軍事制度の略語で、一国の軍隊に関する制度全般をさす。軍隊の建設、編制、維持、管理、指揮および作戦・運用にかかわるすべての制度が含まれる。兵役、兵備に関する制度を意味する兵制という術語が軍制と同義語として用いられる場合もある。英語では普通ミリタリー・システムmilitary systemまたはミリタリー・オーガニゼーションmilitary organization(ともに軍事組織または軍事機構を意味する)と称される。以下で述べる軍政とは同音異義語であることに注意。本項では現代の軍事制度を取り扱い、歴史的なものは「兵制」の項で記述する。なお、「軍隊」の項もあわせて参照されたい。
軍制はほとんどの国において、法律、命令などの法形式で定められている。軍制を組織や機能の点からみると、一般に次の三つにより構成される。
(1)軍政military administration:軍隊における行政機能。軍隊の編制、維持、管理に関する行政事項で、予算、人事、給与、会計、物資調達、教育、施設の管理など一般の行政官庁と同様の行政事務に関する事項をつかさどる。軍隊が占領地を統治するために行う軍政military governmentとは区別される。
(2)軍令 military command:軍隊の指揮、作戦・運用に関する機能。軍隊の各部隊に実際の作戦行動をとらせるために必要な作戦計画の立案、作戦命令を発するなどの軍隊に特有の機能。
(3)軍事司法制度 military justice:軍隊における司法機能。軍隊の規律や秩序の維持を目的としており、軍人・軍属の犯罪や規律違反を取り締まり、一般の裁判所とは別に設けられた軍事裁判所で審理し処罰する。戦前の日本では軍法会議とよばれた。命令への絶対服従や厳しい規律を求められるなど、軍隊の特殊な事情から生まれた特別裁判所。かならずしもすべての国の軍隊に設置されているわけではなく、軍隊における犯罪も一般の裁判所で裁かれる国もある。日本においては特別裁判所である軍事裁判所は日本国憲法第76条により禁止されている。
各国の軍制は、その国の歴史と伝統、政治体制、国際環境を色濃く反映し多岐にわたる。王政が一般的であった時代には、軍制に関する権能は国王などの権力者に一元的に集中していた。軍隊を維持するための予算は議会の承認を必要とせず、軍隊の作戦・運用に関する権限は国王の大権の一部としていかなる干渉も許さなかった。しかし、イギリスにおいて、1688年の名誉革命、翌1689年の権利章典によって、重要な軍政事項である陸軍の兵力量が、議会による毎年の承認を必要とするようになった。これが近代的文民統制(シビリアン・コントロール)の始まりであり、議会、すなわち国民の代表による軍隊の統制が始まることとなった。この後、19世紀、20世紀を通して各国で民主化が進むにつれて、軍政事項に加えて軍令事項もシビリアン・コントロールのもとに置かれるようになっていく。一国の軍制を形づくるうえでもっとも影響を与えるのが政治体制である。政治体制が独裁的な国の軍制は、あらゆる権限が権力者に集中し、軍隊に対する国民やその代表による民主的な統制を許さない。一方、大統領制、議院内閣制の違いにかかわらず、民主主義が徹底された政治体制の国においては、議会と文民の政府による軍隊に対する文民統制もまた徹底されている。国際環境も軍制のあり方に大きな影響を与える。イスラエル、北朝鮮といったつねに厳しい軍事的緊張状態に置かれている国においては、男子のみならず女子も徴兵の対象とするなど社会への負担が大きい軍制の採用を余儀なくされる。一方で、国の防衛という観点からは合理的と思われない要素が、しばしば軍制のあり方に影響を及ぼす。独裁的な権力者の多くは、国防のためというよりも自らの権力維持のために軍隊を重視する。このような国における軍制は、対外的な「脅威」よりも国内政治における権力者にとっての「脅威」を主要な対象として構成される。軍制は治安機能が重視され内向的な性格を強める。軍隊を国防のため、もっぱら対外的脅威に対して指向する国は北大西洋条約機構(NATO(ナトー))、ヨーロッパ連合(EU)諸国や日本など先進的な民主主義国に多くみられ、その他の国々においては、一般的に治安機能が重視される。現在の世界においても、軍隊が、自国民に銃を向けない国のほうが少数派である。
各国が実際の軍制を設計するうえで、もっとも重視しているのは軍隊をいかに統制するか、すなわち文民統制をどうやって確保するかという問題である。政治体制の違いにかかわらず、軍隊は政治指導者の意思に従いその統制に服すべきとする点においては共通している。むしろ独裁的な政治体制ほど軍隊を潜在的な脅威とみなし、より強く統制を求める傾向にある。では、なぜ、軍隊に対する統制が必要なのか。軍隊は一国の社会において最大の物理的強制力をもつ最強の実力組織である。かりに軍隊が自律的な意思をもち、その意思を貫徹しようとした場合、社会はそれを止める術(すべ)をもたず軍事独裁となる。ゆえに政治体制にかかわらず、政治指導者は、軍隊に対する統制を軍制の最重要事項とみなしている。軍隊の上級士官の人事は大統領、首相、閣僚である国防大臣などによって決定され、予算は毎年の議会の承認を必要とする。作戦行動も軍隊の最高指揮官である大統領や首相の命令として発せられる。加えて、ソ連邦時代のソ連軍、中国の人民解放軍においては、一党独裁である共産党の政治的意思を軍隊の隅々まで徹底させるため、政治将校・政治委員とよばれる共産党の代表が、軍隊のさまざまなレベルに配属される。彼らは、あらゆる軍隊の行動を「監視」「指導」し、作戦行動、政治教育など、多くの場面において大きな権限を振るう。
同じく軍制の設計において重要なのは、軍隊の編成である。各国の軍隊の編成は、その国の地理的条件、軍事環境、経済構造、財政力などによって決まる。日本やイギリスのような島国で貿易への依存度が高い国は海軍重視となり、ロシア、中国、ドイツといったいわゆる「大陸国家」は圧倒的に陸軍の割合が高くなる。アメリカは、世界規模で軍事介入可能な能力を重視しており、そのため強力な海兵隊を維持している。また、高度な軍事技術と財政力を背景に他国の追随を許さない空軍力を保持している。一方で空からの脅威を想定できないニュージーランドは、空軍は存在するものの防空を担当する戦闘機部隊をもたない。一般的な陸海空の3軍種のほかに、ロシアと中国には、核ミサイル攻撃を専門とするロシア戦略ロケット軍、人民解放軍ロケット軍が独立した軍種としてそれぞれ設置されている。2001年の「アメリカ9・11同時多発テロ」以降は、各国で対テロを目的とした特殊部隊を強化する動きが顕著にみられる。
アルカイダによるテロ攻撃に触発され、多くのイスラム系テロ組織が生まれた。これらはイスラム教の伝統的・原理主義的戒律を重んじながらも最新のテクノロジーを利用したテロ攻撃を行う。また、民間軍事会社(PMSC:private military and security company)とよばれる、軍事サービスを会社組織で請け負う企業も多く生まれている。民間軍事会社は、紛争地域などで軍隊の訓練、警備、要人警護といった軍事活動を各国政府より請け負い活動している。こうした非国家の新たな軍事組織が多く生まれたのが「アメリカ同時多発テロ」以降の特徴でもあり、これら組織のなかには洗練された軍事制度をもつものもある。
冷戦の終結以降、各国の軍制には共通した変化がみられる。「平和の配当」を求めた軍縮の結果、各国で軍隊の規模が大きく縮小された。軍当局は、残された兵力を最大限に有効活用するための改革を開始した。多くの国で冷戦時代に基本的な戦略単位であった1万~1万5000人規模の師団が、3000~6000人規模の旅団へとダウンサイジング(縮小)された。これによって部隊としての機動性が高まり、迅速な軍事行動が可能になった。次に、陸軍、海軍、空軍といった軍種の垣根を越えて部隊を有機的に機能させることで兵力減を補おうとした。これが統合運用である。部隊のダウンサイジングによる機動性の向上と他軍種との統合運用は、冷戦後の各国の軍制改革に共通した特徴となっている。こうした軍制改革と国際環境の変化の結果、冷戦時代の「抑止」のための軍隊は、「活動」する軍隊へと大きく変容してきている。軍隊は、冷戦時代の領土・領海・領空の防衛から、海外における活動も含め、対テロ活動、人道支援、平和維持活動といった「戦争以外の軍事作戦」を迅速に行えるよう軍制を変化させてきている。冷戦時代の軍隊は、つねに訓練を行い、練度を高めることによって抑止力を維持することが最大の任務であり日常の姿であったが、21世紀の軍隊は、国内外を問わず、つねにどこかで、対テロ活動、同盟国の支援、平和構築、平和維持、海賊対処、人道支援、災害救助といった多様な任務を行うのが日常の姿となっている。
[山本一寛 2019年1月21日]
自衛隊は、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊によって構成されている。文民である内閣総理大臣を最高指揮官とし、同じく文民でありかつ国務大臣である防衛大臣が防衛省および自衛隊を統括する。国会と文民の政府による文民統制のもとに置かれており、防衛予算は国会の承認を必要とする。自衛隊は、一貫して志願兵制を採用している。集団的自衛権を行使する法的根拠としてアメリカ合衆国との間に日米安全保障条約を結んでいる。非核三原則を国是とし、核抑止力として頼っているアメリカの核兵器でさえ日本の領域への配備を拒んでいる。島国という性質を反映し海空戦力を重視した編成となっている。2003年(平成15)以降、有事法制の整備や集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更など、冷戦時代には先送りにされた自衛隊が活動するための法的基盤の整備を進めてきた。冷戦の終結以降、自衛隊の縮小が続いてきたが、中華人民共和国の海洋進出に警戒感を強めており、2010年代に入り、東シナ海方面へ防衛の重心を移しつつある。
日本では第二次世界大戦の終戦に至るまで、陸軍省および海軍省が軍制を統轄した。1872年(明治5)に陸軍・海軍双方が属する兵部(ひょうぶ)省が解体され、陸軍省および海軍省が設置された。両省とも当初は軍政事項と軍令事項を一元的に処理していた。軍令は、明治憲法第11条の天皇の大権としての統帥権を主たる内容とする軍の統帥に関する事務および命令をいい、1878年に陸軍省から天皇直属の参謀本部が独立して陸海軍共通の軍令機関となった(いわゆる統帥権独立)。1893年には、これも天皇に直属する海軍軍令部が設置され、軍政機関としての陸海軍省と、軍令(統帥)機関としての参謀本部、海軍軍令部の並立という図式ができあがった(海軍軍令部は1933年〈昭和8〉に軍令部となった)。
このように、旧陸海軍においては、軍政事項および軍令事項を統轄する機関が制度上は別個に設けられていたが、両事項はかならずしも明確に区別されてはいない。むしろ密接不可分であると考えられ、軍部大臣に、軍政担当の国務大臣の機能と統帥・軍令担当の機能とをあわせもたせるという側面がみられた。また、陸軍と海軍では、両事項の区別について解釈・運用の違いもあった。
軍事司法については、陸軍刑法、海軍刑法、軍法会議法、および指揮権に基づく行政処分である懲罰を規定する懲罰令が制定されていた。軍法会議は陸海軍にそれぞれ常設のものと戦時に特設されるものがあった。
