなくて、個人的感情を優雅に表現する叙情詩のジャンルをつくりだした。

 12世紀末から13世紀、さらに14世紀にかけては、『ばら物語』に代表される寓意(ぐうい)文学や、陽気で開放的なゴール精神を母胎とするファブリオーfabliau(滑稽(こっけい)で風刺的な韻文笑話で、対象とされる登場人物は多くは聖職者や金持ちや商人など)、また社会の不正や偽善を風刺した『狐(きつね)物語』などが出てきたことは、文学の主題や読者範囲が貴族階級からしだいに町民階級へ移ってきたことを物語っている。

 百年戦争(1337~1453)によって一般に文学的創造力の自然な発現は妨げられたが、宗教劇として聖史劇(ミステールmystère)・奇跡劇(ミラクルmiracle)、喜劇として笑劇(ファルスfarce)・阿呆(あほう)劇(ソチsotie)、また道徳劇(モラリテmoralité)などが大衆娯楽として流行した。なかでも作者不詳の『パトラン先生』は出色のものである。また百年戦争末期の社会的不安と混乱のなかから詩人ビヨンが生まれてきたのは特筆すべきことである。

[新庄嘉章・平岡篤頼]

16世紀――ユマニスムとモラリスム

15世紀後半になると、イタリアのルネサンス文化が徐々にフランスに入ってきて、ギリシア、ローマの古典研究が盛んになり、そのうちに新しい人間の生き方を探究しようとするユマニスト(人文主義者)たちの活動が始まった。また宗教改革の運動は新旧両教徒の争いを激化して、16世紀の後半を血なまぐさい混乱に陥れたが、ユマニスムhumanismeの大きな波の進行を妨げることはできなかった。このフランス・ルネサンスの混沌(こんとん)期を代表する作家はラブレーである。その著『ガルガンチュワ‐パンタグリュエル物語』(1532~64)は、超人的な英雄を主人公とした長編物語で、健康な笑いのなかに、当時の古い制度や風習に対して痛烈な批判を加えている。ラブレーがこの世紀の混沌期を代表するとすれば、円熟期を代表するのは『随想録』の著者モンテーニュである。フランス文学のおもな潮流のなかにモラリスムmoralismeのそれがあげられるが、いつの時代にも、警句とか箴言(しんげん)とかの形で人間の内面を考察し、実践的で中庸な倫理を追求するモラリストがいた。モンテーニュはその最初にして最大の人であったといっていい。詩の世界においては、イタリアの詩の影響はもちろん、ギリシア、ローマの詩の影響もはっきりみられて、ロンサールを中心としたプレイアード詩派の詩人たちがフランス叙情詩の大きな基礎を築いた。

[新庄嘉章・平岡篤頼]

17世紀――古典主義の確立

ひと口に17世紀は古典主義の時代といわれているが、古典主義の文学が確立されたのは、この世紀中葉のルイ14世の親政以後のことである。もちろん世紀の初めにも、整然とした詩形や純化された用語の必要を説いて、古典主義美学の端緒をつくったマレルブのような詩人もいた。しかし世紀の初期はまだ動乱の前世紀の延長で、文学が栄えるに好適な社会環境は十分に整備されてはいなかった。ルイ14世は1661年に親政を開始するとともに、封建諸侯の権力を弱めて中央集権の実をあげた。政情が安定するとともに、文学も整理と純化の方向に向かい、やがて秩序と調和と平衡を特徴とする、いわゆる古典主義文学の時代が到来した。なかでもコルネイユによって確立され、ラシーヌによって完成された古典悲劇は、「三一致の法則(三単一の法則)」、優雅な言語という厳しい制限を、自律的な規則に変えて、意志の力と運命的な情念との心理的葛藤(かっとう)をみごとに表現した。喜劇もモリエールによってフランス喜劇の伝統が確実に築かれたが、彼もまた同時代の古典主義者と同じように、理性と良識を重んじ、それらから外れた自然らしからぬものは、笑いと風刺の制裁を受けねばならないと考えた。

 そのほか、フランスの心理分析小説の祖といわれるラファイエット夫人、軽妙洒脱(しゃだつ)な寓話作家ラ・フォンテーヌ、格調高い雄弁で有名な説教家ボシュエ、古典主義の理論家ボアロー、モンテーニュの流れをくんだモラリストのラ・ロシュフコーとラ・ブリュイエール、書簡文学のセビニェ夫人など多くの文学者が輩出した。こう列挙してみると、17世紀は、古代芸術のもっている美に対する憧憬(しょうけい)と、真実を求める近代的理念とがみごとに均衡調和を保った文学の黄金時代といえよう。

 哲学者であり思想家であるデカルト、パスカルも文学の世界と無縁の人とみることはできない。デカルトの理論が古典主義の理念の形成に役だったか否かについては論議の余地があるが、18世紀以後の文学や思想に多大な影響を及ぼしたことは否定できない。パスカルは理性に対する不信と強力な想像力とによって、この世紀の古典主義者たちとは一線を画しているが、とくに19世紀の多くの文学者に深い影響を与えている。

[新庄嘉章・平岡篤頼]

18世紀――啓蒙時代 思想文学の台頭

17世紀の終わりに、詩人のペローが古典主義者たちの古代崇拝を批判し、ボアロー一派を相手に「新旧論争」といわれる大論戦を展開した。この論争は18世紀になって再燃し、近代派の主張が急速に一般に認められるようになった。近代派の主張は、デカルト的合理主義のいっそうの徹底、人間の自然性の尊重、諸科学の発達による相対主義的世界観の重視というものであった。18世紀前半の啓蒙主義(けいもうしゅぎ)の代表者はモンテスキューであり、中ごろと後半の代表者はビュフォン、ディドロ、ルソーである。そして前半・後半を通じて活躍したのはボルテールである。モンテスキューは法律、政治、社会、歴史など広い分野にわたる文明批評家として大きな啓蒙的役割を果たした。ビュフォンは博物学者としてその知識をわかりやすく表現し、その大衆化を図った。ディドロは、ダランベールをはじめ多くの文学者、思想家、科学者の協力を得て、途中刊行禁止の命令を受けながらも、膨大な『百科全書(アンシクロペディ)』を完成した。ルネサンス以来発達した諸科学の目録をつくり、あわせてその発展を期すというのが編集目的であったため、いきおい既存の宗教、政治、文学などに鋭い批判を加えることになり、ボルテールやルソーの著作とともに、後の大革命の重要な思想的源泉となった。

 ボルテールは風刺詩人として、また劇詩人として、当時の文壇に大きな地位を占めていたが、この領域においては結局擬古典主義者の域を出ることはなかった。しかしイギリスに滞在して、議会政治をはじめ、社会、文化などを研究し、これまでのフランス社会の封建的性格に不満を抱き、自由思想のために戦った。ルソーの『社会契約論』に説かれた人民主権説はロベスピエールはじめフランス革命の指導者たちの思想を支える基盤となった。文学に対する彼の貢献はこれに劣らぬものがあり、『告白』(『告白録』または『懺悔録(ざんげろく)』)、『新エロイーズ』をはじめとする文学的作品は、18世紀文学の主流であった合理主義思想を排し、自然への復帰、自我の解放、感性の謳歌(おうか)などを説いて、19世紀のロマン主義文学への道を開く先駆的作品となった。また彼の影響はフランスだけではなく、外国にも広く行き渡った。

 18世紀は思想文学が主流を占めていた世紀ではあるが、そのほかに問題とすべき作家・作品がないわけではない。むしろ多種多様の文学が発生し始めた世紀といっていい。世紀の前半にはすでに、人間の本能尊重を主張するロマン主義の萌芽(ほうが)ともみられるような、アベ・プレボーの『マノン・レスコー』があり、後半にはルソーの影響を受けたベルナルダン・ド・サン・ピエールの『ポールとビルジニー』が、自然美に対する新しい感覚と美しい描写で、異国趣味文学流行のきっかけをつくった。またラクロの『危険な関係』は、発表当時は好色的な背徳的作品として非難を受けたが、20世紀に入ってからは異色の心理解剖小説として再評価されるに至った。劇の分野では、マリボーが恋愛心理、とくに女性の恋愛心理の分析に独特の天分をみせて、19世紀のミュッセに少なからぬ影響を与えた。ボーマルシェは陽気で軽妙な喜劇の底に、強烈な社会批判をみせ、『フィガロの結婚』では、主人公が大革命直前の貴族階級の横暴に挑戦している。

 18世紀には詩の収穫は少なかった。優れた詩人としてはわずかに、大革命のおり穏健派のゆえをもって断頭台に送られたシェニエだけといっていい。彼は叙情的な詩によってロマン派詩人の先駆者ともいえ、ユゴーなど多くのロマン派の詩人たちに影響を与えた。しかしまた、新しい思想を古い詩句で歌おうとした古典派の最後の詩人でもあり、後の高踏派(パルナシアン)の詩人たちと呼応するものがある。

[新庄嘉章・平岡篤頼]

