デジタル大辞泉
「ハルデンベルク」の意味・読み・例文・類語
ハルデンベルク(Karl August Hardenberg)
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ハルデンベルク
- ( Karl August Fürst von Hardenberg カール=アウグスト=ヒュルスト=フォン━ ) プロイセンの政治家。一八一〇年宰相となり、ツンフト特権の廃止、国内関税の撤廃などで経済の回復をはかる一方、列強と同盟してナポレオンを破り、ウィーン会議で領土拡大に成功した。(一七五〇‐一八二二)
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ハルデンベルク
はるでんべるく
Karl August Fürst von Hardenberg
(1750―1822)
プロイセンの政治家。由緒ある旧貴族の家柄に生まれる。母国ハノーバーなど各地で改革的官僚として活躍。1791年以後プロイセン国王に仕え、1804~1806年、1807年外相となったが、ナポレオン1世の要求で罷免された。1810年、シュタインが罷免された後を受けて宰相になり、以後シュタイン‐ハルデンベルクの改革として知られるプロイセン改革をはじめとして、内・外政を指導した。行政機構・教育制度・軍制の改革、農業改革、営業の自由化、ユダヤ人の解放など広範な自由主義的改革を推進、国力の急速な復興に貢献したが、ユンカーに大幅に妥協した農業改革など不徹底な面も残した。対外的には、解放戦争に参加してナポレオンを倒し、ウィーン会議ではプロイセン全権代表として出席、領土拡大に成功してプロイセンの国際的地位を高めた。しかし王政復古下の憲法制定と議会開設の努力は実を結ばなかった。
[岡崎勝世]
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ハルデンベルク
Hardenberg, Karl August, Fürst von
[生]1750.5.31. ハノーバー,エッセンローデ
[没]1822.11.26. ジェノバ
ドイツ,プロシアの政治家。 1770~81年ハノーバーの官僚となり,82年ブラウンシュワイク侯に仕え,90年アンスバハ=バイロイト辺境伯領長官となったが,翌年同地のプロシア併合に伴いプロシア政府に仕えた。フランス革命の際,ライン戦争に参加,95年バーゼル条約にプロシアを代表して調印,1804年プロシア外相となった。 K.シュタインの改革に積極的に協力,10年シュタインの跡を継いで宰相となり,ギルドの特権の廃止による営業の自由の確立,税制改革を中心とする財政改革,ユダヤ人への市民権の供与,国民教育の充実と学芸の振興など自由主義的な行政・経済改革を精力的に推進し,G.シャルンホルストや A.グナイゼナウによる軍制改革にも全面的な支援を与えた。外政面では一応フランスに従属しつつ,イギリスなど列強との連帯を強め,ナポレオン1世のモスクワからの敗退後,13年国王を動かしてフランスに宣戦させ,解放戦争を指導して 14年パリ条約に調印した。 14~15年のウィーン会議にはプロシア代表として出席し,領土拡張に一応は成功したものの,多くの場合メッテルニヒの思うままにあやつられ,その後は内政の面でも保守勢力との妥協に傾いた。
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ハルデンベルク
Karl August Hardenberg
生没年:1750-1822
プロイセンの政治家。1810年宰相に就任し,シュタインを継いで22年までプロイセン改革を推進,とくに財政と経済の再建のため,ツンフト特権の除去(〈営業の自由〉の確立)や国内関税の撤廃を行い成果をあげた。ウィーン会議にはプロイセン全権代表として出席,西方への領土拡張を果たした。会議後は反動化の風潮に抗しえず,地主本位の農業立法の制定や立憲化の挫折など改革は停滞した。
執筆者:末川 清
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ハルデンベルク
Karl August Fürst von Hardenberg
1750~1822
プロイセンの政治家。1804~06年および07年外相。10~22年宰相。シュタインのあとを受けてプロイセン改革を推進し,行政機構改革,農業改革,営業の自由化などを行った。ウィーン会議でプロイセンを代表,革命の再発防止ではメッテルニヒに協力したが,経済政策は自由主義的で,プロイセンの経済発展の基礎を築いた。
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「ハルデンベルク」の意味・わかりやすい解説
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ハルデンベルク
Karl August Hardenberg
1750〜1822
プロイセンの政治家
外相(在任1804〜06,07),宰相(在任1810〜22)となり,おもに外交部門で活躍。反ナポレオン的立場から一時辞職したが,1810年に再び宰相となり,シュタインの改革事業を継承,財政改革・軍制改革・農奴解放など国力の再建に努力した。ウィーン会議にはプロイセン代表として自国の領土拡張に成功。
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世界大百科事典(旧版)内のハルデンベルクの言及
【デンマーク】より
…クヌットの姉エストリドの子スベン2世Svend II(在位1047‐74)は,その統治期間中に現代のデンマークにつながる内政的秩序を打ち立て,後の王はなんらかの形で彼に血統をさかのぼらせることになる。彼の孫の代で王位をめぐる内戦状態に入り,1157年[バルデマー1世]が唯一の王となり,内戦を終結させた。バルデマー1世はランスティング(国民集会)の同意を条件に王位世襲の原則を確立した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」