明治憲法第20条は日本臣民に兵役義務を課したが、1873年(明治6)の徴兵令は満18歳から満40歳までのすべての男子が兵役(常備兵役、後備兵役、補充兵役および国民兵役)に服するものとした。徴兵令は1927年(昭和2)に廃止され、新たに兵役法が制定された。両者の内容は基本的には同じである。
1945年(昭和20)の敗戦によってすべての軍事制度が廃止された。1947年施行の日本国憲法第9条は、戦争の放棄、戦力の不保持および交戦権の否認を規定した。しかし、1950年、朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)に伴い警察予備隊が創設され、1954年には陸海空自衛隊と防衛庁(現、防衛省)が発足した。その後、自衛隊は着々と増強され、冷戦後は国連平和維持活動(PKO)に参加するなど、組織の規模と行動範囲を広げながら今日に至っている。しかし、自衛隊の合憲性については、現在もなお論争が続いており、いまだ決着をみていない。憲法には軍隊の保有を定めた規定がなく、自衛隊の組織および行動と防衛省の組織を律するのは、自衛隊法と防衛省設置法である。2007年、防衛庁設置法が防衛省設置法へと改題され、防衛庁は防衛省に昇格した。
文民統制については、自衛隊は国会と文民の政府による厳格な文民統制のもとに置かれている。自衛隊の最高指揮官は国会の多数によって選ばれた内閣を代表する総理大臣であり、総理大臣による指揮監督のもと、国務大臣である防衛大臣が自衛隊の行動を統括する。自衛隊における軍政と軍令は、内閣総理大臣と防衛大臣のもとで統合されており、旧日本軍のように軍令が内閣総理大臣の管轄外に置かれる(統帥権の独立)といった体制にはない。また、防衛予算については、毎年の国会による承認を必要とし、防衛出動や治安出動など自衛隊のおもな行動に対しても国会の承認を必要とする。
防衛大臣に対する補佐は、政治任命による副大臣1人と大臣政務官2人のほか、統合幕僚長、陸海空自衛隊幕僚長、事務次官などによって行われる。2006年、防衛庁(2007年、防衛省となる)・自衛隊は、陸海空自衛隊を有機的・一体的に運用(統合運用)するため組織改編を行った。統合運用を推進するため、統合幕僚会議を廃止し新たに統合幕僚監部を設置し、その長として統合幕僚長を置いた。機能的には、内局、陸海空自衛隊幕僚監部にあった指揮、作戦・運用機能が、一括して統合幕僚監部に移された。これにより自衛隊の軍令機能は統合幕僚長が指揮する統合幕僚監部に集約された。陸海空自衛隊幕僚長と各幕僚監部は、人事、防衛力整備、教育訓練などの軍政機能を引き続き担当することとなった。これにより防衛大臣に対する補佐機能も、軍令に関しては統合幕僚長が、軍政に対しては陸海空自衛隊幕僚長がそれぞれ行う体制が確立された。
現在、日本には旧日本軍における軍法会議のような特別裁判所は設置されていない。したがって自衛隊の隊員が犯した犯罪は、すべて一般の司法的手続に従って審理され、処罰される。また、憲法第18条は「意に反する苦役」を禁止し、徴兵制は違憲とされているため、自衛隊は志願兵制を採用している。
[亀野邁夫・鈴木 滋・山本一寛 2019年1月21日]
アメリカ軍は、陸軍、海軍、空軍、海兵隊、沿岸警備隊によって構成されている。文民である合衆国大統領を最高指揮官とし、文民でありかつ閣僚である国防長官が国防総省およびアメリカ軍を統括する。連邦議会と連邦政府による文民統制のもとに置かれており、国防予算は連邦議会の承認を必要とする。1973年以降、志願兵制をとっている。集団的自衛権を行使する法的根拠として北大西洋条約機構(NATO)の一員であるとともに、日本、韓国、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド、東南アジア、中南米諸国と安全保障条約を結んでいる。経済力と高い軍事技術を背景に他国を圧倒する戦力を保持しており「唯一の超大国」とよばれる。ロシアと並ぶ核戦力を有しており、海軍、空軍に配備された核兵器を中心に核抑止力が維持されている。また、これら核兵器は、日本など同盟国への「核の傘」としても機能している。「アメリカ同時多発テロ」以降、対テロ、治安維持機能を重視してきたが、北朝鮮による核兵器・弾道ミサイル開発、中華人民共和国の急速な海洋進出に直面し、2010年代に入り、海空戦力のいっそうの統合と前方展開を進めている。
合衆国憲法は、国防の責任および権限を連邦議会と行政府(大統領)に与えている。連邦議会の権限は、(1)陸軍、空軍の編制、維持、(2)海軍の建設、維持、(3)戦争宣言、(4)軍隊の募集と財政的維持、(5)国防のための税金の徴収および金銭の充当、(6)軍隊の統制と規律のための規則の制定、である。大統領は合衆国軍隊の最高指揮官の地位を与えられている。大統領の国防上の権限は、このほか行政府の長であること、連邦議会から権限の委任を受けていることに由来する。連邦議会のみが戦争宣言を行うとはいえ、過去の例が示すごとく、戦争宣言は事実上大統領の要請に基づいて行われたのであり、さらに、最高指揮官としての大統領が、連邦議会の宣言なしで軍事行動を命ずることもたびたびあった。ベトナム戦争がその好例である。その苦い経験にかんがみ、1973年に連邦議会は、戦争宣言または法律による授権なしに軍隊が投入された場合、60日以内に軍隊の使用を停止させるいわゆる戦争権限法を成立させた
第二次世界大戦後のアメリカの軍事制度は、1947年の「国家安全保障法」(および1949年の修正法)によって確立された。1947年、同法に基づいて、独立機関であった陸軍省と海軍省に新設の空軍省を加えて国家軍事機構を設置した。同時に、国の安全保障に関連する事項について大統領に助言を与える国家安全保障会議(NSC)が設けられた。1949年の修正法では、国家軍事機構を国防総省(ペンタゴン)に改編し、連邦議会の承認を得て大統領が任命する国防長官をその長とした。また、大統領、国家安全保障会議および国防長官に対する主たる助言機関として統合参謀本部が設置された。
国防長官の任務は、大統領のもとで国防総省内の諸機関に対する指揮・管理の権限を行使することである。国防総省は、国家の安全保障を確保し、戦争を抑止するために必要な軍事力を維持し整備する。国防総省には長官事務局、陸海軍各省および統合参謀本部が含まれる。1958年の「国防総省改編法」で国防長官の権限が強化され、陸海空軍各省がその管理下に入り、さらに統合軍が設置された。一方、統合参謀本部議長についても、1986年の「国防総省改編法」(ゴールドウォーター・ニコルス法)で、それまで合議体であった組織の運用を改め、議長を第一の軍事顧問に指定するなど、その権限強化が図られた。
国防長官事務局は、国防長官のほか、国防副長官1人、国防次官6人(政策、会計検査、人員および即応性、調達・技術および兵站(へいたん)、研究および工学、情報の各担当)、10人を超える国防次官補(立法、広報、衛生、取得、国際安全保障、アジア太平洋安全保障、世界戦略、国土防衛および世界規模の安全保障、兵站および資材即応性、NBC〈核、生物、化学〉防護計画、特殊作戦および低強度紛争、などの各担当)および複数の国防副次官その他からなり、下部組織として10を超える機関を有する。陸海空軍各省の長官には文官が任命され、国防長官の指揮・統制を受ける。各省は長官事務局、参謀本部(海軍は作戦本部)および他の付属機関からなる。陸・空軍の参謀総長、海軍作戦部長は各軍の長官に隷属する。海軍省には海兵隊が含まれる。有事には海軍の一部として行動する沿岸警備隊は、平時の管轄が国土安全保障省に移された。陸海空軍各省の役割は、今日では戦闘部隊に対する補給、教育訓練などに限られている。
アメリカ軍の軍種は陸・海・空軍、海兵隊、沿岸警備隊であるが、沿岸警備隊を除く4軍が戦闘組織として統合軍に編制されている。統合軍は、統合参謀本部議長の助言と補佐に基づき国防長官を通じて大統領が設置するもので、国防長官の指揮下にある。1人の統合軍司令官の下に2軍種以上の部隊で構成され、広範かつ永続的任務を負う。統合軍には、各作戦地域を管轄する部隊と、特定分野の機能別部隊の2種類がある。前者には北方軍、欧州軍、アフリカ軍、インド太平洋軍、南方軍、中央軍、後者には特殊作戦軍、戦略軍、輸送軍、サイバー軍がある。
このようにアメリカ軍における軍政は、国防総省に属する4軍については、陸軍は陸軍省が、海軍と海兵隊は海軍省が、空軍は空軍省が、それぞれ管轄する。軍令は、ともに国家指揮権限(NCA:National Command Authority)を与えられている大統領から国防長官を経て各統合軍に伝達され実行される。アメリカ軍における最高位の軍人である統合参謀本部議長は、部隊に対する指揮権をもたず大統領と国防長官の主たる軍事顧問の役割を果たす。
第二次世界大戦後、アメリカでは選抜徴兵制が実施されていたが、ベトナムからの撤退に伴い、1973年から志願兵制に移行した。しかし、1980年に、国際緊張の高まりを理由に徴兵年齢に達した男子(18歳)の登録制度が再開された。軍事司法に関しては、1951年、「軍法会議の構成および処理法」ならびに刑罰を規定する「陸軍刑法」を廃止し、陸・海・空軍、沿岸警備隊の構成員または軍法に服すべき者の行為を支配する「統一軍事裁判法」が施行された。さらに、軍法会議教範の制定をもって軍事司法制度が確立された。
[亀野邁夫・鈴木 滋・山本一寛 2019年1月21日]
イギリス軍は、「女王陛下の軍隊」(Her Majesty's Armed Forces)ともよばれ、海軍、海兵隊、陸軍、空軍によって構成されている。マグナ・カルタ、権利請願、権利章典などに基づく立憲君主制の長い歴史と伝統を反映し、現在も軍隊の指揮権は君主(女王)の大権に属し、名目上の最高指揮官は女王である。しかし、実際の軍隊の指揮権は首相および内閣に属し、議会に対して責任を負う。イギリス軍の軍政と軍令は、首相の監督のもと内閣の一員である国防相と内閣の構成員ではない複数の閣外相(日本の副大臣に相当)と政務次官(日本の政務官に相当)の管轄下にある。国防予算は議会の承認を必要とする。1961年以降、志願兵制を維持している。集団的自衛権を行使する基礎として北大西洋条約機構(NATO)に加盟している。歴史的に海軍力を重視してきたが、冷戦の終結以降、財政難を反映し陸海空軍とも縮小が続いている。しかし、海軍による核抑止力は維持されている。
第二次世界大戦後、イギリスでは国防機構の改編が何度か行われた。1964年に、それまで独立していた陸・海・空軍3省を統合し、国防省を設置した。3軍は1人の国防相の権限下に置かれ、国防相の下に各軍を担当する3人の閣外相が置かれた。各閣外相は、各軍の管理を行うと同時に、国防相から委任された国防全般の権限に関して国防相を補佐するとされた。同時に国防会議Defence Councilが新設され、それ以前は各軍で処理されていた軍隊の指揮、管理の権限を引き継ぐことになった。国防会議は国防相を議長とし、国防政策の執行と管理を担う。また、内閣に国防政策に関する重要事項を討議する国防・海外政策委員会が設置された。
1967年には次のような改編が行われた。3軍担当閣外相が廃止され、国防省に陸海空軍担当の政務次官(3人)が置かれた。国防相の下に人事・兵站担当および研究開発・生産・調達など担当の2人の閣外相が置かれた。国防相は1人の国防事務次官に補佐され、さらにその下に行政担当、装備担当の第二事務次官が置かれた。3軍は直接政務次官には属さず、国防会議の下部機関として設けられた海軍部会、陸軍部会および空軍部会が、おのおの国防相から委任された行政事務を行う。各部会の長は国防相であり、各閣外相、政務次官、各軍参謀総長等で構成される。各部会に人事、装備等の担当部局が置かれ、省に相当する組織を構成する。