19世紀前半――ロマン主義の勝利 小説の時代

文学におけるロマン主義は、感情や想像力を理性より優位に置いて、自我の解放、個人主義の勝利を歌ったもので、18世紀にすでにその萌芽はあったが、19世紀に入ってみごとに開花した。その気運を助けたものの一つに、外国文学の移入がある。大革命と、それに続くナポレオンの専制政治は、多数の人々を外国に亡命させ、その結果ドイツやイギリスの文学が移入されることになった。これらの文学は、すでに衰退していた古典文学に飽き足らぬフランスの文学界に大きなショックを与えた。ロマン主義文学の父はシャトーブリアン、母はスタール夫人といわれている。シャトーブリアンは世紀の初頭にすでに、豊かな想像力と詩情、それに華麗な文体でロマン派の先駆者となった。スタール夫人は『ドイツ論』(1810)で、これまでフランスではほとんど知られていなかったドイツのロマンチック文学を紹介した。その結果多くのロマン派詩人が輩出したが、瞑想(めいそう)的な美しい叙情詩のラマルチーヌ、恋愛の苦悩を歌う悲歌詩人ミュッセ、孤独の詩人ビニー、叙情詩・叙事詩・風刺詩などあらゆる詩の分野に旺盛(おうせい)な想像力を発揮した国民詩人のユゴーなどがその代表者であった。

 劇の世界では、この世紀に入っても擬古典主義が頑強に最後の抵抗を試みていたが、1830年にユゴーの『エルナニ』が上演されてからは、ロマン主義の勝利が決定的なものとなった。ミュッセもシェークスピア劇の影響を受けて、喜劇、風刺劇、悲劇などあらゆるジャンルの要素を混ぜ合わせた独特の劇を書き、なかでも『ロレンザッチョ』Lorenzaccio(1834)はロマン派演劇の傑作である。ビニーは、不遇のうちに18歳で服毒自殺したイギリス・ロマン派の天才詩人を扱った名作『チャタートン』Chatterton(1835)を書いた。

 フランスのロマン主義はまず詩の世界で開花したが、小説の世界で結実したといえよう。しかし小説家を代表する2人の大立て者バルザックとスタンダールはすでに次の新しい世界への先達となっていた。バルザックは、2000人を超える人物が登場する膨大な『人間喜劇』を書いたが、各種の情熱の権化ともいうべき人物をみごとに活写した点において、まさにロマン派の大作家といえる。だが作品の背景には、大革命直後から二月革命直前に至るまでの約50年間の政治、経済、風俗が克明に描かれている点において、次の時代の写実的なレアリスムの要素を多分にもった作家といえよう。またスタンダールも、不朽の名作『赤と黒』『パルムの僧院』のなかにロマンチックな情熱をたぎらせているが、同時に、感傷におぼれることなく、透徹した目で人間の心理を分析し、社会を描写している。ただ彼は時代に先んじたがために、当時はバルザックほどの人気はかちえなかった。詩人のミュッセはサンドとの悲恋を材料として長編小説『世紀児の告白』を書いたが、これは現実に対する幻滅から生じる憂愁、不安に悩む当時の世紀病を描いている。ほかにこの時期、活躍した作家にサンドとメリメがある。サンドはロマンチックな恋愛を賛美して女性の自由な情熱の権利を主張したり、民主主義的な田園小説を書いたりして、ロマン主義の作家といえる。メリメはしばしば情熱的な性格を描いている点でロマン主義的なところもあるが、自我の露出を嫌い、正確な観察と簡潔な表現を重んじている点、むしろ写実的な作家といえよう。

 なお19世紀の小説を語る場合に忘れてはならぬ作品がある。それはこの世紀の初めに書かれたコンスタンの自伝的小説『アドルフ』である。これは恋愛の心理学ともいわれているもので、小さな作品ではあるがフランスの心理小説史上の傑作である。デュマ(父)の歴史小説や主著『モンテ・クリスト伯』は芸術性の点からみれば大衆的な通俗小説だが、そこに描かれた情熱と行動の激しさによって、やはりロマン主義の作品といえるであろう。小説というジャンルは19世紀になって初めて文学の主役となったが、これは、ブルジョア階級の現実への強い関心、教育の普及、さらにジャーナリズムの発達で読者層の拡大したことなどがその原因になっている。最後に、この世紀の前半から後半にかけて批評の分野で活躍したサント・ブーブの名をあげねばならない。彼はロマン派の詩人として出発し、さらに小説も書きながら、批評の世界で印象主義と科学主義とを融合した新しい型を創始し、近代批評の先駆者となった。

[新庄嘉章・平岡篤頼]

19世紀後半――写実主義 象徴主義

19世紀後半になると、ロマン主義の文学がしだいに勢力を失い、レアリスムの文学、すなわち写実主義あるいは現実主義とよばれる文学が台頭してきた。とくに小説の世界においてそれが顕著になった。フロベールは性格的には孤独と夢想を愛するロマンチストであったが、小説は客観的、没個性的、無感動なものでなければならぬと主張した。その自論の具体化として『ボバリー夫人』(1857)を完成したことによって、写実主義の大家と銘打たれることになった。その後写実主義の小説はしだいに自然科学の影響を受けるようになった。その代表者がゾラである。彼は、テーヌの社会環境論や、心理学者クロード・ベルナールの『実験医学研究序説』(1865)による遺伝の問題などを参考とした連作『ルーゴン・マッカール双書』を書いた。このように当時の科学の影響を受けて、実験的な自然主義文学を提唱したが、その意図はかならずしも作品に完全に現れたわけではなかった。しかし、従来あまり描かれていなかった社会の暗黒面を取り上げたり、性欲の大胆な官能描写を敢行したことは大きな特徴である。写実主義の主要な作家として、それぞれ傾向は異なるが、ゴンクール兄弟とモーパッサンの名をあげねばならない。ドーデは現実を直視した作家ではあるが、温かい詩的情緒にあふれた感性をもっている点において、他の写実的作家とはやや異なっている。なおこの時期における異色の作家としてユイスマンスがある。彼は初めゾラ流の作品を書いていたが、のちに感覚的な人工楽園を求める作品を書いたり、中世の神秘学の世界を描いたりした。

 詩の世界では、ルコント・ド・リールを中心とする高踏派(パルナシアン)が、ロマン派の極端な自己発現を抑制して、造形的な美を追求しようとした。彫琢(ちょうたく)の詩人エレディアはもちろん、ロマン派のゴーチエをはじめ、のちには象徴派を形成するボードレール、ベルレーヌ、マラルメもこの派に属していた。象徴派の指導的役割を果たしたのはボードレールである。これまでの詩はたとえ主観的な産物ではあっても、結局描写でしかなかった。だがボードレールは、ことばは対象を表現する単なる記号ではなくて、イメージを喚起する象徴である、そして詩人の歌う自然のイメージと詩人の魂との間には交感がなくてはならないと主張し、そうした方法によって初めて人間の心の深層意識を表現できるとした。ベルレーヌは詩句の音楽的なリズムで心の微妙なリズムをみごとに表現し、マラルメは詩人としての重要性はもちろん無視できないが、火曜会のサロンによって多くの芸術家を育てたのも特筆すべきことである。なおこの派の詩人には上記の3人に鬼才ランボーを加えねばならない。

 演劇の世界では、世紀前半にユゴーが『エルナニ』で輝かしい勝利を得て、ミュッセやビニーなどの詩人が劇作に筆を染めたものの格別の発展はなく、またデュマ(父)のロマンチックな劇も結局メロドラマ的な作品に堕落してしまった。世紀後半になると、エミール・オージエやデュマ(子)が社会問題や家庭問題を真剣に扱った劇を書いたが、後世に残るほどの作品は生まれなかった。1877年に書かれたベックの堅実な写実劇『からすの群(むれ)』が1882年にやっと脚光を浴びたのを最後に、自然主義劇の幕は下りた。1887年にアントアーヌが演劇革新の希望に燃えて自由劇場を創立し、イプセン、ストリンドベリ、ハウプトマンなど外国作家の劇を紹介し、また無名の新人も起用して、フランスの近代劇に少なからぬ貢献をしたが、1896年にいちおうその役割を終えて劇場は閉鎖された。

[新庄嘉章・平岡篤頼]

20世紀の到来――動乱と不安 第一次世界大戦

1894年に端を発したドレフュス事件は、ユダヤ人を対象とした冤罪(えんざい)・疑獄事件として国論を二分した。そればかりでなく、やがてヨーロッパ全体を覆うことになる戦争の脅威に伴って、階級闘争とナショナリズムを激化させる遠因となったという意味で、動乱の20世紀を開幕する大事件であった。温和な趣味人的作家アナトール・フランスが、ゾラやまだ若いシャルル・ペギーと並んでドレフュス大尉を擁護するかと思えば、『自我礼拝』でスタンダール的個我の確立を唱えたはずのバレスが、郷土と民族への復帰をうたう情熱的思想家として、ユダヤ人排斥と愛国主義を鼓吹した。その志向はシャルル・モーラスの『アクシオン・フランセーズ』紙に引き継がれ、第二次世界大戦まで反議会主義的右翼の精神的支えとなった。

 1940年代までは、刊行点数からいえば、小説の黄金時代であった。このジャンルが主導権を確立した前世紀のレアリスムを、さらにいっそう総括的な認識と表現の手段たらしめようとして、1人ないし数人の主人公の生涯と、彼らを取り巻く環境の変遷とを相関的に描く大河小説roman-fleuveが誕生したのも、この時代の新しい現象である。27巻からなるジュール・ロマンの『善意の人々』(1932~46)をはじめとして、マルタン・デュ・ガール、ロマン・ロラン、デュアメルらのむやみと長い大長編が続出した。これは大衆小説の発達とともに、読者層の急激な拡大を証明するもので、それ以前にも異国趣味の小説を書いたロチ、テーヌの実証主義を受け継ぎながら、小説の形で知性偏重の害を立証しようとしたブールジェらが読まれたのも、その恩恵による。

