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シャルンホルスト Scharnhorst, Gerhard Hans David von

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

シャルンホルスト
Scharnhorst, Gerhard Hans David von

[生]1755.11.12. ボルデナウ
[没]1813.6.28. プラハ
ドイツ,プロシアの軍人。ハノーバーの砲兵将校としてベルギーでフランス革命軍と戦い,のち参謀長。 1801年プロシア軍に入り,その軍事理論を認められて士官学校長となった。 06年 G.ブリュッヒャー元帥の参謀として対ナポレオン戦争に出征,07年参謀総長となり,K.シュタイン,K.ハルデンベルク,A.グナイゼナウらと協力してプロシア軍制の大改革を断行。解放戦争に際し,再びブリュッヒャー元帥の参謀長としてリュッツェンの戦いを指導したが負傷し,プラハでオーストリアと交渉中に没した。彼は軍隊内の貴族的教育を排し,新しい教育制度と参謀本部をもつ国民軍と,新しいドイツ兵学の基礎をつくった。それはのちに K.クラウゼウィッツや大モルトケによって大成された。

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百科事典マイペディアの解説

シャルンホルスト

プロイセンの軍人。1806年イェーナの戦で敗れた後,グナイゼナウらの協力の下にプロイセン改革の一環として軍制近代化に努力。外国人傭兵(ようへい)制を廃止し,民兵制を創出して,1814年に実現された一般兵役義務制の創始者となった。
→関連項目グナイゼナウクラウゼウィツ

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デジタル大辞泉プラスの解説

シャルンホルスト

《Scharnhorst》ドイツ海軍の戦艦。シャルンホルスト級のネームシップ。1936年進水、1939年就役の超弩級戦艦。1935年のヴェルサイユ条約の破棄を受けて大型化された艦。艦名は、プロイセン王国時代の軍人、ゲルハルト・フォン・シャルンホルストの名に由来。1943年、北岬沖海戦にてイギリス艦隊と交戦、沈没。

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世界大百科事典 第2版の解説

シャルンホルスト【Gerhard Johann David von Scharnhorst】

1755‐1813
プロイセンの将軍。ハノーファーの士官であったが,のちプロイセン軍にはいる。ナポレオン戦争での敗北後,軍制改革委員会議長として軍制改革に取り組む。外国人募兵の廃止,兵役免除者数の制限,貴族特権の排除など一般兵役義務制の確立に貢献する。ナポレオンに対する解放戦争には,プロイセン軍参謀長として作戦計画を立案する。グロースゲルシェンで負傷,オーストリアとの同盟について交渉中に,プラハで死去。【望田 幸男】

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大辞林 第三版の解説

シャルンホルスト【Gerhard Johann David von Scharnhorst】

1755~1813) プロイセンの将軍。グナイゼナウ・クラウゼビッツらとともに軍制の近代化と国民軍の編成に尽力。その戦死の翌年、一般兵役義務制が実現された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

シャルンホルスト
しゃるんほるすと
Gerhard Johann David von Scharnhorst
(1755―1813)

プロイセンの将軍、軍制改革者。農民出身で母国ハノーバーの士官として対フランス戦で戦功をたてたのち、1801年ベルリン士官学校長となった。1807年には軍隊再建委員会長、ついで陸軍大臣となりプロイセン改革の一環である軍制改革を指導した。総司令官ブリュッヒャーの参謀長として参戦した解放戦争中に負傷して倒れたが、国民的軍隊創設の彼の遺志は後継者グナイゼナウによって実現された。[岡崎勝世]

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