一方、軍令事項の系統として、国防省の隷下に国防参謀総長を長とする国防参謀本部が設置され、その下に陸・海・空軍参謀本部が置かれた。政府に対して戦略、軍事行動および国防政策の軍事的側面についての専門的助言を行うのは、参謀総長委員会であるが、その実行は国防参謀本部に属する国防作戦実行委員会が担当する。参謀総長委員会は、国防参謀総長(議長)、国防参謀次長(副議長)および3軍参謀総長とで構成されており、参謀総長が主宰する。委員会にはこれら幕僚スタッフのほか、事務次官も参加する。
以上の軍政、軍令に関する機構は、その後も基本的には変わらなかったが、1970年には2人であった閣外相が1人減となり、1人で3軍を担当することになった。さらに、1981年5月、政府は陸・海・空軍担当の3政務次官の職を廃止した。その理由は、3軍に対する統制を強化するために軍首脳を国防大臣の直接統制下に置くことであった。それ以後は1人であった閣外相を、人事・兵站を含む3軍の管理を担当する閣外相と、装備を担当する閣外相の2人とし、事務次官が補佐する体制をとることになった。
1985年1月には、国防省の機能をいっそう向上させ、合理化することを目的とする20年ぶりの大改革が行われた。すなわち、国防参謀本部にかわる新たな統合参謀本部の下に「戦略および政策」「計画および人事」「システム開発および研究」「軍の運用および兵站」を担当する4部門が設置され、全軍の政策や作戦は一元的に統制されることになった。これに伴い、3軍の関連部局が廃止され、各軍参謀総長は各軍の単なる行政上の長となった。またこれとは別に、行財政上の責任を負う管理・予算局が設けられた。ただし、国防省の長であり国防会議の議長である国防相の地位に変更はない。
冷戦後も国防省の基本的な組織系統に大きな改編はみられなかったが、既存行政組織の機能を外局に移管するエージェンシー化政策の影響を受けて、国防分析業務庁、国防輸送・移動庁、軍測量局など多くの外局が設置された。その数は1994年3月末の時点で44に上った。2011年に発表された防衛改革に関する報告書に基づき、国防委員会Defence Boardの新設、軍制を担当する事務次官と軍令を担当する国防参謀総長を含め各部門トップの責任の明確化、国防省事務局のスリム化、陸海空参謀長への権限委譲、常設の統合戦力軍Joint Forces Commandの設置、などの大規模な組織改革が行われた。
2018年の段階で国防省では、イギリス議会議員であり内閣の一員でもある国防相と、同じく議員である2人の閣外相、2人の政務次官の5人が、議会を代表して国防省における文民統制を担っている。イギリスにおける文民統制は、歴史を反映し「議会による統制」という意味合いが強い。2人の閣外相は、それぞれ、議会上院、儀礼、ヨーロッパ連合(EU)などの担当と、イギリス軍の編成、作戦、演習、サイバー部門などの担当に分かれている。さらに、人員、退役軍人の担当と、防衛装備品の取得を担当する2人の政務次官を加えた4人によって、国防相に対する政治レベルの補佐が行われている。また国防相は、軍政については事務次官の、軍令については国防参謀総長の補佐を受ける。イギリスの長きにわたる議会による文民統制を象徴するものとして、3軍のうち陸軍のみが5年に一度、議会により陸軍の存在を承認することが求められている。この手続は1689年の権利章典より現在まで綿々と続いている。
国防省に設置された多くの委員会のなかで最上位に位置するのが国防委員会であり、国防会議のさらなる上位機関として新設された。国防相を議長とし、1人の閣外大臣、事務次官、国防参謀総長、国防参謀次長、財務局長、国防省外から招いた企業経営経験者など約10人の委員によって構成され、国防省最高位の意思決定機関に位置づけられている。国防委員会は、個々の作戦指揮を除くイギリスの防衛に関するあらゆる事項について責任を負うが、国防政策の方向性を定めるなど国防の大枠についてのみ決定する。国防委員会には、投資審査、会計監査、人事の三つの小委員会が付属する。一方、国防会議は、これまで通り国防省の正式な機関として国防政策の指揮・管理について責任を負う。国防委員会が決定する少数の事項以外はすべて国防会議の管轄下に置かれる。国防相、2人の閣外相、事務次官、国防参謀総長、国防参謀次長、陸海空軍参謀総長、統合戦力軍司令官、財務局長の11人で構成されている。
軍令系統にも重要な変化がみられる。冷戦の終結以降、21世紀に入っても軍全体で兵力の削減が続いた。イギリスは伝統的に陸海空3軍の独自性を尊重してきたが、残された兵力を最大限に活用するため3軍の垣根を越えた統合運用が部分的に導入された。1996年、複数の軍種による統合作戦を指揮する司令部組織として常設統合司令部Permanent Joint Headquarters(PJHQ)が設置された。これにより統合部隊は、3軍の参謀総長を経由せず常設統合司令部の統合作戦部長によって指揮されるようになった。陸海空軍が単独で行う作戦の指揮については、いままで通り各参謀総長を経由して行われる。2012年には統合運用をいっそう強化するため統合戦力コマンドJoint Forces Commandが設置され、ジブラルタル、フォークランドなどの海外基地、3軍の情報・サイバー部門、医療・衛生部門、特殊部隊などが統合され指揮下に入った。
兵役制度については、イギリスは1961年に徴兵制を廃止しており、現在まで志願兵制が維持されている。歴史的にイギリスでは、志願兵制が常態であり、徴兵制は緊急避難と認識されている。また、第二次世界大戦後の軍事司法制度は1955年の「陸軍法」、1957年の「海軍軍律法」、1961年の「空軍法」その他で整備され、1971年に3軍共通の「軍隊法」が制定された。
[亀野邁夫・鈴木 滋・山本一寛 2019年1月21日]
フランス軍は、陸軍、海軍、空軍、国家憲兵隊、国民衛兵の5軍種で構成されている。直接選挙で選ばれる大統領を最高指揮官とする。過去、アルジェリア戦争時にフランス軍の統制が著しく乱れた経験もあり、大統領と中央政府の厳格な文民統制下に置かれている。国防予算は議会の承認を必要とする。2001年より志願兵制を維持しているが徴兵制を再導入する検討が行われている。集団的自衛権を行使する法的根拠として北大西洋条約機構(NATO)に加盟しており、また海軍と空軍による核抑止力が維持されている。いまだに多くの海外県や海外領土をもつフランスは、カリブ海、南アメリカ、アフリカ、インド洋、南太平洋など世界規模で軍隊を駐留させている。核抑止力を含め陸海空軍とも「軍事大国」としての体裁を整えることを重視しており、規模は小さくともアメリカ、ロシアといった「軍事大国」と同様な機能を維持することに多くの資金が投入されている。
第二次世界大戦後のフランス軍制の基礎は、1959年の「国防の一般組織に関する大統領令」で形づくられた。それによると、国防政策に関する機関として内閣に国防最高会議、国防会議および限定国防会議が置かれた。当時の国防最高会議の構成員は大統領(議長)、首相、外相、内相、国防相、蔵相、国軍参謀総長、3軍参謀総長その他であった。同会議は大統領の諮問機関であり、国防問題研究を任務とした。国防の一般方針の策定は国防会議で行われ、大統領を議長とし、首相、外相、内相、国防相および蔵相で構成された。ここで策定された国防の一般方針は閣議にかけられ、検討され承認を受けた。国防方針の軍事分野は限定国防会議で決定され、構成員は会議のつど首相が任命した。
1958年のフランス第五共和国憲法は大統領が軍隊の首長である旨定めている。大統領は国防安全保障会議および核政策会議を統裁し、文官、武官を任命する権限を有する。核兵器の使用を判断するのも大統領である。しかし、実際に軍隊を指揮、監督するのは政府であり、首相は国防に責任を負い、国防安全保障会議における決定の執行を監督する。また、首相は国防相とともに国家安全保障に関し議会に対して責任を負う。国防相は、防衛政策の策定と執行を行う。フランス軍に関する国民議会の権限も、2008年の憲法改正により強化され、軍の海外派遣については3日以内に国民議会に報告するとともに、派遣が4か月を超える場合は議会の承認を求められることとなった。このようにフランス軍は、大統領、首相、国防相、国民議会による厳格な文民統制のもとに置かれている。
国防相は、軍事的助言を統合参謀総長より、装備の研究開発、武器輸出については装備総局長より、予算、人員を含む国防省の全般的管理については大臣官房総局長より補佐を受ける。統合参謀総長は、政府と大統領を補佐する最高位の軍人であるとともに、陸軍、海軍、空軍、国家憲兵隊、統合部隊などに対する軍令の執行について責任を負っている。軍令事項に加え、軍の一般組織に関しても国防相の権限を補佐する。統合参謀総長の任務は、(1)軍の作戦指揮、使用計画の立案、(2)軍隊の任務遂行能力向上のための施策、(3)将来に備えた防衛計画の策定と執行、(4)軍事情報活動、(5)軍種間の統合、(6)NATO、ヨーロッパ連合(EU)を含め諸外国軍隊との関係に関して、などである。統合参謀総長は、陸・海・空軍各参謀総長の上位者として明確に位置づけられている。陸・海・空軍各参謀総長は、(1)各軍の使用方針の策定、(2)各軍兵員の動員計画、(3)国防相に対する財政報告など、作戦面を除く事項について責任を負う。その権限はすべての所属部隊、組織に及ぶ。
1962年に大統領および首相の指揮下に設置されていた国防事務総局は、2009年、国防安全保障事務総局に拡大改組された。この省庁横断的組織に与えられた任務は、国防の一般方針について大統領と首相を補佐し、国防関係の会議を招集し、各省の国防関係活動を代理して国防相を補佐し、機密や情報システムの保護に必要な措置をとる、などである。フランス国内におけるテロ攻撃などを受け、国防安全保障事務総局の管轄範囲も従来の国防分野にとどまらず、対テロ対策など広く国家安全保障全般にまで拡大している。
冷戦の終結以降、縮小を続けてきたフランス陸軍は、2018年の段階で約10万人規模にまで削減された。フランス国内に駐留する主要部隊は、2016年の組織改革により陸上戦力軍司令部の指揮下にまとめられ、緊急対応軍団司令部、二つの師団、情報本部、情報通信司令部、兵站司令部、などから構成されている。フランス海軍は、「軍事大国」としての体裁を整えるというフランスの国防方針をもっともよく体現している軍種といえる。兵力は約3万6000人規模でありながら、原子力推進航空母艦、原子力攻撃潜水艦、核抑止を担う潜水艦発射弾道ミサイルSLBMを搭載した戦略原潜、遠隔地への戦力投射に欠かせない大型揚陸艦といった高度な軍事技術と多額の資金を必要とする、「軍事大国」を象徴する装備を維持している。フランス空軍も、小規模ながら核巡航ミサイル攻撃を専門とする戦略空軍を保持している。海軍と空軍に配備されている核戦力は、大統領の直接指揮下にあり、核兵器の使用権は大統領が専有する。