[平岡篤頼]

20世紀小説の開幕

しかし、真の意味の20世紀小説は、ジッド、プルーストとともに始まったといえる。マラルメに私淑したジッドは、詩と批評のバレリー、詩と演劇のクローデルとともに、この時代の象徴主義的精神風土を代表する作家で、1909年に『NRF(エヌエルエフ)』を創刊して以来、50年近く文壇の隠れた実力者でもあった。詩的散文から出発したが、文学者としての誠実さを問う過程で、矛盾こそ誠実さを証明するかのように、大胆に官能を謳歌(おうか)する作品と、『狭き門』などの禁欲的な心理小説とを交互に書いた。こうした自意識の追求の記録として、『日記』はジッドの貴重な作品である。自己懐疑は小説家としてのメチエ(技術)にまで及び、『法王庁の抜穴』では偶然を主人公ラフカディオの行為のなかに導入し、『贋金(にせがね)つかい』では、作者を作中に登場させて伝統的な小説観に挑戦した。

 プルーストは最初、浮薄な社交界の青年とみなされ、『スワン家のほうへ』をジッドにさえ没にされたが、これを第1巻とする大作『失われた時を求めて』の完成のために、喘息(ぜんそく)を口実に、コルク張りの書斎に閉じこもり、執筆と推敲(すいこう)に生命をすり減らして、ついに最後の数巻は校正刷りを見ることができなかった。この不滅の長編は、鋭い観察と生彩ある風刺に満ちた社交界風俗小説でもあるが、構造的には話者の意識の一貫性に支えられている。

 作者同様マルセルとよばれる、虚構の人物である話者が、ある日自分の過ぎ行く過去を定着しようと書き始めるものの、真実はそうした知的意図を逃れ、そのかわりに紅茶に浸したスポンジケーキの味のような不随意的な感覚が、突如過去の別の時点で味わった同じ感覚と結び付く。その結果、思いがけず現れたその過去の全容をとらえようとして、無限に細緻(さいち)で息の長い文体で分析の筆を進めるが、ふたたび不可能性の壁に突き当たる。そのとき、また別の感覚的刺激が別の過去をよみがえらせる。作品は現在とさまざまの過去が迷路のように交錯する複雑な構成をとりながら、ふたたび過去を総括的に定着しようとする話者の決意にたどり着く。その間繰り返し登場する人物たちは、話者自身をも含め、不連続的で異質の断片的イメージの集積でしかない。精妙な芸術論的・文学的考察を作品の中核に据えているという点でもまた、他に類のない小説であった。

 ジッドとプルーストが彼らの主要な作品を発表した第一次世界大戦直後は、初めての世界的規模の戦争の惨禍が人々に深刻な不安を味わわせ、当然数多くの戦争文学を生んだが、目を外に転じることによって不安から脱出しようとする文学も生まれた。モラン、ラルボー、サンドラールらの異国趣味、モンテルランのスポーツ賛美、ジロドゥーの逆説的幻想、さらにはサン・テグジュペリやマルローの冒険志向すらその観点から眺めることができる。小説ジャンルそのものからの逸脱も試みられ、モンテルラン、ジロドゥーはのちに劇作に転じて秀作を発表するし、コクトーは詩、小説、戯曲、映画、絵画の多方面にわたって鬼才を発揮する。

 もちろん、伝統的小説も健在で、ラクルテル、モーロア、シャルドンヌ、ドリュ・ラ・ロシェルらの心理小説、カルコ、ダビ、エーメらの庶民の風俗誌、コレットの女性心理の直写、ジオノ、ラミュらの地方小説は読者を楽しませ、バルビュス、ギユーLouis Guilloux(1899―1980)、中期のアラゴンの社会主義的リアリズムも無視できない。なかでも注目すべきは、信仰と自由、魂と肉の相克を真正面から取り上げたフランソア・モーリヤック、ジュリアン・グリーン、ベルナノスらカトリック作家たちの呪縛(じゅばく)的な作品で、『夜間飛行』のサン・テグジュペリや『人間の条件』のマルローらにみられる、生の悲劇的感情とも呼応する、時代の苦悩の表現であった。ほかに、夭折(ようせつ)した異才として、アラン・フルニエとラディゲがいる。

[平岡篤頼]

シュルレアリスム

第一次世界大戦後のもう一つの大きな動向は、思考と表現の方法の革命的変革を図ったシュルレアリスム運動である。ジャリやアポリネールにも萌芽がみられたが、スイスでダダイスムを唱えたツァラの刺激を受けて、ブルトン、スーポー、アラゴン、エリュアールらは1924年『シュルレアリスム宣言』を発表し、自動記述、ことば遊び、パロディーなどの手法によって、文学言語の組織的な解体と、偶然の仲介による無意識の解放を実験した。ランボーとロートレアモンの精神を受け継ぐこの運動は、多くの前衛的な芸術家の共感をよび、その活動は美術から映画、音楽にまで及んだ。また、奇抜な行動によって、因習的な社会道徳やブルジョア的世界観に果敢に挑戦したので、世の顰蹙(ひんしゅく)を買った。そのうえ、盟主ブルトンが次々に同志を除名し、ことに共産党への加盟問題でアラゴンらとたもとを分かって以来、運動としてのエネルギーは失った。だがその周辺でルーセル、アルトーが限界的な業績を残したばかりでなく、詩人シャール、ボンヌフォア、ミショー、小説家グラック、ピエール・ド・マンディアルグ、クノーらを間接的に育てたし、第二次世界大戦後の注目すべき思想家バタイユ、精神分析のラカン、人類学のレビ・ストロースにまで影響を及ぼした。今日、産業技術の発達と消費社会の成立とともに、シュルレアリスム的イメージはマス・メディアを通じて、われわれの日常生活のなかに浸透し尽くしている。

[平岡篤頼]

ファシズムの勃興

ファシズムの勃興(ぼっこう)とヒトラーの政権掌握は、ふたたび戦争の脅威を増大させ、共産主義寄りのアラゴン、マルローとともに、書斎派のジッドや『プロポ』の哲学者アランまで反戦運動に奔走した。しかし、人民戦線の崩壊とスペイン内戦(1936~39)を経て、情勢は一気に第二次世界大戦へとなだれ込んだ。スペイン人民政府に加担して義勇軍飛行隊長として活躍したマルローは、大戦中はドゴールの自由フランス軍師団長として奮戦する。アラゴンとエリュアールは歌謡の伝統に帰り、レジスタンスの闘士たちを鼓舞する詩集を秘密出版する。その一方では、開戦前、忌憚(きたん)のない俗語調の『夜の果ての旅』で、現世のあらゆる欺瞞(ぎまん)をえぐってセンセーションを巻き起こした徹底的なニヒリストのセリーヌは、激越な反ユダヤ主義と対ドイツ協力のため、戦犯のレッテルを貼(は)られる。この作品に触発されたサルトルの『嘔吐(おうと)』と、アメリカ小説に学んだカミュの『異邦人』が、やがて戦後の実存主義文学ブームを準備することになる。

[平岡篤頼]

20世紀後半――第二次世界大戦後の文学から現代まで

実存主義l'existentialismeとは、「本質」よりも「実存」を優先させるキルケゴール以来の哲学の一思潮であるが、ハイデッガー、フッサールに学んだ秀才サルトルは、第二次世界大戦中に大著『存在と無』でその思索を集大成し、戦後は非公式の伴侶(はんりょ)ボーボアールとともに、小説、劇作、評論、哲学論考の多彩な形でこの思想の深化と普及に努めた。人間は状況内存在であるが、その状況を自らつくっていくべき自由を運命づけられているという考えから、『レ・タン・モデルヌ』誌を創刊し(1945)、共産党との離合を繰り返しながら、反体制的な政治活動を果敢に実践した。傑出した批評家でもあり、次の時代の文学と思想の萌芽は、ほとんど彼の著作のなかにみいだされる。

 アルジェリア出身のカミュは、終生海と太陽にあこがれながら、マルローに近い、もっと感性的な「不条理l'absurde」の意識から出発して、伝達不可能性と相互の無理解という条件に閉ざされながら、なおも友愛を求めて死や悪と戦おうとする孤独な人間の反抗を繰り返し描いた。犯罪者として牢獄(ろうごく)生活を経験し、同性愛者でもあるジュネは、汚辱と退廃の叙事詩を典雅な音調の小説や戯曲の形で発表して、注目を集めた。トランペット吹きのボリス・ビアンは、奇想に満ちた作品のなかに愛と死の切実さを響かせ、いまも若い読者に愛されている。

[平岡篤頼]

ヌーボー・ロマンの軌跡

生を受苦ととらえる実存主義的きまじめさの反動として、洒脱(しゃだつ)で無軌道な若者たちを描いたサガン、ニミエらの小説が、一時人気をよぶが、1950年代後半から、「アンチ・ロマンAnti-roman」(後のヌーボー・ロマンNouveau roman)の難解だが真摯(しんし)な作家たちの実験が脚光を浴びる。

 内閉的な意識の最後のよりどころとして、主人公たちが解体の歩みのなかで果てしない無意味な独白を繰り広げるベケットを先駆として、逆説的な循環形式のなかで、過度に克明な事物の無機的な描写が、実は主人公の白熱する情念と表裏一体となっているロブ・グリエ。恐るべき綿密さで計算し尽くされた構成を通して、多元的な世界の全体像をとらえようとし、ついには小説の枠を破砕してしまうビュトール。回想のなかの純粋に写実的な微細画を音楽的に組み合わせることによって、内的世界の混沌(こんとん)を構造的に再現しようとするシモン。知的な分析の単位である心理的要素をさらに細かく分解し、心理の動きを潜在意識的な微粒子の散乱現象と化してしまうサロート。そして愛の物語というよりは、愛の情念の不随意性と凶暴さと眩惑(げんわく)を、簡潔で巫女(みこ)的な文体で飽きることなく生け捕りにしようと努めるデュラス。

 彼らは党派を組むわけではないが、いずれも伝統的小説形式に反逆し、その基本要件である主人公の性格、筋の一貫性、動機と行動の因果関係、作家の側からのメッセージなどを否定したので、既成文壇から人工的という激しい批判を浴び、一般読者をも当惑させた。カフカ、ジョイス、フォークナーの後を受けて、小説を折り返しのきかない新しい言語空間に踏み込ませたとして、世界的に評価されたが、同時に、小説というジャンルの息の根を止めてしまったおそれもないではない。その間にも彼らより小説らしい小説を書いて、彼らより多くの読者に迎えられた作家たちがいないではないが、時代に即した新しい思考様式を模索する彼らの試みは、諸外国に大きな波紋を及ぼした。

 1970年以降、わずかにル・クレジオとソレルス、ついでトゥルニエとペレックGeorges Perec(1936―82)とモディアノが若い世代としてめぼしい活動をみせたが、エネルギーは批評と思想のほうに移っていく。なかでも際だったのはソレルスの動向で、後出のバルトやフーコーらの支援のもとに、雑誌『テル・ケル』でいっそう過激な書法の改革の旗を振ったが、1968年の五月革命とともに政治的にも毛沢東主義に肩入れした。その結果ジョイス的な分節のない多重言語を駆使した彼の野心作『楽園』が、彼の呼びかける労働者たちには1行も理解できないというジレンマに直面し、突如平易な文体による官能謳歌(おうか)の小説『女たち』で、人気作家の路線に復帰せざるをえなくなる。それと軌を一にするかのように、フランス小説全体に「私」志向が蔓延(まんえん)し、トゥーサンJean-Philippe Toussaint(1957― )らのミニマリスム作家を登場させ、デュラスの『愛人(ラマン)』のようなベストセラーが誕生する。あるいは、映画やSFや推理小説の影響のもとに、エシュノーズJean Echenoz(1947― )のような作家が出現する。

[平岡篤頼]

ヌーベル・クリティックの波紋

第二次世界大戦前、『NRF』周辺にデュ・ボス、チボーデらを輩出させた文芸批評は、精神分析、マルクス主義、ニーチェに多くを学んで、バシュラール、プーレ、ジャン・ピエール・リシャール、ジュネットGérard Genette(1930― )ら「ヌーベル・クリティックNouvelle critique」(新批評)の優れた批評家たちを登場させたが、ドイツ・ロマン派やヘーゲル哲学、ソシュール以後の言語学や構造主義の富が加わり、ブランショ、バタイユ、バルトという3人の無比の「思想家(パンスール)」に結実した。今日の文学青年は創作を志すよりは、この3人やフーコー、デリダ、ドルーズ、ラカンらの思索的著述を読み、彼らを通してサドやマラルメやルーセルやアルトーを再発見している。

 詩の分野では、以上あげた名前のほかに、宇宙的な幻視の人サン・ジョン・ペルス、『物の味方』のポンジュ、下町の民衆詩人プレベールを無視することはできない。演劇では、職人芸の達人アヌイ、「不条理演劇théâtre de l'absurde」の第一人者イヨネスコと、自身名優・名座長であるばかりでなく、これら2人をはじめ、クローデル、モンテルラン、ジロドゥー、サルトル、カミュ、ベケット、デュラスの名作を次々にヒットさせた無類の批評眼の持ち主ジャン・ルイ・バローの名を逸するわけにはいかない。

[平岡篤頼]

フランス文学と日本

明治期

日本文学に最初に大きな影響を与えたのは、ルソーであろう。中江兆民(ちょうみん)が1882~83年(明治15~16)『民約訳解』と題して翻訳注解した『社会契約論』は、自由民権思想を鼓吹するうえで重要な役割を演じたし、『告白』(邦題『懺悔録(ざんげろく)』)は、島崎藤村の『破戒』や『新生』をはじめ、その周辺の作家たちの自然主義小説に、嗜虐(しぎゃく)的な自己暴露という特徴をもたせるに至った。すでにベルヌ、ユゴー、デュマの作品も、通俗読み物として翻訳・翻案されていたが、多くは英訳からで、田山花袋(かたい)、正宗白鳥(まさむねはくちょう)らも英訳を通してゾラ、モーパッサンに学んだ。一時ゾラを模倣した永井荷風(かふう)は、外遊から帰国後『珊瑚集(さんごしゅう)』でボードレール以後のフランス詩を紹介し、それに先だつ1905年(明治38)の上田敏(びん)の訳詩集『海潮音』とともに、薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、蒲原有明(かんばらありあけ)、北原白秋(はくしゅう)らの詩人たちを象徴詩に開眼させた。続いて萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、西条八十(やそ)、堀口大学もフランス詩に傾倒し、とりわけ堀口は翻訳者としても、生涯新しいフランス文学の紹介に貢献した。

[平岡篤頼]

大正・昭和期以降

芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)がアナトール・フランスを愛読したことは知られているが、森鴎外(おうがい)がフランスの短編や戯曲を訳し、谷崎潤一郎がスタンダールを訳していることは、あまり知られていない。谷崎は、一時バルザック風の本格小説を書こうとして低迷した。1923年(大正12)、山内義雄(やまのうちよしお)によるジッドの『窄(せま)き門』の名訳が出、辰野隆(たつのゆたか)、鈴木信太郎による充実した研究が発表されるにつれ、フランス文学熱はいっそう加熱した。辰野の門下の小林秀雄は、ランボー論から出発し、ジッド、バレリー、アラン、サント・ブーブを熟読して、日本に初めて創造的な文芸批評のジャンルを確立した。彼の周辺の河上徹太郎、三好達治(みよしたつじ)、中原中也(ちゅうや)、大岡昇平が歴然たるフランス派であることは、否定の余地がない。中原はランボーの詩集を訳し、大岡は第二次世界大戦前から屈指のスタンダール研究家として知られていた。

 堀辰雄(たつお)も早くから原書でフランス文学に親しみ、プルーストやラディゲの方法を自分の作品に取り入れようとしたモダンな作家である。その門下から、第二次世界大戦後活躍する中村真一郎、福永武彦(たけひこ)、加藤周一が現れる。新感覚派とよばれた横光利一(りいち)の初期の作品には、明らかに『夜開く』のポール・モランらの刺激をみてとれよう。『新青年』(1920創刊)に拠(よ)った久生十蘭(ひさおじゅうらん)にとっても、フランス留学の痕跡(こんせき)は生涯消えることがなかった。やはりフランス帰りの岸田国士(くにお)や岩田豊雄(とよお)(獅子文六(ししぶんろく))が、文学座を中心とした新劇に残した足跡も大きい。豊島与志雄(とよしまよしお)と片山敏彦(としひこ)は、ロマン・ロランを紹介して多くの読者を得た。

 詩の分野でも、昭和初年代のモダニズムのブームのなかで、『詩と詩論』(1928創刊)などの雑誌で盛んにシュルレアリスムなどの新思潮が取り上げられ、その影響下に西脇順三郎(にしわきじゅんざぶろう)、滝口修造(たきぐちしゅうぞう)のような異才が現れた。大岡信(まこと)、飯島耕一(いいじまこういち)、天沢退二郎(あまざわたいじろう)、入沢康夫(いりさわやすお)らはみなその後継者といっていい。

 戦後登場する作家では、石川淳(じゅん)はジッド、モリエールの名訳をものしたフランス語教師出身であり、坂口安吾(あんご)はアテネ・フランセの優等生、織田作之助(おださくのすけ)はスタンダールの心酔者であった。三島由紀夫(ゆきお)の初期の作品や大岡昇平の『武蔵野夫人(むさしのふじん)』(1950)には、顕著なラディゲの影響がみられる。野間宏(ひろし)はバレリー、ジッド、サルトルに学び、初期の大江健三郎、開高健(たけし)にとっても、サルトル体験は決定的であった。遠藤周作、高橋たか子のモーリヤック体験はそれに匹敵するし、辻邦生(つじくにお)、加賀乙彦(おとひこ)はフランス留学時代に作家としての自己形成を行った。

 1980年以降、日本ではフランス文学の人気は落ち目といわれるが、蓮實重彦(はすみしげひこ)(1936― )のような批評家、澁澤龍彦(しぶさわたつひこ)(1928―87)のような作家の存在は、そうした悲観的観測を否定するだけの力をもっていよう。1990年代に入っても、シモンの文体の影響を受けた金井美恵子(1947― )、フランス文学の研究者から転じた松浦寿輝(ひさき)(1954― )や堀江敏幸(としゆき)(1964― )の活躍は注目に値する。

[平岡篤頼]