フランスでは、歴史的に徴兵制を採用しており、憲法で「国防のために課せられる身体、財産による市民の負担は法律で定める」と規定したうえで、1965年の「国民役務法」によって満18歳から50歳までの男子に国民役務(兵役、国の施設の防護、技術援助など)の義務を課していた。しかし、冷戦終結後、地域紛争の増大により部隊の緊急展開・軽機動化が求められ、兵員削減の必要が高まったこと、専門的な技能が要求される平和維持活動への効果的な対応という観点から職業軍隊への転換が課題となってきたことなどを受けて、政府は1996年2月に徴兵制廃止の方針を表明した。1997年には新規徴兵事務が停止され、段階的に徴兵制を廃止する計画を開始するとともに、これまでの徴兵制にかわる志願制役務制度を新設した。この役務には国際協力活動、人道援助活動などへの参加が含まれている。2001年、最後の徴兵が軍を離れ、フランスは志願兵制への移行を完了した。しかし、2018年「ロシアの脅威」や、たび重なる国内でのテロ攻撃に直面して、大統領は徴兵制の再開を宣言した。
2009年には43年ぶりにNATOの軍事機構に復帰した。フランス軍は、長らく陸軍、海軍、空軍、国家憲兵隊の4軍種で構成されてきたが、2016年、テロへの対応を強化するため、1872年に廃止されて以来145年ぶりに民兵の一種である国民衛兵Garde nationaleが、有事に軍や憲兵隊、警察を補助する組織として再建され、五つ目の軍種に位置づけられた。
[亀野邁夫・鈴木 滋・山本一寛 2019年1月21日]
ドイツ連邦軍は、陸軍、空軍、海軍、統合後方支援軍、統合医療業務軍、サイバー軍の6軍種によって構成されている。戦前のナチス政権時代の反省から、ドイツ連邦軍は、連邦議会、連邦首相、国防相による厳格な文民統制のもとに置かれている。とくに連邦議会による統制は徹底しており、国防予算は毎年の連邦議会による承認を必要とし、海外派兵も連邦議会による事前の承認を必要とする。また国防委員会や国防受託者制度(Wehrbeauftragter)を通じてドイツ連邦軍に対する強力な監査権限をもつ。以前は徴兵制を採用していたが、2011年以降、徴兵を中止しており、現在は志願兵制をとっている。集団的自衛権を行使する法的根拠として北大西洋条約機構(NATO)に加盟している。ドイツは非核兵器保有国であるが、ニュークリア・シェアリング(核兵器の共有)を通じてアメリカの核兵器を国内に配備し核抑止力としている。ドイツ連邦軍は、冷戦の終結とドイツ統合の後、急速にその規模を縮小し、冷戦時代の兵力50万人規模から2010年代には20万人を下回る規模にまで縮小された。
第二次世界大戦後、旧西ドイツでは1949年に基本法(憲法)が制定され、再軍備の基礎が形づくられた。さらに1955年の基本法改正で第二次世界大戦後初めての正規軍が設けられた。同年には国防省が設置され、1955年から1956年にかけて志願兵法、軍人法が成立した。議会は、これらを含めて20に及ぶ国防関係法を制定し、国防態勢を着々と整備した。なかでも、政治の優位の確立と「制服を着た市民」である軍人の権利保障に重点が置かれていた。1955年5月にはNATO加盟が認められ、西欧安全保障体制に組み込まれることになった。
1990年10月のドイツ統一によって、異なる政治体制のもとにあった東西ドイツ両軍の統合という問題が浮上した。もっとも、統一は実質的に西ドイツによる東ドイツの吸収という形で行われた。東ドイツ国防省は、すでに統一前の段階で解消されており、国防組織の崩壊にみられる東ドイツの国家破綻(はたん)と西ドイツの政治的優位は明らかであった。結果的に、統一ドイツの政治・行政システムは、旧西ドイツの制度をそのまま引き継ぐ形となった。そのため、軍制についても、従来と比べて骨格となる部分に大きな変化はみられない。
ドイツ基本法は、軍に対する元首の最高司令権を否定している。すなわち、大統領は軍の名義上の長であり、指揮権をもたない。文官、軍人の任免を行い、戦争の宣言をするなど形式的な権限を有するにとどまる。基本法上、軍に対する命令権および指揮権を有するのは、平時においては連邦国防相であるが、防衛事態(戦時)には、これらの権限は連邦首相に移行する。軍は、行政権の一部として統合され、平時は連邦国防省のもとに軍政、軍令が一元化されているが、戦時には連邦首相の管理下に置かれることになる。連邦首相および連邦国防相は連邦議会に対して責任を負う。したがって、軍は戦時、平時を問わず連邦議会の統制下に置かれる(政治の優位)。基本法は、連邦が国防のために軍隊を設けると定め、その勢力および組織の大綱は予算によって明確にされねばならないとする。これも、立法権、予算制定権を有する議会による軍の統制を確保する一例である。防衛事態の確認は連邦議会が行い、大統領が国際法上の宣言を行う。議会には国防委員会が置かれ、軍人の基本権保護および議会による統制の補助のために国防受託者制度が設けられている。連邦議会が機能しないときは両院の合同委員会がこれにかわる。
連邦政府に、国防政策および国防基本計画調整のための閣僚会議として、首相を議長とするドイツ連邦安全保障会議が置かれる。常任の構成員は首相、連邦首相府長官(日本の官房長官に相当)、蔵相、内相、外相、経済・エネルギー相、司法・消費者保護相、国防相、経済協力・開発相、の9人である。国防相は、連邦議会対応など政務を補佐する政務次官(2人)、国防省の文民部門の運営を補佐する事務次官(2人)、軍事部門について補佐する連邦軍総監より専門的助言を受ける。また、これら、国防相、政務次官、事務次官、連邦軍総監で国防機構の指導部を形成する。連邦国防省は、軍事部門と文民部門に分けられる。軍事部門は、連邦軍総監部、陸軍、空軍、海軍、統合後方支援軍、統合医療業務軍、サイバー軍などから構成される。文民部門は、予算局、人事局、法務局、装備局、インフラ・環境保護局、会計監査局、装備局、サイバー・情報技術局などからなる。軍指導部の付属機関として計画部、広報・報道部および組織・内部監査部が置かれている。連邦軍総監は、国防相と連邦政府の軍事顧問であるとともに、連邦軍軍人の最上位者であり、かつ参謀総長である。2012年以降、陸軍、空軍、海軍、統合後方支援軍、統合医療業務軍、サイバー軍の各総監は、連邦軍総監の指揮下にある。
ドイツ連邦軍は、戦力部門と組織部門に分かれている。戦力部門には、前線で戦闘を担当する部隊である陸軍、空軍、海軍が、組織部門には、後方支援やインフラ管理を担当する統合後方支援軍、統合医療業務軍、サイバー軍が属する。統合後方支援軍は、2000年に、陸、空、海3軍の後方支援部隊を統合して生まれ、統合医療業務軍とサイバー軍は、2016年に創設された。ドイツ陸軍は、司令部である陸軍コマンドのもと3個師団とドイツ・フランス合同旅団を指揮下に置いており、兵力は2018年の時点で約6万人である。ドイツ空軍は、司令部である空軍コマンドのもと、ドイツ領空を南北二つの空域に分け、24時間、防空監視任務についている。三つの飛行師団を維持しており、2018年の時点で約3万人の人員を有する。ドイツ海軍は、海軍コマンドを司令部とし、水上艦と潜水艦からなる2個戦隊と1個航空部隊などからなり、2018年の時点で約1万5000人の人員を有する。冷戦時代の主たる任務であったバルト海、北海の沿岸防衛よりも、NATO域外における対テロ活動、海賊対処、人道支援、災害救助といった任務の比重が高くなっている。
これらドイツ連邦軍部隊は、ドイツのNATOへの貢献とヨーロッパの一員であることの象徴として、また、ナチス政権下のドイツのような軍事的野心をもたないことの証(あかし)として、その大部分がNATOの指揮下に置かれており、ドイツ連邦政府による直接の指揮下にはない。平時においても、NATO司令部は作戦計画、軍の配備などに関する権限を有するが、戦時にはドイツ連邦軍の軍事作戦計画と遂行もNATO司令部の責任となる。冷戦時代に編成されたドイツ・フランス合同旅団に加えて、1994年にオランダ軍との間でも合同部隊を編成した。ドイツのミュンスターに司令部を置く第一ドイツ・オランダ軍団は、両国から供出された各1個師団規模の部隊で構成されており、NATO即応部隊に指定されている。このほかにもドイツ連邦軍は、ポーランドのシュチェチンの北東多国籍軍団、フランスのストラスブールのユーロコー(ヨーロッパ合同軍Eurocorps)にも部隊を供出している。
1996年に国防省が議会に提出した報告書を端緒として、ドイツ連邦軍の編制は冷戦後の新たな脅威への対応を見据えた形に変化した。それは、戦闘部隊を基幹防衛部隊と危機対応部隊とに分割再編したことである。前者がドイツおよびNATO領域の防衛にあたることを任務とし、従来からドイツ連邦軍に与えられてきた役割を基本的に継承しているのに対し、後者は、国連平和維持活動への参加や続発する地域紛争への対応を任務としており、即応性の高い緊急展開部隊として新たに編成された。3軍全体で危機対応部隊に指定された部隊の要員は、延べ5万3000人余りに上った。
2009年より、ふたたびドイツ連邦軍を包括的に改革するための検討が開始された。その一環として2011年に発表された防衛政策ガイドラインは、ドイツ連邦軍が直面する課題について新たな認識を示した。この報告書は想定される脅威やリスクについて、ドイツの領域に対して直接軍事的脅威が及ぶ可能性は低く、これからはヨーロッパ域外における不安定要因がドイツにとっての主要なリスクとなるとの判断を示し、具体的に、内戦、テロ、独裁国家、犯罪ネットワーク、自然災害、移民問題などに言及した。2011年から2012年にかけての一連のドイツ連邦軍改革には、徴兵制の停止と志願兵制への移行、2011年国防政策ガイドラインに沿ったドイツ連邦軍の任務と能力の再定義、ドイツ連邦軍の総兵力を18万5000人に削減、統合医療業務軍の全面的な再編成、サイバー軍の創設などが含まれる。2014年のロシアによるクリミア併合など高まる「ロシアの脅威」に直面し、ドイツ連邦政府は国防費の増額を検討している。
ドイツでは1957年より長らく行われてきた徴兵制が、2011年に停止された。ドイツ基本法には満18歳以上の男子に兵役を義務づける条項がある。徴兵制に関連した法令としては、1956年に制定された「義務兵役法」がある。なお、ドイツ基本法は、良心的兵役拒否についても定めており、徴兵拒否率は年々上昇していた。国防省の統計では、1994年に30%を超える高率に達した。このような動きを受けて、徴兵期間は冷戦期の18か月から統一後は12か月、1996年からは10か月に短縮されたが、2011年、徴兵が停止された時には6か月にまで短縮されていた。
軍事司法については、ドイツ基本法は軍による裁判権を認めず、軍人の犯罪および権利擁護については司法権の管轄であるとする。すなわち、軍刑事裁判所は連邦裁判所としてのみ設置される。軍刑事裁判所は、戦時にのみ、および在外または軍艦上の軍人に対してのみ刑事裁判権を行使することができるが、現在は設置されていない。
[亀野邁夫・鈴木 滋・山本一寛 2019年1月21日]
ソ連軍は、地上軍(陸軍)、海軍、空軍、防空軍、戦略ロケット軍の5軍種によって構成されていた。制度上はソ連の議会である最高会議がソ連軍を統制する権限を有していたが、実際は、ソ連共産党書記長を頂点とするソ連共産党によって厳格に統制されていた。徴兵制を採用し18歳以上のすべての男子に兵役を課していた。集団的自衛権を行使する法的根拠としてワルシャワ条約機構(1991年に解体)の一員であった。海軍、空軍、戦略ロケット軍に配備された数万発の核弾頭が核抑止力の中核であった。