『ランソン、テュフロ著、有永弘文・新庄嘉章・鈴木力衛・村上菊一郎訳『フランス文学史』全3巻(1954~63・中央公論社)』『日本フランス語フランス文学会編『フランス文学辞典』(1974・白水社)』『福井芳男・菅野昭正・清水徹・渡辺守章他著『フランス文学講座』全6巻(1976~80・大修館書店)』『富田仁・赤瀬雅子著『明治のフランス文学』(1987・駿河台出版社)』『饗庭孝男・朝比奈誼・加藤民男編『新編 フランス文学史』(1992・白水社)』『ベルナール・フェー著、飯島正訳『現代のフランス文学』(1995・ゆまに書房)』『ロベール・ファーブル著、大島利治他訳『最新フランス文学史』(1995・河出書房新社)』『田村毅・塩川徹也編著『フランス文学史』(1995・東京大学出版会)』『古屋健三・小潟昭夫編『19世紀フランス文学事典』(2000・慶応義塾大学出版会)』『渡辺一夫・鈴木力衛著『フランス文学案内』(岩波文庫)』『チボーデ著、辰野隆・鈴木信太郎訳編『フランス文学史』全3巻(角川文庫)』『Raymond QueneauLittérature française(Collection Pléiade, Gallimard, Paris)』『Claude PichoisLittérature française, 9vols.(Poche Arthaud, Paris)』

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改訂新版 世界大百科事典 「フランス文学」の意味・わかりやすい解説

フランス文学 (フランスぶんがく)

フランス語で書かれた最古の文献として現在知られているものは,842年,シャルルマーニュ(カール大帝)の二人の孫,のちのドイツを領有していたルートウィヒ(ルイ)と,のちのフランス地方を王国の中心としていたシャルルの間に交わされた,《ストラスブールの誓約》と呼ばれる文書である。この文書は,俗ラテン語の痕跡を濃厚にとどめているものの,フランス語がようやく形成されはじめたことを示す重要な資料であることに変りはない。また,それよりほんの少し前,836年には,トゥールの教会会議において,卑俗なロマンス語で説教することが承認されている。かつて支配的な言語であったラテン語は,少なくとも民間の口頭言語としてはしだいに変質を重ね,いわゆるロマンス語の過程を経たあと,いまや9世紀前半に至って,ロマンス語からさらにフランス語が分化し始めたのである。

しかしフランス語が形成され始めるのと並んで,フランス語による文学作品がただちに開花したわけではない。ラテン語は依然として公用語,教会語であるとともに,文学表現の道具として生命を保ちつづける。だがその一方で,当時の知識階層である聖職者が,ラテン語で書かれた著作を,一般民衆のために翻案ふうにフランス語に移すような試みも,しだいに進められていた。現存するものとしては,3世紀のスペインの聖女を歌った《聖女ウーラリーの続唱Séquence de sainte Eulalie》(881)が,フランス語による最古の文学的文献である。宗教的な色彩の濃厚な文学は,その後,ラテン語の著作に拠る《聖アレクシ伝》が1040年ころに作られたのをはじめ,とくに聖人伝の形で数多く行われたと思われる。

 しかし詩的形式の整い,表現力の深さなどからいって,要するに文学性の高さからして,フランス文学の門出を飾るにふさわしい事件は,武勲詩と総称される叙事詩群の誕生である。11世紀後半から12世紀にかけて,初期十字軍に結集した情熱を背景にして生まれたこの口誦文学は,封建制度の確立された時代の戦士的情熱と,キリスト教的倫理が溶け合った時代精神に支えられるとともに,フランス語が文学言語としてようやく練磨されたことを示している。フランス文学の歴史の始まりを書物にたとえれば,前述した宗教的教化文学がいわばその序の頁をなすのに対し,最初の一頁を飾るのは武勲詩であり,とくに《ローランの歌》がその中心に置かれている。

このように,フランス文学が誕生したのはほぼ11世紀のことであり,それから現在まで10世紀にわたって,世界中のどこの文学に比べても豊富多彩な展開を重ねてきた。もちろん長い時間の曲折を経る間に,古フランス語,中期フランス語,近代語というふうに,言語の歴史的な変化がみられるし,ジャンルの消長,文学思潮の変遷などの点からしても,変貌の跡はただならないものがある。確かに,フランス文学は絶えず変わりつづけてきた。しかし一方でまた,ほぼ1000年に及ぶ変貌の連続の底には,恒常的なものが流れているのも忘れてはならない。

 長い歴史を貫いてフランス文学の基層を形づくってきたものといえば,ギリシア,ローマの時代から西欧世界に培われてきた文化的伝統と,キリスト教(宗教改革以後は,プロテスタンティズムも含まれるが,より多くカトリシズム)が有形無形にもたらした影響を,まず挙げなければならない。中世以来,知識人の教養の基本になっていたのはラテン語であったし,ホメロス,ウェルギリウスをはじめ,ギリシア,ローマの文学作品は,フランスの文学者にとって豊かな規範でありつづけた。信仰の時代といわれる中世の文学はいうに及ばず,16世紀以降においても,フランスは〈教会の長女〉とみなされた土地でもあり,詩にせよ劇作にせよ,信仰を披瀝したり神についての敬虔な思索を述べたりすることが,作品を書く根本動機になっている例は枚挙にいとまがない。キリスト教の信仰が弱化し,〈神の死〉などという表現が,一般に浸透し始めた近・現代の文学にあっても,現世における直接的な生の領域と,それを超える超越的・絶対的な世界とを対比させる思考形態の枠組みが,強力に作用しつづけている作品は珍しくない。それはいわば,神が死んだ後の(あるいはキリスト教の信仰が弱まったあとの)空虚を埋めることを主題とする文学であり,現代のフランス文学に負わされた一つの重大な課題がそこにある。

 さらにまた,いま挙げた二つほど強力ではないにせよ,より古い基層として,ケルト的な要素,ガリア的(ゴール的)要素がひそんでいるのも忘れてはなるまい。12世紀に,宮廷風騎士道物語と呼ばれる新しいジャンルが現れた背景には,〈アーサー王伝説〉をはじめ,ケルト系の伝承が大きな形成力として働いている。近代になってからも,ケルト的な魂の神秘性に対する関心は,イギリス・ロマン主義を経由して,フランス・ロマン主義のなかにも流れこんでいるのが看取される。また,たとえば,〈俺はゴール人の祖先から青白い眼と,小さい脳味噌と,組打ちの不手際を受け継いだ〉というアルチュール・ランボーの詩句にみられるように,いわゆる大陸のケルト人の中核として,ローマの進出以前からガリアに先住していたゴール人の気質のなかに,自然さ,闊達さ,粗野ともいえる飾り気のなさ,原初的な荒々しい力を見いだし,それをフランス人の本来的な美徳の祖型として,あえて顕彰してみせた詩人もいる。さらにまた,マルセル・プルースト《失われた時を求めて》の冒頭の部分には,死者の魂が植物や動物のなかにとらわれていると考えていた〈ケルトの信仰には理由がある〉と述べた一節があるが,そこにも,フランス文学者の思考,感覚の奥深い底に,ケルト的なものがひそんでいる事例をみることができる。神話学,人類学,民俗学,深層心理学などの深化によって,現代において,フランス文学の基層の部分から,ケルト的なものが,いっそう濃密に照らし出されるようになる可能性も考えられないではない。

 ところで,フランス文学といえば,フランス人によってフランス語で書かれ,フランスの国土で創作されている文学である,漠然とそう考えがちであるけれども,厳密な定義としてはそれでは不十分である。ジャン・ジャック・ルソーはスイスに生まれたが,終始フランスにおいて著作活動をつづけたし,彼の名前の現れないフランス文学史など想像もできない。ベルギー人,モーリス・メーテルリンクの劇作や小説も,フランスの文学史から逸することのできない重要性をもっている。現代のフランス文学をとってみても,アイルランド出身のサミュエル・ベケットのように,外国からフランスに移住して,フランスを主要な活動舞台に選び,フランス語で書く文学者は少なくないが,彼らの作品をフランス文学とみなすことに対して,誰も疑う者はいない。フランス文学は,というよりフランス文化というほうが適切かもしれないが,普遍的な同化力,牽引力を一つの特性としている。

フランス文学の歴史的な形成の最初の歩みを踏み出したのは,前にも触れた通り武勲詩であるが,信仰と封建君主への忠誠を根幹として集団的感情を歌うこの叙事詩に代わって,やがて個人的感情を優美に表現する抒情詩のジャンルが,文学の舞台の前面を占めることになる。12世紀になる頃から,まず南フランスのトルバドゥールたちが,美しい貴婦人によせるみやびやかな愛と崇敬を主題として,竪琴の旋律に合わせて歌うように作った詩が,その濫觴である。それはやがて北フランスの宮廷に広がり,愛の感情,観念はいっそう細やかに洗練され,形式にも磨きがかけられてゆく。そして時代が経つにつれて,宮廷風の趣味のほかにも抒情詩の領域は拡大し,民衆の現実生活における悲哀,時代にかかわる風刺,信仰をめぐる問題等々,人間生活のさまざまな面にも詩人の眼が向けられるようになる。14,15世紀に至ると,各種の定型詩の形式が整えられるのもみられ,抒情詩のジャンルが確立されたという印象が濃厚になるばかりでなく,自我を深く見つめながら人間の生の実相を表現したF.ビヨンのように,近代的な抒情の萌芽を示す詩人もやがて現れるのである。

 中世文学の生んだもう一つの大きなジャンルは,宮廷風騎士道物語である。12世紀における経済の安定につれて,封建貴族の城館のサロンの活動が華やかになっていく情勢を背景として,高貴な美しい女性への愛を中枢に置き,騎士たちが数々の苦難を克服して功業をあげる冒険の旅を語る世俗的な物語と,聖杯を探索する困難な遍歴を語る宗教的な色彩の濃い物語。世俗的騎士道物語についても,宗教的騎士道物語についても,クレティアン・ド・トロアという偉大な物語作者の出現が,こうした隆盛をもたらしたことは確かであるが,いずれにせよ,愛の情熱と波瀾に満ちた冒険譚に彩られたこの文学ジャンルが,やがて近代の小説のはるかな源流になるであろうことはまちがいない。また,ケルト系の伝承に基づく《トリスタンとイゾルデ(イズー)》の物語の流行も,同じジャンルの圏内のこととして記憶しておく必要があろう。

 貴族的な騎士道物語と違って,12世紀末から13世紀,さらには14世紀にかけて,風刺,哄笑,機知,滑稽を生命とする笑いの文学が出現する。さまざまな階層の人々,とくに聖職者を滑稽化するファブリオー,動物世界に託して偽善,不正等々,社会の悪徳に辛辣な眼を向ける《狐物語》がそれであるが,こうした作品群は,その後のフランス文学に流れつづける風刺と笑いの要素につながる。また,物語といえば,13世紀の前半と後半に書かれた《薔薇物語》も,とくにその寓意という表現方法の特性において,後代に影響をもたらすことになろう。文学のジャンルとしては,13世紀においては主として十字軍の事績を,14,15世紀においては百年戦争の経過,その時代の民衆生活の様相を記録する歴史,年代記も忘れてはならない。以上にあげた各種のジャンルにわたって,中世の文学は,16世紀以降のフランス文学の堅固な土台を築いたのである。

経済力の進展に伴う社会構造の変質,地理上の発見による世界意識の拡大,印刷術の普及等々,社会と文化のさまざまな面に生じたもろもろの変革の要因が重なり合って,16世紀の訪れとともに,フランスにもルネサンスの気運がみなぎり始める。イタリアの先進文化がしきりに移入され,ギリシア・ローマの古典を文献学的に厳密に研究するとともに,そのなかに新しい人間の生き方を探ろうとするユマニストの活動が活発に行われた。一方また,中世末期の教会の腐敗堕落を厳しく批判し,キリスト教の純化を目ざす改革運動も進められ,ユマニスム(人文主義)は宗教改革運動とも連動する。そして信仰上の対立の果てに,世紀の後半になると,流血の抗争にいたった宗教戦争が,ユマニストのみならず,すべての文学者に難問を投げかけるのである。

 16世紀の文学は,そのような時代環境のなかで創造された。エラスムスの影響を受け,ユマニストとして該博な知見を深める一方で,中世の騎士道物語をもじったりしながら興味津々たる物語を繰り広げたラブレーの作品には,この時代のあらゆる問題が包括的に織りこまれている。ユマニスト的な知識を集大成しながら,人間を幅広く,奥深く探究したモンテーニュ《随想録(エセー)》にも,時代の爪跡は強く刻みこまれている。詩の世界においても,イタリア詩の直接的な影響や,ギリシア・ローマの詩から新しい富を汲み上げた跡は歴然としている。〈大押韻派〉〈リヨン派〉の詩人たちの作品にも,もちろんそれはうかがえるが,そういう時代環境のなかで,新しい抒情詩を創造したのは〈プレイヤード派〉,とくにロンサールである。またデュ・ベレー《フランス語の擁護と顕揚》は,フランス語の豊かさの発見を提唱した論として,大きな歴史的意義を担っている。そのほか近代の散文の確立に寄与したといわれるカルバン,イタリア風の物語の形式のもとで愛のかたちを探ったマルグリット・ド・ナバールの名も,それぞれ16世紀文学のある側面を示すものとして記しておくことにしたい。

17世紀の初めは動乱の時代の延長であり,かつて宗教戦争の渦中で戦ったドービニェが,風刺,幻想を盛りこんだ詩を書いたりした時代である。ドービニェのなかにも,奔放な感情の高揚,変幻変動するものの重視,劇的な誇張の偏愛などで特徴づけられる〈バロック〉の詩人は少なくない。小説と名づけるべき分野では,〈田園小説〉(オノレ・デュルフェ)や〈英雄小説〉(スキュデリー)のかたちで愛の諸相を探究するもの,また高尚なもの,崇高なものを意図的に滑稽化する〈ビュルレスク〉の作品(スカロン)も生まれたが,これは貴婦人のサロンを中心とする社交界において,優雅さ,繊細さを過度なほど尊重した〈プレショジテpréciosité〉に対する反動でもあった。

 〈バロック〉趣味が盛んだった〈前古典主義〉の時代にも,一方には整然たる詩形のもとで,感情を抑制して表現することを目ざしたマレルブのような詩人もいた。さらにまた,理性的な規範にかなう表現を重視し,〈古典主義〉の先駆的な理論家となったマレルブと対立し,奔放な自由思想を謳歌する詩人もいなかったわけではない。だが,そうしたなかで,〈古典主義〉はしだいに準備されていく。フランス語辞書の編纂,文学的理論の確立を主要な任務とするアカデミー・フランセーズが,国家の機関として創設されたのは,とりわけ大きな意義をもつできごとであった。

 フランス文学の歴史の上で最大の頂点をなす〈古典主義〉は,コルネイユ,そしてラシーヌの悲劇,モリエールの喜劇をいわば主要な両翼として形成された。とくにルイ14世の親政が始まった1661年以降,学芸の興隆にも熱心だったこの〈太陽王〉の王権のもとで,〈古典主義〉の文学は全面的に開花する。ラ・フォンテーヌの寓話詩,ラ・ファイエット夫人の心理小説,ボシュエの格調の高い雄弁,そして指導的な理論家の役を果たしたボアローの《詩法》。

 17世紀という時代の特徴を示すものとして,モンテーニュの流れを汲み,人間生活をつぶさに観察し,人間の本性,本質を探究する〈モラリスト〉の文学があることも忘れてはなるまい。ラ・ロシュフーコー,ラ・ブリュイエールがまず思いうかぶ名前である。また,デカルトとパスカルの名前も,17世紀の文学史から逸することはできない。人間の思考する能力を重んじ,近代の合理主義的思想の基礎を築いたデカルトは,〈古典主義〉の理念の形成にも貢献していると思われるが,同時代への寄与もさることながら,むしろ18世紀以降,理性と良識を中核とする人間の本性の尊重という面において,〈カルテジアニスム(デカルト主義)〉は文学にも大きな影響を投げかけつづける。パスカルのほうは,近代的な実存の不安を鋭く感じとった先駆者として,19世紀以後の文学者の深い関心を呼ぶことが少なくない。そのほか,17世紀を通じて,宗教の拘束に反抗し,奔放な思想と生活を旨とする,〈リベルタン〉と呼ばれる自由思想家がいたことや,レス枢機卿 Jean-François Paul de Gondi Retz,ゲ・ド・バルザックらの回想録作家の作品があったことも書きとめておこう。そして1887年,古代人に権威と規範を仰ぐ傾向に疑念を呈したペローの詩によって,〈新旧論争〉が開始されるが,18世紀になって再燃するこの論争は,人間の進歩を認めようとする近代派の立場のなかに,新しい時代への気運を感じとらせてくれるのである。

1715年にルイ14世が死んで,社会には,フランスの変化の兆しが現れ始める。しかし文学の世界は,ただちに急激な変化に見舞われることはなく,とくに古典劇の規範は容易に崩れなかった。小説の分野では,世紀の初頭に,世相を風刺する写実性をそなえたルサージュの作品,30年代になると,19世紀以降の市民小説のレアリスムに通じる要素を含むといわれるマリボーの作品も現れたりするが,世紀の前半を通じて,全体としては,古典主義的な文学風土はまだ揺らいでいなかった。ただ,感情の激発,高揚にまかせて生きることをあえて否定しない《マノン・レスコー》のような作品が刊行され,〈前ロマン主義〉の萌芽が現れ始めることも,見落としてはならない。

 18世紀はしかし,思想文学の世紀である。17世紀末から活躍したフォントネル,ベールを先駆として,モンテスキュー,ビュフォンなど,哲学,科学の知識を一般向けに表現した思想家や,ラ・メトリーらのいわゆる唯物論者を経て,やがてボルテール,ディドロ,ルソーが前面に登場する。こうして世紀中葉になると,理性による知の獲得を目ざし,〈光明の哲学〉を主張する思想文学が広く世の関心を集めることになるが,この思想家たちが理性的な自由検討の精神を標榜する一方で,感情や情念をも重んじていたことを忘れてはならない。とくに,進歩ということに疑念をもち,〈百科全書派〉と一線を画すようになったルソーは,小説《新エロイーズ》などを通して,〈ロマン主義〉への道を開く先駆者にもなった。また18世紀も末に近づき,フランス革命前後の動揺ただならぬ時代のなかで,政治,社会,宗教など,あらゆる面で深刻な価値の崩壊があらわに露呈され始めると,レティフ・ド・ラ・ブルトンヌ,サド,ラクロなど,人間生活の醜悪な暗黒の面をあえてえぐり,宗教を蔑視し,悖徳を誇示するような小説が生まれてくる。こうした文学は,同時代の読者から広く公認されたとは言えないが,時代の大きな変動を告げる破壊的な力がそこに認められる。そのほか,〈モラリスト〉の文学の系譜はボーブナルグ,シャンフォールRoch de Chamfort(1741-94)に受け継がれたし,L.C.de R.サン・シモンのような回想録の作者も活動した。詩の分野では,ジャン・バティスト・ルソーJean-Baptiste Rousseau(1671-1741)のように,いわば,〈古典主義〉の影の下で書き,当時は高く評価されたものの,後代に大きな影響を及ぼした名前は見当たらない。ただ原初の自然への憧憬を歌い,ロマン主義と結びつく傾向を示したシェニエの名は,この世紀の詩の最後を飾るものとして記しておきたい。