ソ連では最高国家権力機構であるソ連邦最高会議が軍事全般に関する最高指導権を掌握していた。1977年の憲法では、ソ連邦最高会議幹部会がソ連邦国防会議を設置し、その構成員を承認し、ソ連軍の最高統帥部を任命すると定められていた。最高会議幹部会の下にソ連邦大臣(閣僚)会議が置かれ、これに国防省が所属する。大臣会議の一員である国防相(軍人)が隷下の各軍を指揮、統制する。国防相は最高軍事会議に補佐される。同会議は、通常、各軍種の司令官、各軍政治本部長、参謀総長および国防省総監察部長からなる集団指導のための諮問機関である。各軍種、軍管区、艦隊などには、集団として意思を決定し、部隊を指導する軍事会議が置かれた。また国防会議は、戦争計画に関して最高責任を有する軍事および経済の計画担当機関であった。
このように、ソ連ではソ連邦最高会議を頂点とする軍事制度が確立していたが、実際には以下のごとく、軍は共産党の厳格な統制下にあった。すなわち、軍事政策などの重要な事項は党中央委員会で決定される。軍の事実上の総司令官は党書記長であったといわれる。軍における党の最高統制機関は、党中央委員会軍事部に属する陸海軍政治総本部である(国防省には属さない)。政治総本部の下部組織として各軍種、軍管区、艦隊および防衛地区に党政治本部が置かれ、軍団、師団、旅団などに党政治部が置かれる。これらに配属される政治将校が政治指導を行う。政治総本部以下の任務は軍の政治活動について司令官を補佐することであり、統帥権にかかわるものではない。この意味では、司令官の下に軍政、軍令両事項が集中され、一元指揮制の原則が守られていたが、現実には師団以下の政治部の長は軍管区等の軍事会議の構成員として指揮系統に連なっていた。また、国防相以下、参謀総長、軍種総司令官等は党中央委員会に属し、ソ連軍兵士の80%以上が党員または共産主義青年同盟員であった。
ソ連軍の軍種は、地上軍、海軍、空軍、防空軍、戦略ロケット軍の5種で、各軍種は国防省および隷下の参謀本部によって中央集権的指揮を受けていた。ソ連の国土は軍管区(16)と防空管区(12)に区分され、海軍は作戦単位として4個の艦隊に分けられる。軍事作戦命令は、参謀本部から、軍管区司令官、艦隊司令官、戦略ロケット軍総司令部、防空軍総司令部などに直接下される。ソ連には、以上の5軍種のほか、大臣会議所属の国家保安委員会(KGB)の指揮下に国境警備隊があり、内務省には内務保安部隊が置かれていた。
兵役については、1977年の憲法で普通兵役義務制が施され、軍務に服することはソ連市民の名誉ある義務であるとされていた。1939年の兵役法(1967年改正)は18歳以上のすべての男子に軍務に服する義務を課していた。また憲法は、軍法会議を一般裁判所と等しくソ連の司法機関であるとし、軍法会議の裁判官は最高会議幹部会によって5年の任期で選出されると定めていた。
[亀野邁夫・鈴木 滋・山本一寛 2019年1月21日]
ロシア連邦軍は、地上軍(陸軍)、海軍、航空宇宙軍の3軍種と独立兵科である戦略ミサイル軍、空挺(くうてい)軍より構成されている。ロシア連邦大統領を最高指揮官とし国防予算はロシア連邦議会の承認を必要とする。徴兵制と志願兵制を組み合わせた兵役制度をとっている。ソ連時代から大幅に削減されたものの、海軍と航空宇宙軍に配備された核兵器により核抑止力を維持している。伝統的な「陸軍国」であるが、厳しい財政状況から十分な通常戦力を整備することができず、抑止力としては核兵器への依存度が高い。2014年のクリミア半島併合に象徴されるように、周辺の旧ソ連邦諸国に対するさまざまな介入がヨーロッパ諸国を中心に強い警戒心をよんでいる。
1991年8月の保守派クーデター失敗に端を発した共産党支配の終焉(しゅうえん)や、同年9月から12月にかけて起こったバルト三国、ウクライナの独立によって、連邦国家としてのソ連は実質的に解体し、同年12月8日にはロシア、ウクライナ、ベラルーシがソビエト連邦の消滅と独立国家共同体(CIS)の創設を正式に決定した。CISへの移行に伴う旧ソ連軍の再編という課題は、当初CIS合同軍の創設という方向で検討された。CIS創設協定には核兵器の統一管理が盛り込まれ、同年12月21日に旧ソ連構成国(ジョージア、バルト三国を除く)が調印したアルマ・アタ宣言、さらに同月30日に開かれたミンスクでのCIS首脳会議でも戦略軍の合同司令部設置、核兵器の統一管理が合意された。
このように、戦略部隊(核兵器運用部隊)についてはソ連時代と同じく統合運用に向けた合意が整ったが、通常戦力部隊については、ウクライナなど数か国が統合に反対する姿勢を崩さず、CIS合同軍の創設交渉は難航した。1992年1月にはウクライナとベラルーシが相次いで独自軍の発足に踏み切り、ロシアも同年5月独自軍を創設した。同月のCIS首脳会議において6か国からなる集団安全保障条約が調印され、各国の独自軍によって編制する緩やかな合同軍という構想が検討されたものの、翌1993年6月の6か国国防相会議では、合同軍司令部を「軍事協力のための合同参謀部」に改編することが合意された。この組織改編は、実質上合同軍創設の断念に等しかった。その後、同年12月の国防相会議で合同軍司令部の正式な廃止が決定されるに及んで、構想は破綻せざるをえなかった。
新たに創設されたロシアの国防組織・軍制は政治・社会体制の変化を反映してソ連時代のものとはいくつかの点で異なっている。もっとも大きな変化は、軍に対する指揮命令権が党(ソ連共産党)から国家元首である大統領に移ったことである。ロシア憲法および「ロシア連邦国防法」は、大統領が連邦軍の最高指揮官であることを定める。これは、ロシア連邦軍が社会主義体制における「党の軍隊」から「国家の軍隊」へと変化したことを意味する。また、議会の国防分野における権能について、憲法と連邦国防法は、連邦会議(上院)が戦争状態の布告に関する大統領令を承認し、連邦領域外への軍隊投入に関する問題を解決すること、国家会議(下院)が国防費関連の審議と国防分野の連邦法採択を行うことを定めている。
ロシアにおける国防組織で重要な位置を占めているのは国防省と安全保障会議である。国防省は大統領に直属する。国防相は、最高指揮官である大統領の命令を受け、参謀本部を通じて軍に対する指揮権を行使する。ロシアでは職業軍人が国防相を務めることが多く、2001年3月に初めて文民の国防相が誕生したものの、欧米型のシビリアン・コントロールは制度的に確立されていない。また、参謀総長が国防第一次官を兼務するなど、国防省と参謀本部は組織上混在している面が強く、軍政と軍令が明確に分離されていない。これらは、欧米諸国の軍制とは大きく異なるロシアの特色といえる。1995年には参謀本部を国防省から分離する組織改革案が検討されたが、実現に至らなかった。
一方、安全保障会議は、1992年3月の「安全保障法」公布に基づいて設置された大統領の諮問会議であり、国家安全保障にかかわる諸問題の検討を任務とする。主宰者は大統領で、実質的に国防政策の最高決定機関として機能している。2018年9月の時点で、議長以外の議員は、連邦保安庁(FSB)長官、大統領府長官、国家院(連邦議会下院)議長、環境保護・エコロジー・輸送に関する大統領特別代表、内相、外相、連邦院(連邦議会上院)議長、首相、対外情報庁(SVR)長官、安全保障会議書記、国防相の11人の常任議員とその他20人前後の議員よりなる。安全保障会議には、事務局に安全保障会議書記、第1書記、5人の副書記、4人の書記補のほか、複数の省庁間委員会と科学審議会が設置されている。安全保障会議における組織と人事は、大統領令によって簡単に変えることができるため、頻繁に変更される。2011年の大統領令による省庁間委員会の構成は、経済社会安全委員会、ロシア軍セキュリティ委員会、情報セキュリティ委員会、公安委員会、CIS問題委員会、戦略計画委員会、環境安全委員会の7委員会となっている。科学審議会は、安全保障会議書記を議長とし、ロシア科学アカデミー、科学アカデミー支部、科学研究機関や高等教育機関の長、個人の資格の科学者より構成されている。
ロシア連邦軍の編制は、発足当初はおおむね旧ソ連軍のそれを引き継ぎ、国防省管轄下の地上軍、海軍、空軍、防空軍、戦略ロケット軍の5軍種から構成されていたが、その後大幅な軍組織の改革が進められた。政府は、1997年に戦略ロケット軍とミサイル防衛部隊(防空軍所属)の統合、空軍と防空軍の統合などを含む長期的な軍改革案を発表した。改革の最終目的は、防空軍廃止による地上軍、航空・宇宙軍、海軍3軍制への移行であった。改革案の発表を受けて、1998年に防空軍が空軍に編入された結果、ロシア連邦軍は4軍種へ再編された。2000年には戦略ミサイル軍(1997年11月、戦略ロケット軍から改編)の廃止が議論されたが、安全保障会議は当面存続させることを決定した。なお、これらの軍種に加えて、準軍隊的な組織として、FSB管轄下の国境警備隊、連邦国家親衛軍、連邦警護庁、民間防衛部隊などがある。軍管区はソ連時代には16個あったが、現在では4個に再編されている。
ロシアは、ソ連時代と同じく徴兵制を採用している。憲法および連邦国防法は、祖国防衛を市民の責務とし、連邦法に従って兵役に服することを規定している。兵役義務について具体的に定めた連邦法は、1993年2月に公布された「兵役義務および軍勤務法」であり、18歳から27歳までの男子に12か月の兵役に服する義務を課している。この法律は、基本的には旧ソ連における徴兵制の根拠であった「一般兵役義務法」を踏襲しているが、大きく異なる点として、志願兵制の一種である契約勤務制度を導入したこと、兵役期間を大幅に短縮したこと、兵役にかわる代替役務制度を新設したことなどがあげられる(代替役務制度については憲法でも定めている)。契約勤務制度は、徴兵期間が終了した下士官・兵から、契約により勤務期間を3年延長する者を選抜する制度であり、ロシア連邦軍の「プロフェッショナル化」を促進するとともに即応態勢を高めることが期待されている。2015年度に初めて契約軍人の数が徴兵を上回った。ロシア連邦国防省は、今後も契約軍人を増やしていく意向である。
アフガニスタン侵攻の泥沼化で厭戦(えんせん)気分が社会全体に広がったことなどで、ロシアではすでにソ連時代から徴兵拒否率が高まっていた。兵役義務および軍勤務法の制定は、そのようなロシア社会と国民への政治的な配慮と、深刻な問題となっていた兵員充足率低下への効果的な対策という二つの目的を満たすためのものであった。しかし、兵員不足は容易に解消されず、1995年4月、陸軍の兵役期間を6か月延長する修正法案が採択されるに至った。翌1996年5月には2000年までに徴兵制を廃止する大統領令が公布されたが、当初から大統領選挙をにらんだ政治的思惑が指摘されていた。また、職業軍隊を維持するうえで必要となる財源の裏づけが政府にないこともあって、実現を疑問視する声が強かった。
ロシアでは徴兵制がその後も維持されてきたが、2017年、ロシア連邦大統領は、段階的な徴兵制の廃止について言及した。
ロシア連邦軍は、2010年、6個に分かれていた軍管区を西部、中央、南部、東部の4軍管区に再編し、各軍管区に司令部となる統合戦略コマンドを設置した。この新しい統合戦略コマンドを率いる軍管区司令官は、域内のすべてのロシア連邦軍を統合運用する。2014年に改訂された「ロシア連邦軍事ドクトリン」では、冷戦時代に想定されたような大規模な戦争が勃発(ぼっぱつ)する蓋然(がいぜん)性は低いとの認識を確認したうえで、NATO加盟国の東方への拡大やNATOの兵力、軍事インフラがロシアの西部国境に接近してきていることに警戒感を示した。とくにロシアの核抑止力を無力化させかねないMD(弾道ミサイル防衛)システムの配備が、ルーマニア、ポーランドで計画されていることに対して神経質な反応を示した。財政難で通常兵器の更新が進まないことから、これからも核戦争、通常兵器による戦争の双方を抑止する手段として、十分な水準の核抑止力を維持することに強い決意を示した。