感情,情念を重視する傾向は18世紀から伏流していたが,19世紀の訪れとともに,シェークスピア劇の翻訳の流行,イギリスの詩人T.グレーやE.ヤングの紹介,ゲーテ《若きウェルターの悩み》の影響等々,さまざまな刺激要因が複合して,しだいに大きな流れに育っていった。ルソー,ベルナルダン・ド・サン・ピエールらフランスの作家の影響も,もちろん考えなければなるまい。さらにまた,文学を超える要因として,フランス革命を経験した後,文化の領域においても変革を求める気分がみなぎっていたことを忘れてはなるまい。

 こうした状況のもとで,〈ロマン主義〉への道が切り開かれていく。スタール夫人《ドイツ論》を皮切りにして,シャトーブリアン,コンスタン,セナンクール等々の作品を通して,感性,情熱,想像力に優位を置き,数々の制約から自我を解き放とうとする思想がしだいに広く浸透するとともに,そのかたわらでは,現実社会に対する幻滅,そこから生じる憂愁,不安,倦怠等々に侵された〈世紀病〉と呼ばれる心的状態が,その暗い影をしだいに濃くしていく。〈ロマン主義〉は,そういう感情,気分,思想の複合であるが,そこにはまた,“いま”“ここ”にないものに向かって,あるいは時間的に(歴史的過去)あるいは空間的に(異国趣味),憧憬を燃やす心情も結びついていた。C.フーリエのユートピア的な社会主義にも通じるような人道的理想も,〈ロマン主義〉の一つの側面として見のがしてはならない。

 文学のみならず,美術,音楽の分野とも連動して,フランスの〈ロマン主義〉が確固たる存在となったのは,1820年代からである。ユゴー,ラマルティーヌ,ビニー,ミュッセの詩は新しい感性の表現として受けいれられ,ユゴーの演劇は,1830年のあの《エルナニ》事件をきっかけとして,形骸的な制度と化していた古い演劇趣味を完全に打倒する。ゴーチェやネルバルも,少なくとも30年代には〈ロマン主義〉のすぐ近くに位置していた詩人である。

 一方,この時代から,文学の最も強力なジャンルの座は,小説のものとなり始める。産業革命の進行に伴う市民社会の肥大化や,教育の普及,ジャーナリズムの発達による読者層の急激な拡大が,おそらくその主要な理由であろう。こうした趨勢のなかで,さまざまな類型の人間の生活情景を累積させて,社会全体を壁画的に描こうとしたバルザックの小説,ある社会環境の圧力のもとで,情熱を傾けて生きる個人の運命を語るスタンダールの小説は,それぞれに膨張しつつある市民社会の特質を豊かに表現している。そのほか,〈ロマン主義〉の周辺の小説家として,メリメ,サンド,ノディエらがいたし,多数の読者向けの新聞小説の書き手として成功したE.シュー,通俗的な歴史小説を大量に書いたデュマの名もあげておこう。また歴史家ミシュレ,近代批評の基礎を築いたサント・ブーブも,19世紀前半の文学を多彩にした才能として忘れてならない名前である。

19世紀の後半になり,〈ロマン主義〉が退潮するとともに,小説の世界ではレアリスムが台頭する。現実生活のもろもろの情景を客観的に提示することを目ざすこの文学思潮の背景には,コントの創始した実証主義の流れがあるが,レアリスム小説の主張は,直接にはテーヌの影響を受けているといわれる。この運動は,美術におけるレアリスムと連携を保って50年代から推進され始めたが,小説として最も完成された作品を創造したのは,実際には運動の外にいたフローベールである。その後,レアリスム小説は自然科学の実証主義への接近をますます深め,ゾラにいたると,ベルナール《実験医学研究序説》の方法を小説に適用することを説くまでになった。自然科学者が対象を取り扱う態度と同じく,小説家も人間を冷静に,科学的に扱わねばならないとするゾラの〈自然主義〉はかなり皮相なものだが,しかしそこには,科学的実証主義に覆われた時代精神が明瞭に現れている。ゾラの周辺の〈自然主義〉の小説家として,ゴンクール兄弟,モーパッサン,ドーデがあげられる。

 一方,詩の世界では,ルコント・ド・リールを中心とする〈高踏派〉が,造形的なイメージの客観性のもとに感情を暗示的に包み隠す〈不感無覚〉の詩法を標榜し,〈ロマン主義〉の主観性の克服を目ざした。かつては〈ロマン主義〉の同調者だったゴーチェなども,〈高踏派〉に共鳴したが,ボードレール《悪の華》の出現とともに,フランスの詩は〈象徴主義〉の方向へ向かい始める。マラルメ,ベルレーヌ,ランボーらは,ボードレールの交感の詩学から強い啓示を受け,それぞれ独自の方向において,象徴という手段を通して外なる宇宙と交感し,内なる意識の微細な運動を表出する詩を精錬するのである。

 〈象徴主義〉の詩,あるいはその周辺にいた詩人たちの詩には,憂鬱,倦怠,不安,退屈,衰頽といった負の気分も濃厚にまぎれこんでいた。1880年から90年代にかけて,マラルメやベルレーヌを先達と仰ぎ,そのまわりに集まっていた若い詩人たちのなかには,その方向にのみ深入りし,もっぱら内面の繊弱な感情の動きから繊細な抒情を汲み上げようとする傾向が,しばしば見受けられるようになる。世紀末といえば,現実生活に背を向けてひたすら美の崇拝に生きる人物を主人公とする小説を書いたユイスマンス,物質主義を告発し,卑俗な現実を超える壮麗な夢と神秘的幻想の使徒であったビリエ・ド・リラダンなども,まぎれもなく世紀末的な特徴を体現している。また,あらゆるものに皮肉な疑いを向け,その懐疑をいわば微温的に享楽していたアナトール・フランスの小説も,世紀末的な傾向の側面を示している。

世紀末文学の延長のようにして始まった20世紀の文学は,やがて独自の相貌を力強く現し始める。とりわけ〈象徴主義〉の影響から出発し,自我の内面に厳しい視線を注ぎつづけ,そこから豊饒な鉱脈を探りあてたバレリーの詩,クローデルの劇作,プルーストの小説は,フランス文学に新しい活力をもたらした。自意識の閉鎖性,大地と交感する生命力,信仰と自己犠牲等々の問題を追いつづけたジッドの小説も,カトリックの信仰と社会主義という二つの基盤に立つペギーの作品も,かつてない新生面を開くものであった。

 詩の世界では,19世紀の後半から始まっていた自由詩の試みが年々拡大され,定型詩は急速に衰えはじめる。新時代の精神のありかたとして,奔放な幻想を大胆に繰りひろげてみせたアポリネールを先駆とし,既成の価値の破壊を目ざした〈ダダイズム〉を経た後,第1次大戦後になると,〈シュルレアリスム〉が,新しい詩を探究する果敢な運動として前面に現れた。ブルトン,アラゴン,エリュアール,デスノスらによって推進された〈シュルレアリスム〉は,第2次大戦後に至るまで,文学をはじめ,美術,音楽,映画などあらゆる芸術分野に大きな影響を投げかけつづける。

 運動として出発した当初,〈シュルレアリスム〉は,第1次大戦の社会を覆っていた不安の気分に染められた一面をみせていたが,もちろんそれは〈シュルレアリスム〉に限らない。ドリュ・ラ・ロシェル,モンテルランら,若い世代の作家は一様に不安のしるしをあらわに刻みつけていた。やがて30年代になり,第2次大戦の予感が高まり始めると,たとえばマルローのように,コミュニズムに近づくなどして,作家が政治行動に直接にかかわる事例もしだいに数を増してくる。そんなふうに不安から行動へ,時代の文学の特徴を示す指標が移っていく両次大戦間の期間は,また社会全体を壁画的に描きだしたり,歴史の巨大な動きを背景にして一つの家族や個人の運命を語ったりする大河小説の時代でもあった。この種の膨大な小説の先駆としては,20世紀初頭のロマン・ロランの作品があるが,20年代から30年代にかけて,マルタン・デュ・ガール,ロマン,デュアメル,アラゴンらが優れた大河小説を競って発表する。第2次大戦後のサルトル《自由への道》なども,この系列に数えられる作品である。また両次大戦間を通じて,モーリヤック,ベルナノスら,カトリシズムの小説家の作品も読者の関心を集めたし,ジッドを支柱とする雑誌《NRF(エヌエルエフ)》に拠って,ティボーデをはじめとする批評家たちが活発な活動をつづけたことも思い出しておこう。迫ってくる戦争の危機を前にして,文学者が現実社会の動向に関心を深めざるをえなくなっていくのも,この期間の特徴である。

第2次大戦の時期から戦後にかけて,フランス文学の最も著しい特質を形づくったのは,不条理の思想と感覚を主題とする文学である。サルトルとカミュの小説および戯曲がそれを代表する。サルトルはまた実存主義の著作家でもあり,その面での影響力も絶大なものがあった。一方また,神の死の時代において,人間の精神はどこに絶対的な根拠を求めるべきかを問うG.バタイユは,すでに戦前から著作活動を始めていたが,その著作に対する一般の関心の向け方には,第2次大戦後の思想風土が反映している。バタイユの思想と親近性をもつブランショやクロソウスキーについても,同じことが言える。

 一方また,第2次大戦後のフランス小説に現れたもう一つの顕著な傾向は,物語を語る機能などいっさい捨てて,人間の存在のあり方,記憶の現れ方,外的な現実と意識のかかわり方を,ありのままにとらえようとする試みである。50年代から始まる〈ヌーボー・ロマン〉がそれを典型的に示しているが,それはさらに,小説の特性そのものを問うこと,小説の成り立つ根拠を解明することを主題とする試みにまで及んでいる。詩についていえば,ここでもまた存在の根源に問いかけるまなざしが目だつが,最も優れた詩人としてボンヌフォアの名をあげておく。

 以上,当然あげるべくしてあげる機会に恵まれなかった名前もあるが,約1000年に及ぶフランス文学の流れを概観すると,さまざまな時代を通じて,またさまざまなジャンルにわたって,フランス文学は何よりも人間を探究する文学,人間の生き方を探る文学であったことがみてとれる。また文学の本質を問題にする理論的な探索の側面が強く,新旧の論争がたえず活発であったことも目につきやすい特徴であろう。だが,理論闘争が活発であったにせよ,人間の普遍的な本性,理性的秩序,人間の知的能力の進歩等々,近代を支えてきた価値の指標は,現代まで根底から激しく揺り動かされることはあまりなかった。しかし,その点で,現代は様相が一変しようとしている。フランス文学はいまそういう根底的な難問を前にして,苦しい戦いを強いられているようにみえるのである。

明治以来,フランス文学は日本で熱心に読まれつづけているばかりでなく,詩人,小説家の創造活動にも大きな刺激を与えつづけてきた。まず明治初頭,フェヌロン,デュマ,ベルヌの紹介が盛んに行われたが,これはむしろ外国事情を知る手がかりのようなものであった。自由民権運動に絶大な影響を及ぼした中江兆民訳,注解によるルソー《民約訳解》を別として,フランスの文学作品が,真剣な文学的論議を呼ぶことになったのは,明治20年代からである。いわゆる〈没理想論争〉にからんで,小説が人間をあるがままに描くにはどうすべきかという観点から,とくに自然主義小説が関心の的にされた。森鷗外〈エミル・ゾラが没理想〉(1892)がその一例である。ゾラの考えた〈自然〉は,明治の日本では正当に理解されたとは言えないが,島崎藤村,田山花袋ら,やがて日本の自然主義を形づくる小説家たちは,ゾラやモーパッサンの作品から学ぶところ大きかった。彼らはまた,その頃《懺悔録》と訳されていたルソー《告白》の影響もあって,文学は内心の吐露であるべしとも考えていた。一方,詩の領域では,主として上田敏の紹介を通してボードレール,ベルレーヌの作品が広く知られ,明治末期から大正にかけて,薄田泣菫,蒲原有明,北原白秋,萩原朔太郎らが,象徴という手段を通して,内的な感情・情緒を表現しようと試みた。

 明治・大正を通じて,フランス文学を最も深く呼吸した作家は永井荷風であろう。荷風は訳詩も試み,ゾラ,レニエなどに造詣が深かったが,フランスの文化的風土への敬意を創造の動力とした点で特異な存在であった。芥川竜之介もメリメ,フランスなどに関心を寄せたが,憧憬,心酔の深さで荷風に及ばない。

 大正末から昭和10年代半ばまで,フランス文学に対する関心はさらに拡大する。思考する人間の意識,ひいては制作する人間の意識の精密な分析を重視した象徴主義の批評精神に着目し,新しい文学批評の道を開いた小林秀雄,河上徹太郎,ジッドなどを通してつかんだ精神の自由な運動という考えを,文学の拠りどころとした石川淳,スタンダールを熟読し,第2次大戦後になってから,社会の圧力のもとでの個人の生き方を明晰に見つめる小説を書いた大岡昇平など,この時期に出発点をもつ作家は少なくない。また,《詩と詩論》など,シュルレアリスムをはじめとする同時代の文学の紹介に熱意を示す雑誌が,つぎつぎに刊行されたのもこの時期である。

 第2次大戦後,特筆しなければならないのは,野間宏におけるジッドやサルトル,中村真一郎におけるネルバルやプルーストのように,フランス文学に対する理解が,小説の方法そのものとして血肉化されていることである。モーリヤックと遠藤周作の関係についても,同じことが言える。一方,サルトル,カミュを中心とする不条理の文学や〈ヌーボー・ロマン〉をはじめとして,同時代の文学が時を移さず紹介されるようになったのが,この時期の特徴である。ただし距離は縮められたが,本質的な交流がどこまで活発になったか,それは今後考えられるべき問題であろう。

 最後に日本におけるフランス文学研究について一言すると,大正期から本格的に始められたこの分野の仕事は,たとえば渡辺一夫のラブレー研究のごとき画期的業績を生むなどしながら年とともに深められ,いまや国際的な評価に十分に耐えられる水準に達している。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランス文学」の意味・わかりやすい解説

フランス文学
フランスぶんがく
French literature

フランス語で書かれた文学。フランス語は,俗ラテン語から派生したスペイン語,イタリア語などとともに,ロマン諸語の一つである。フランスを中心に用いられてきたが,現存する最古の文献は,842年の「ストラスブールの誓約」である。これは,シャルルマーニュの孫,ゲルマニア王と禿頭王シャルルが,長兄ロテールに対抗するために交わした宣誓文であった。中世のフランス語は,北フランスのオイル語と南フランスのオック語に分かれ,それぞれに作品を生み出すこととなった。前者では聖者伝『ローランの歌』 Chanson de Rolandを代表する武勲詩,宮廷風騎士道物語や町人文学など,後者は,主に抒情詩である。
宗教的祭儀から出発した中世演劇も,宗教劇としては奇跡劇を生み出し,町人や学生たちによって喜劇も上演されるようになる。それぞれの文学的ジャンルは発展し多くの作品を生むが,中世を通じて代表的作家・作品を挙げると,12世紀では,アーサー王題材を中心とする宮廷文学の作家クレチアン・ド・トロア,12世紀末から 13世紀にかけて書かれた『狐物語』 Le Romand de Renard,13世紀の教訓文学の作品『薔薇物語』 Le Romand de la Roseなど,また抒情詩人では,F.ビヨンであろう。歴史や年代記の作家も,J.フロアサールや P.deコミーヌがいる。このように前期 (12,13世紀) ,後期 (14,15世紀) を通じ,中世は暗黒時代からはほど遠い豊かな時期で,後に発展することになる文学作品のジャンルも,かなり出そろっている。
16世紀はルネサンス宗教改革の時代であった。中世で断絶していたギリシア・ローマの古代文化を「再生・復興」させるという意味で Renaissanceは解釈されたが,近年,断絶はなかったとする説が有力である。むしろ,神中心から人間中心への視点の移行,ギリシア・ローマの文献にしても,原典から直接にという探究精神が,教会によらず聖書から直接にという宗教改革の精神に結びついたと考えられている。詩人としては,宮廷詩人 C.マロ,ほかの6人とプレイヤッド派に属する抒情詩人の P.deロンサール,『ガルガンチュアとパンタグリュエル』の作家 F.ラブレー,宗教改革に強い影響力を与えた J.カルバン,『エセー』 Essaisの M.E.deモンテーニュなど,世界文学史上に名を残す人々が輩出している。
17世紀は,秩序を重んじる古典主義の時代で,詩人の F.deマレルブに始まり,悲劇の P.コルネイユ,J.ラシーヌ,喜劇のモリエールが活躍した。哲学者では,R.デカルト,B.パスカル,が後世に影響を与えた。モラリストと呼ばれる作家たちや心理小説の誕生もこの頃である。規律重視の 17世紀から,18世紀は自由な批判,啓蒙主義の時代に入った。唯物論の台頭,イギリスの『百科事典』の翻訳,『百科全書』の刊行にみられる知への渇望と科学技術の紹介,C.-L.deモンテスキューボルテール,J.-J.ルソー,D.ディドロなどの思想家たちは近代の到来を用意し,フランス革命にも影響を与えた。革命後の 19世紀は動揺の時代で,この時代の文学はロマン主義,写実主義 (→リアリズム ) ,自然主義象徴主義,と分類されえる。「小説の世紀」でもあり,F.R.シャトーブリアン,V.-M.ユゴーバルザックスタンダール,G.フローベール,É.É.C.A.ゾラなどの巨匠を生んだ。社会思想,文芸評論,詩の分野でも活発な活動がみられた。
20世紀の特徴は,2つの世界大戦を経験したことである。第1次世界大戦以前は A.フランス,R.ロランなど 19世紀の伝統に立つ作家たちが活躍。両大戦間は国際情勢の変化などから生れる不安,社会問題に関心が集まり,A.ジッド,A.P.T.J.バレリー,また第2次世界大戦から戦後にかけて A.マルロー,F.モーリヤックなど実存主義の旗手として J.-P.サルトル,A.カミュなどが作品を発表した。第2次世界大戦後は,小説,詩,演劇,批評などすべての分野に既成モラルへの挑戦,改革的革命への情熱と動きがみられる。

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