[亀野邁夫・鈴木 滋・山本一寛 2019年1月21日]
中華人民共和国の軍事力は、人民解放軍、人民武装警察部隊(武警)、民兵より構成されている。主力の人民解放軍は、陸軍、海軍、空軍とロケット軍の4軍種よりなる。中国共産党中央軍事委員会主席を長とする中国共産党中央軍事委員会の指導下にある。徴兵制と志願兵制を組み合わせた兵役制度を採用し、ロケット軍、海軍を中心とした核抑止力を維持している。日本や欧米では、冷戦の終結以降、国防費を大幅に削減してきたが、中国では逆に、1990年代から、その経済発展にあわせるように急速なペースで国防費を増加させてきた。南シナ海、東シナ海への急速な海洋進出は、周辺国の警戒を引き起こしている。
1949年に中華人民共和国が成立して以来、軍事制度は何度か改革されたが、その間一貫して問題となったのは「党の軍隊」か「国家の軍隊」かという点であった。中国人民解放軍の前身の中国工農紅軍は農民の自衛的武装組織として1920年代に出現したが、一方では共産党の指導を受ける「党軍」としての性格をもあわせもっていた。
建国後の1954年9月の憲法第42条で、国家主席が全国の「武装力」(軍事力)を統率し、国防委員会主席の任につくとされ、軍の統帥権を国家主席が掌握することとなった。同時に国務院の下に国防部が置かれ、動員、兵役、復員および軍事力の整備などの軍政事項を担当するとされた。軍令事項は別に設けられた人民解放軍各総部が担当した。1954年当時5個であった各総部はのちに整理統合され、「総参謀部」、「総政治部」、「総後勤部」、「総装備部(1998年4月新設)」の「四総部」が軍令事務だけでなく、国防部から委任された軍政事務をも行っていた。
1975年憲法では国家主席と国防委員会が廃止され、中国共産党中央軍事委員会主席(党主席が就任)が軍隊を統率するとされ、人民解放軍は戦闘隊であり工作隊であり、かつ生産隊であると定められた。国防軍から党軍すなわち革命のための軍隊としての性格が強調されたといえる。党中央軍事委員会は軍隊内の党組織であり、開戦、停戦、長期戦略計画、作戦・訓練計画、政治工作などについての最高政策決定機関である。政策の実施は党中央委員会政治局の決定に基づいて党中央軍事委員会が行うとされた。実施機関として前述の党中央軍事委員会直属の総参謀部、総政治部、総後勤部および総装備部があり、それぞれ「作戦・編制・動員・情報」「軍の組織と思想工作」「兵站」「調達・兵器研究開発」を担うとされた。このように軍令と多くの軍政機能が、党中央軍事委員会の下に置かれたため、中国の国防部は正式な中央政府の1機関でありながら、他国の国防省と違い、編成、装備の研究開発、広報、軍事交流などの限られた権限しかもたない。
1982年12月に第5期全国人民代表大会(全人代)第5回会議で採択された新憲法では、国家主席が復活し、新たに国家中央軍事委員会が設置され、全国の武装力を指導すると定められた。また、国防部はそれまでどおり国務院の下に置かれ、武装力建設を指導、管理するものとされた。これにより人民解放軍の正規軍化、すなわち党軍(革命軍)から国防軍への転換が図られつつあると思われるが、同年の党新規約では党に中央軍事委員会を置く旨規定された。党中央軍事委員会の構成員は同時に国家中央軍事委員会の構成員となることができるため、党中央が軍を指導するという制度は依然として堅持されている。
このように、中国では軍制についておもに憲法で定めていたが、政治・社会全般にわたって法治主義が進展するのに伴って、国防組織・軍制の骨格を定める法令の整備が冷戦後の新たな課題として検討されるようになった。1997年3月に制定された「国防法」は、軍隊に対する党主導の原則、党・国家中央軍事委員会の軍事指揮権などを規定し、従来は憲法や条例・命令、党幹部の見解などに基づいて運用されてきた軍制の根幹を明確に法制化した。また、国防法は、それまでかならずしも明らかにされてこなかった国務院(国防部)や中央軍事委員会など国家軍事機構の任務・権限についても規定している。
人民解放軍は、陸軍、海軍、空軍、ロケット軍(旧第二砲兵)の4軍種からなる。陸軍は、100万人を超える規模の兵力を維持しておりインドに次いで世界第2位である。1985年以降、人員を削減し装備の近代化に資金を振り向けてきたが、この傾向は続くと思われ、近い将来、100万人を下回ると考えられている。海軍は、21世紀に入り著しい拡張をみせている。北海、東海、南海の3艦隊のほか、海軍航空兵と海軍歩兵(海兵隊)を指揮下に置く。空母の導入など沿岸防衛の海軍から遠洋での作戦能力をもつ「外洋海軍」への脱皮を加速させている。空軍は、3000機近い作戦用航空機を保有し規模においてはアメリカに次ぐが、質的な面では発展途上といわれている。空挺部隊を指揮下に置いている。ロシアからの最新鋭機の輸入やライセンス生産を通じて着実に質的にも向上している。ロケット軍は、2015年に「第二砲兵」から名称変更され誕生した。核弾道ミサイルの運用が任務の中心で中国の核抑止力の中核である。
中国は、冷戦後各国が国防予算の削減と地域紛争への対応を目的とした部隊再編のため、兵員の削減を進めていることを受けて、1997年から50万人削減計画を開始した。しかし、計画の進捗(しんちょく)ははかばかしくなく、政府は1999年6月に計画実行状況の検査監督、計画実施にかかわる賞罰などを規定した「中国軍組織編成管理条例」を公布して、計画の促進に努めた。なお、解放軍のほか、中国における「人民武装力量(中国におけるあらゆる軍事力の合計)」を構成する準軍隊的組織として、人民武装警察部隊および民兵がある。
2015年以降、中国共産党指導部は大規模な人民解放軍の改革に取り組んでいる。2015年12月には、陸軍総司令部となる「陸軍指導機構」の創設、第二砲兵の「ロケット軍」への昇格、宇宙・サイバー・情報部門を管轄する「戦略支援部隊」の新設が行われた。翌2016年には、長い間、中国の軍令、軍政をともに担ってきた「四総部」が解体され、新たな統合司令部となる「統合参謀部」を中心に、「訓練管理部」「国防動員部」「政治工作部」「後勤保障部」「装備発展部」など15部門に分割された。また、それまでの「七大軍区」も廃止され、統合運用の管轄範囲として東部、南部、西部、北部、中部の「五大戦区」に再編成された。中国共産党指導部は、統合作戦能力の向上、より実践的な人民解放軍の建設を目標に軍改革を進めると思われる。
中国の兵役制度は1955年の「兵役法」公布により確立された。その規定によれば、満18歳の男子はすべて兵役の義務に服するとされる。また、中国では正規軍である人民解放軍の後備兵力としての民兵制度が設けられており、18歳から35歳までの男子が任務に服する。民兵には普通民兵と基幹民兵(一部が武装化)がある。人民解放軍の階級制度は1965年にいったん廃止されたが、その後も職制上の等級および指揮員(将校)と戦闘員(下士官、兵士)の区別は残され、1984年には軍近代化の一環として階級制度が復活した。1978年、中央軍事委員会主席であった鄧小平(とうしょうへい)の提案をきっかけに人民解放軍は、徴兵と志願兵を組み合わせた兵役制度に変更され、徴兵期間を終えた者のなかから希望者を志願兵として採用するようになった。1984年には、階級制度の復活に加え兵役適齢年限の短縮や民兵の法的位置づけなどを骨子とする兵役法改正草案が公表され、同年10月より施行された。この改正により兵役制度は「義務兵役制度を主体とし義務兵(徴兵)と志願兵を組み合わせた」制度へと変更された。その後も兵役法は改正されており、1998年から翌1999年にかけて行われた改革では、「義務兵役制度を主体とし」の文言が削除された。制度上は、徴兵制度も存在するが、実際は、志願兵のみで十分な兵力量を確保可能であり徴兵はほとんど行われないとされている。2011年にも兵役制度の一部改正が行われたが、冷戦の終結以降の中国の兵役制度の改革は、兵器や戦争のハイテク化に伴い、それまでの農村出身の義務教育修了程度の男性の募集から、大学生を含め高等教育を受けた者へ募集の中心を移している。同時に軍隊のプロフェッショナル化を推進するために大規模な下士官の待遇改善も行われている。
[亀野邁夫・鈴木 滋・山本一寛 2019年1月21日]
一般に一国の,あるいは近代以前においては王朝,幕府等の支配機構のなかの軍事のあり方に関するいっさいの制度をいう。軍制の基礎は,軍を編成しこれを維持・管理する軍政と軍を統一された意志によって指揮命令して運用する軍令(統帥)と軍の構成員に対して特別の服従義務を要求する軍事司法制度である。軍制は支配機構のもっとも基本的な属性の一つであるが,その歴史的なあり方は,それぞれの国際的環境,社会構造,技術水準などに規定されており一様ではない。以下,主要地域の軍制の歴史とその展開を見る。
日本では西暦紀元前後の弥生時代から,階級社会の形成にともなって集団間の戦闘が著しくなるが,この時期には組織的・恒常的な武装集団は未成熟であった。3世紀末以後,古墳時代に入って各地に有力な首長が台頭し,4~5世紀には畿内に基盤をもつ大和政権が,それらの首長を服属せしめるようになった。大和政権は周辺の中小豪族を伴(とも)として朝廷の職務を分掌せしめたが,そのなかには門守(かどもり)として朝廷守衛の任にあたる建部(たけるべ)等の諸氏があった。伴の組織が発展すると伴を統轄する伴造(とものみやつこ)が生まれ,大伴(おおとも)氏,物部(もののべ)氏等が武門の伴造として台頭した。大和政権から異民族視された隼人(はやと),蝦夷(えみし)などの武力は,朝廷の機構のなかでそれほど大きな位置を占めるものではなかった。5世紀末~6世紀になると東国首長層の子弟で,天皇側近にあって宿直・警衛の任にあたる舎人(とねり)や,武器を帯して朝廷の警備にあたる靫負(ゆげい)が現れ,旧来の伴としての門守の諸氏も,百済の部司制を模した品部制のもとで門部(かどべ)に再編成された。他方5世紀末以後の朝鮮に対する軍事行動には,おもに西日本の首長層がそれぞれの配下の兵をひきいて参加したが,6世紀末~7世紀にはこれらの外征軍も,首長層の支配する領域ごとにいわゆる国造軍に編成され,組織化されたと考えられる。
7世紀中葉の大化改新以後,中央集権国家建設の事業が進められ,8世紀初めには中国にならった日本の律令国家の体制が完成する。律令制のもとでは全人民が戸籍を通じて国家に掌握され,役務の一つとして成年男子のなかから徴発された兵士(ひようじ)が軍団に勤務した。これは当時の東アジア情勢の緊迫に対処して,国家的な常備軍の編成を目ざしたものと考えられる。軍団兵士の一部は衛士(えじ)として中央の宮城・京師の警備にあたり,またおもに東国の兵士のなかから九州の辺防にあたる防人(さきもり)が遣わされた。宮城警備のためには衛門府・左右衛士府・左右兵衛府の五衛府が置かれ,衛門府では門部・衛士,衛士府では衛士,兵衛府では兵衛が武力の主体を形成した。このうち門部は旧来の伴の伝統をつぐもので,負名氏(なおいのうじ)と呼ばれる特定の氏族が代々宮城門の警衛にあたった。また兵衛も旧来の舎人の武力的性格を継承するもので,地方豪族や下級官人の子弟が採用された。このほか,朝廷に出仕する隼人を管理する隼人司,馬匹,兵器の管理にあたる左右馬寮(めりよう)・左右兵庫・内兵庫等の諸司があった。武官の名帳・考選,全国の兵士・兵器・城・烽等の管理にあたる兵部省にも,兵馬司・造兵司・鼓吹司・主船司・主鷹司等が付属していた。
律令兵制は,8世紀を通じて機能した。軍団兵士が対外戦争に動員されることはなかったが,東北地方の蝦夷の征討や,藤原広嗣の乱(740),恵美押勝の乱(764)などには,その武力が駆使されている。しかし膨大な常備軍を維持することには多くの困難があり,ことに8世紀後半以後,農村の階層分化が進み,有力農民が台頭する一方で貧窮な農民がそれに隷属するようになると,兵士の弱体化,国司や軍団指揮官による兵士の私的な駆使などの動きが著しくなった。東アジアの国家間の緊張した関係が弛緩したこともあって,桓武天皇の792年(延暦11)辺要を除いて軍団兵士制は廃止され,地方豪族の子弟による国衙守備兵としての健児(こんでい)がこれに代わり,国家としての常備軍体制は放棄された。一方中央では8世紀を通じて政界内部の権力闘争が激しく,それに応じて授刀舎人寮(707),それを継承したと思われる中衛府(728),授刀衛(759。のち近衛府)などの衛府の新設が続き,恵美押勝乱後の765年(天平神護1)には,旧来の五衛府の上に近衛府・中衛府・外衛府の三衛を置く体制が成立した。これら新設の衛府の武力の主体は地方豪族などの子弟からなる舎人であって,これらの衛府の新設は農民である衛士の弱体化に対処するという性格をも有していた。衛府はその後9世紀初頭にいたって,左右近衛府・左右衛門府・左右兵衛府の六衛府となって制度的に安定する。
9世紀以降,中央では院宮王臣家と呼ばれる特権的な皇族・貴族層が形成された。彼らは院人・家人などの私的武力を有し,これに対応して宮廷でも天皇の守衛にあたる蔵人所の滝口の武者,上皇の院武者所(いんのむしやどころ),皇太子の帯刀(たちはき)などの武者が侍するようになった。京都の治安維持は衛門府官人を中核とする検非違使(けびいし)が担当したが,地方の争乱にあたっては官符を諸国に発して国内の兵を動員し,中央から派遣された官人がそれを指揮する体制がとられた。また地方の有力な豪族が追捕使(ついぶし),押領使(おうりようし)などに任命されて,治安の維持にあたった。
11世紀ごろから国司が国内武力の組織化をはかる動きが強まり,武力をもって国家に奉仕する身分としての武士が現れ,源氏・平氏が武門の棟梁として台頭するようになった。
執筆者:笹山 晴生
院政期には国衙に譜代図がおかれ,武士身分の決定が国衙との関連でなされるようになり,軍事はおもに弓射騎兵の武士身分の者の事業となった。地方の武士は日常的に国庁・国司館の結番警固に当たり,一宮の頭役などを務めたが,反乱事件が起こると官符によって動員される。彼らのなかには中央の権門や源平両氏のような都の武者と私的主従関係をもつ者が少なくなかったが,平氏が覇権を握ると,内裏大番などの番役に地方の有力武士を動員する体制も整えられた。源平争乱期に平氏の要請でおかれた畿内近国の〈総官職〉と〈諸荘園総下司職〉は,平氏政権の軍事政権への脱皮を示すものとして注目される。
1180年(治承4)に挙兵した源頼朝は東国武士を御家人として組織し,旧来の国衙機構を利用しながら実力によって東国政権を作りあげた。この支配は83年(寿永2)の十月宣旨によって公認され,全国平定ののち建久年間(1190-99)に御家人制度も整備され,幕府体制として確立される。鎌倉時代には幕府が国家軍制を担当する唯一の機関となり,国家謀反や反乱の鎮圧をはじめ日常的な京都大番なども,幕府-守護の系統を通して御家人に分担された(大番)。その意味では13世紀末のモンゴル襲来に際して,大和の国人や九州の本所一円地の武士も動員され,守護の配下におかれたことは重要である。しかし鎌倉時代には武士のすべてが御家人となったわけではないし,また畿内・近国などの経済的な先進地ではとくに多くの新興領主が生まれた。北条氏や有力守護は彼らの被官化に努めているが,組織しえたものはわずかで,体制内部に定着されない悪党層が成長し,これが国家制度外の有力な武力の保持者であった大寺社とともに,建武政権を生み出す一つの武力基盤となる。
室町幕府は畿内の新興領主を新たな御家人として組織し,近国の小領主を一揆として編成しようと努め,また戦乱のなかで守護のもとに国内の武士を結集するため半済(はんぜい)や闕所地預置権を認めたので,守護の軍事統率権は著しく進んだ。こうして守護領国への歩みを進める守護を統制するため,15世紀になると幕府は,二十一屋形といわれる多くの守護を京都に常駐させるとともに,外様守護の一族子弟や特定の有力国人領主を,足利氏根本被官とともに奉公衆として将軍親衛軍に編成した。しかし東国の軍事行政権をもつ鎌倉公方をはじめ有力守護の自立化を阻止することはできず,15世紀末には奉公衆の体制も事実上崩壊し,幕府の軍制は実質的には解体していく。足利将軍や守護大名も国人への所領給与に年貢の貫高表示を採用していたが,戦国大名は領国内の差出検地を実施し,軍役の賦課にも貫高を基準とするようになった。彼らは家臣団を一門衆・譜代・外様国衆・旗本馬廻衆などに編成し,寄親(よりおや)・寄子制を採用して軍制を整えた。寄子制は村落支配にも採用され,広く農民層が戦場に動員される。槍と鉄砲の使用がそれを促進し,足軽・野伏と傭兵制が軍制上での新たな問題になる。戦国大名領国においては,軍制が政治の主要なものであった。なお足軽・野伏の登場は南北朝期にさかのぼり,応仁の乱のころからそうした歩卒が組織的に戦場に動員されるが,1491年(延徳3)将軍足利義材の江州出陣に参加した赤松の家臣浦上則宗が率いた軍勢は,馬上55員,歩卒2000人ばかりで,馬上の者も弓矢をもたず甲冑もつけず,ただ太刀を帯するばかりであったという。中世的軍制の基本が変質していったことがわかる。
執筆者:福田 豊彦
武の力によって国内の平和を保ち,外夷を鎮撫する目的で成立した近世軍制の特質の第1は,いっさいの武力が将軍を最高統率者とする国家の軍隊に組織され,その私的な発動が禁止された点にあった。第2は,この軍隊の戦闘力を直接に構成したのは武士であったが,その兵站は農・工・商の国家に対する身分的な義務とされた点である。すなわち近世の諸身分は,それぞれの役割に応じて軍隊を構成し,あるいは支える義務を軍役として課せられたのであり,その義務賦課の規準が石高であった。第3は,軍役は大名家,武士の家,村,職人・町人の仲間などの集団を通じて賦課され,実現されたのであるが,これらの集団は平時にも軍隊の統制の観点から内部の平和を維持する義務を強制された点である。こうして近世の国家は,全国民を包摂したいわば巨大な兵営となり,その行政組織は軍事的動員と兵站のシステムを骨格として形成されることとなった。
以上のような特質をもつ近世の軍制を出現させたのは,軍事技術的には鉄砲とくにその集団的使用とそれに対応した城郭建設の発展であった。鉄砲の集団的使用には,一人の指揮官のもとで訓練,統率される職業的な戦闘集団である足軽組を多数編成することが不可欠であったが,そのためには足軽の日常的な給養源としての大名蔵入地と,作戦行動中に弾薬と兵粮を補給するシステムの新たな創設が必要であった。また堀と石垣に象徴される城郭の建設には多数の人夫,大工・鍛冶・石工などの職人を領国内から動員するシステムが必要であった。こうしたシステムを構築する努力は戦国大名にも見られるが,それ自体が従者と武器・兵粮の補給システムを備えた戦闘集団である在地の土豪的領主を軍隊に編成した戦国大名は,領国全体をシステムに組み込むことはできなかった。鉄砲隊の威力が最初に発揮されたとされる長篠の戦(1575)においても,織田信長は配下の部将から銃手を徴発して鉄砲隊を編成しており,こうしたシステムが建設途上にあったことがわかる。
豊臣秀吉は,検地と兵農分離によって上記のような特質をもつ軍制を創設し,全国土を一つの統制された軍隊とそれを維持するシステムに統合した。城郭には公儀の兵粮・武器・弾薬が用意され,城下町に集住した軍隊は,それによって戦国大名に隔絶した機動力をもち,また長陣が可能となった。秀吉がこうした軍制を創設した大義名分は,天皇の意志を代行する関白として戦国の乱世を治めて国土に平和をもたらすことにあった。1587年(天正15),秀吉は惣無事(和平)令を全国に発し,大名,土豪,村落など諸集団の間の戦闘やけんかを私戦として停止させ,紛争当事者間の理非は秀吉が裁くものとした。この命令に従わない者を国の平和を乱す反逆者として討伐する公儀の軍隊が,秀吉の創設したそれであった。そこでは当然のことながら私戦(最高統率者の命令によらない武力の発動)の禁止を基軸とした統制が貫徹することとなった。兵粮補給システムの確立していない戦国期の戦争につきものであった刈田,兵粮・人夫の徴発,放火などの乱妨狼藉は,軍法によって禁止された。また戦闘員相互の間のけんかは,平時においても両成敗とされた。さらに軍隊を支える役割を公的義務とされた農・工・商の庶民も私戦禁止の対象とされた。1588年の刀狩は,その手段である武器を奪うことによって私戦の能力を剝奪し,紛争を自力で解決できない政治的能力を欠いた被治者として庶民を位置づけるところに,そのねらいがあった。愚民観を基礎とする支配の近世的体質の根源の一つは,ここに求められる。
江戸幕府の軍事力は将軍の近衛隊である旗本を除くと,諸大名のそれによっている。幕府は諸大名を戦争に動員する規準として,軍役の最低人数(時期により異なるが1万石につき300~400人)を定めていた。これは動員期間中,幕府が支給する兵粮米の計算規準でもあり,輜重人夫をも含む数字であった。次に大名家の軍隊は,前橋藩酒井家(12.5万石)の中期の例をあげると,その総人数は約5000人,内馬上の武士は300人,1700人が馬の口取・草履取など武士の従者,1200人が鉄砲,弓,鎗などの足軽,1700人は農民から徴発される輜重要員であった。この人数がそれぞれ独立して行動する備に配属,編成されていたのであるが,この備の大将が家老であった。武士の格は,この編成のどこに位置するかで決定され,それは禄高に応じて従えて出陣する従者の多少によっても表現された。格は泰平の世となるとともに家格として家に固定したが,それはまた藩内の日常行政上の役職とも対応していた。
以上のように,軍制が基礎となって身分や行政組織などの政治制度が形成されていた近世においては,軍制の改変は政治的体制の改変に連なる。幕末,西欧文明の優位が明らかになった時点で,幕府が官僚制的軍隊への全面的軍制改革に踏み切れなかったのは,それが幕府を頂点とする政治的体制の否定に連なったからである。身分と家格に関係なく編成された奇兵隊を中軸とする軍制改革に成功した長州藩に,幕府が敗れたのも故なしとしない。
執筆者:高木 昭作
江戸幕府が重い腰をあげて軍制の近代化に本格的に取り組みはじめたのはアヘン戦争やペリーの来航によって西欧列強の軍事力に衝撃を受けてからのことであり,池田甲斐守や大関肥後守らを海陸の防衛と軍制についての取調べ委員に命じて調査報告を求めた1861年(文久1)以来のことである。軍政取調べ委員は歩兵,騎兵,砲兵の三兵編成,歩兵は重歩兵,軽歩兵,軽騎兵,砲兵,大隊,連隊などにする答申をし,62年6月から実施にかかった。その要員は中級の旗本たちに差し出させる,いわゆる兵賦制であったが,重歩兵の人的資源はしだいに,旗本の家人から士農工商の差別をこえた層に移っていった。
やがて幕府とフランスの関係が強まり,横須賀に製鉄所(造船所)が,横浜にフランス語学校が設けられ,67年(慶応3)にはシャノアーヌCharles S.J.Chanoine(1835-1915)団長ら15名のフランス軍事顧問団が来日,横浜の太田陣屋で(後には江戸)歩,砲,騎の訓練が始められた。一方,顧問団はかなりの数の意見書を幕府に提出,幕府も実行に努めた。しかし68年(明治1)2月には幕末の動乱のため伝習は中止,一行は帰国するがブリューネ大尉など5人は箱館戦争に参加した。
明治政府は70年10月,兵式を陸軍はフランス式,海軍はイギリス式に決定,陸軍のフランス軍事顧問団16名は72年4月,海軍のイギリス軍事顧問団(いわゆるダグラス・ミッション)34名は73年7月に来日した。当初の兵部省は1872年2月,陸軍,海軍2省に分離,それぞれフランス式,イギリス式の軍制を採用した。これ以後,軍制はしだいに整備される。
明治の陸海軍のさまざまな軍の制度のなかで,もっとも中心的な問題は統帥権の独立である。明治初年にはフランス国防組織の伝統である,軍政・軍令の国務大臣責任制を採用したために一元主義であったが,明治10年前後から陸軍はドイツ軍制の影響を受けはじめ,陸軍省は1878年12月,参謀本部を独立させ,統帥権の独立が始まった。海軍では軍政・軍令の両機関は海軍大臣のもとに一元的に集中していたが,86年3月の参謀本部条例の改正によって,陸軍のみの中央軍令機関であった参謀本部は陸海軍統合の中央軍令機関となり,従来陸軍だけに限られていた二元組織が持ち込まれた。しかし海軍では89年3月の海軍参謀本部条例により,再び一元主義にもどり,これ以後は93年5月の海軍大臣と海軍軍令部長間の権限行使手続により一元主義は続けられたが,1933年9月の軍令部令によって,海軍軍令部条例は廃止され,再び分裂する(軍令部)。
明治以後の軍制のなかで,もう一つの重要テーマは軍部大臣現役武官制である。陸軍・海軍省発足当時,両省とも卿(大臣)が欠員であったが,陸軍大輔山県有朋,海軍大輔勝安房はいずれも文官であった。これが現役武官制となった1876年1月の〈陸軍職制及事務章程〉からは現役の武官がなり,89年には再び陸海軍大臣,次官の職務上の身分は文官になる。軍部大臣現役武官制がはっきりと制定されたのは,1900年5月公布の〈改正陸軍省・海軍省官制〉からである。このことは,その後の憲政運営に当たって,威力を発揮する。つまり,どのような政治家であっても,陸軍と海軍の支持が得られない限り陸・海軍大臣の候補者を得ることができず,内閣を組織することができない制度となったからである。軍部が政党と拮抗する巨大な政治勢力に成長し,やがて軍部独走に向かった大きな根元は,統帥権の独立とともにここにあったといわなければなるまい。
明治以後の軍制のなかで,後に大きな禍根を残したものは陸海軍の独立と対立である。この発端は1896年3月の海軍軍令部条例改正であり,これにより陸海軍がそれぞれ独立して天皇に直隷し,統帥は陸海軍二元化することになった。とくに国防計画の陸海軍二元化はその後の陸海軍の軍備拡張競争,つまり軍事予算の争奪戦を激化させ,この対立がこれ以後の政治を大きく左右する。
二元統帥の調整機能として創立されたのが1898年の元帥府で,元帥府に列せられた陸海軍大将は元帥の称号を授けられ,終身現役大将の身分を保持すると定められた。元帥府設置と同時に元帥となった山県有朋,山県の死後の上原勇作,海軍の最長老東郷平八郎の影響力は大きかった。
→海軍 →陸軍
執筆者:篠原 宏
古代の殷・周の都市国家では,戦勝・先住者として政治に参与し官吏になりうる支配民族が士の階級を構成し,戦時に武器をとって従軍する権利をもっていた。被征服者・移住者として農耕に従事する被支配民族が庶の階級をつくり,戦時に役夫として狩り出されることはあったが,武器をとって従軍する権利はなかった。殷では三軍制がしかれたといわれる。都市国家の初期には氏族制度も併存していたので,有力氏族の族長が軍の指揮をとった。春秋時代には戦争の規模が拡大したため,庶の階級からも兵士を徴発し,常時軍隊が召集できるよう兵士を確保組織することを目ざし全国民的徴兵制がしかれ,常備軍設置の端緒となった。軍内でも勲功あるものが地位を向上させるという新秩序が生まれた。戦国時代は領土国家が成立し,騎馬歩兵戦が主力になり,軍隊組織が急に膨張し,各国が強大な常備軍をもったが,指揮官には軍事に精通する専門家を必要としたので,以前の家柄を誇る貴族が司馬と呼ばれて指揮にあたっていたのに代わって,常時軍隊を支配訓練する軍事専門家として将軍職が生まれた。
秦・漢時代はそれまでの傾向を伸張させた軍制をしき,軍隊は禁衛軍(近衛軍または首都防衛軍。衛尉が南軍,中尉執金吾が北軍を統轄)と地方軍(郡国の都尉が統率)と辺防軍(国境守備隊)とがあった。秦の軍政長官は太尉,漢では大将軍。前漢では徴兵制をとり成人男子を正卒として徴発し,約30年の在役中,1年は禁衛軍(約5万人),1年は出身地の郡の警備隊に勤務,他の期間は在郷兵として都試(軍事訓練)を受けつつ本業に従事した。辺防軍は辺境の郡の正卒と募兵で組織したが,武帝以後の外征には募兵のほか蕃兵(異民族兵)や受刑者を動員した。後漢は禁衛軍を5分の1に削減するなど軍隊を縮小し,兵士は光武帝(在位25-57)のときに功労のあった部隊から選抜されて代々兵士になる義務を負った者で構成されたので,成年男子は兵役義務はあるが実役につくことはなく徴兵制が衰微した。辺境防衛は辺境諸郡の徴兵制による兵士と募兵・蕃兵・受刑者があたった。特定の家の成年男子が兵役につくことは,魏の曹操(155-220)の兵戸制へ発展した。兵戸制は,兵士に妻帯して戸を構えさせ,一般庶民と別籍にし永代の兵役義務を負わせたもので,南朝宋まで継承され常備軍の主力を形成した。魏では,禁衛軍は中軍将軍(中領軍),護軍将軍(中護軍)麾下の中軍・外軍からなり,地方軍には種々の称号の将軍(のち都督)を派遣したり,地方有力者に将軍号を与えたりして統制をはかったが,南朝では独立的傾向の強い都督州軍事の下の地方軍と領軍・護軍・都督中外諸軍事の下の中央軍とがあった。兵戸制はしだいに募兵にとってかわられた。北朝では,異民族支配者が自己の種族の兵を国軍の中核にすえ,漢人を臨時補助的兵士として徴募したが,王朝の漢人社会への同化につれて,本族兵の地位が低下した。西魏の宇文泰(505?-556)は,漢人徴募兵を直属させて六柱国・十二大将軍・二十四開府儀同が統率する二十四軍に編成,恒常的に儀同府に統轄し,郡県の戸籍から分離し,賦役を免除した。これらは,当番出動以外は農業に従事する民兵であって,隋・唐の衛・府兵制の起源とされる。
隋は禁衛軍として十二衛を確立,府兵の徴募母体を民戸全体に及ぼし,地方でも軍政民政を分離して軍権の中央直属を強化した。軍府は儀同府や驃騎将軍府と称し,のちに鷹揚府に改め,唐では折衝府と称した。唐は十二衛六率府の制をとり,最盛期には全国に630以上の折衝府が設けられ,兵部のもとに折衝都尉・果毅都尉・別将が長官・副長官・補佐となって訓練,動員,指揮にあたった。府兵は専門的兵士として租庸調を免ぜられ,武器軍馬等を自弁し,首都への上番,辺境への出張(防人)などを義務とした。唐朝は初期から辺境に大軍を駐留させることが多く,ために蕃漢の募兵が使われ,中唐ころには府兵制は軍制の中心から離れ,流民を中心とする職業的傭兵制に変質した。辺防軍も多くの軍鎮にかわっていき,睿宗(えいそう)のとき河西節度使が初めておかれ,各地に地方軍隊の最高統轄機関たる節度使が設けられた。節度使は麾下の中心たる牙軍(いわば旗本軍)を基盤に領内の鎮将たちを統率して軍民財政を支配する藩鎮に成長した。五代諸国も牙軍を基盤に禁軍を組織し,また軍政統轄者は枢密使や侍衛親軍馬歩都指揮使,殿前都指揮使らであった。
宋は藩鎮を解体し,精鋭はすべて禁軍(国軍)に編入した。ときに100万をこす膨大な禁軍によって中央,地方,辺境の軍隊が構成され,軍権は皇帝の手に一元的に集中した。軍政の元締めは枢密院であり,軍隊は三軍(殿前司・侍衛馬軍司・侍衛歩軍司)に分かれ,それぞれ都指揮使・副都指揮使・都虞候らが指揮にあたった。地方の要地に経略使,安撫使など高い肩書の官が置かれたが,これは文官の兼任するものであった。兵士は召募を原則とし,ときには民兵たる郷兵らが活躍したが,禁軍が名実ともに国軍であることに変化はなかった。南宋では水軍が発展した。元朝はモンゴル人重視の軍制をとったが,漢人も軍籍に入れ,軍籍に入った軍戸は一般民戸と区別された。明は元の制度にならい百戸所・千戸所・衛・都司の制をつくり,世襲軍戸を統轄するとともに屯田制を採って兵農一致を目ざした。地方の鎮戍・衛所など統兵機関のほか鎮守総兵官らがおかれ,その上級官として提督・総督・巡撫が設けられた。清は満州族固有の制度をもとに八旗制をしき,中央(禁旅),地方(駐防)とも満州・モンゴル族中心の軍制を立てたが,漢人による緑営をつくり治安維持にあたらせた。支配者の社会における力の衰退とともに八旗制度は崩れ,練軍・団練,郷勇などが召募によって設けられ,外国式訓練・武器によって新軍がつくられたが,軍の運営は総督・巡撫らが旧態のまますすめ,のちに軍閥化した。軍機処が新式軍隊を統轄するようになり,洋式軍隊が設置されるようになって,伝統ある軍政の本部だった兵部は廃止された。
執筆者:衣川 強
オリエントにおける軍制は,それが主として被征服民からの徴募兵ないし傭兵からなっていたことに特徴があり,職能的には大別して戦車部隊・重装歩兵部隊・軽装歩兵部隊に分化していたが,編成も組織も雑然としており,戦いにおいては量で押す行き方が目だっている。ギリシアでは,ポリスの発展に伴い,初めて重装歩兵(ホプリタイ)の密集部隊を中核とし,これに騎兵と軽装歩兵を配した市民軍の発達が見られるが,当初市民の無償奉仕を原則とした市民兵制度も,貨幣経済の進展につれて変質し,ペロポネソス戦争時代からはしだいに有給兵役に移っていき,やがてこれは傭兵によって置きかえられるにいたった。ヘレニズム時代の軍隊も,主として傭兵からなっていた。ローマの軍制も,初めは市民の義務兵役制によったが,前1世紀ごろから傭兵が主となり,無産市民から徴募するのがつねであった。周知のごとくこれらの傭兵が有力な将軍の私兵と化していったことは,ローマ共和政の没落をはやめたものであった。ローマ帝政が成立するにいたって志願兵からなる常備軍制度の確立を見た。当初,常備軍(主としてイタリア人からなる)は,25個師ないし30個師(1個師は歩兵約5000,騎兵若干)からなる正規軍と属州民からなる補助軍,それに皇帝の親衛隊とからなっていたが,3世紀の初め,ローマ市民権が帝国内の全自由民に与えられるにいたり,正規軍と補助軍との区別は消滅した。ローマの軍制は古代末期になると大きく変容している。ローマ帝国国境の不安は,3世紀末のディオクレティアヌス帝以降,師団の増設をうながし,その数は100個師近くにおよんだが,それとともにゲルマン人の侵入に備えるため,ローマ軍にも騎兵隊が設置され,帝国内居住のゲルマン人が騎兵として雇われるにいたった。帝政末期における騎兵隊の重要性は騎兵長官が歩兵長官と対等の地位を占めるに至った事実からも知られる。
→ローマ
執筆者:原 種行
ローマ帝国崩壊後,ゲルマン諸族の支配下に入ったヨーロッパ諸地域においては,ゲルマン古来の伝統に従い,聖職者を除くすべての自由人はみずから武装し軍役の奉仕をするのが義務であり,また名誉でもあった。しかし,カロリング朝期に入り,軍事力の基盤が,歩兵より騎兵へと漸次移行しはじめると,全自由人の軍役奉仕はしだいに困難となり,王の従士と富裕な自由人のみが軍役に服する傾向が生じた。
11世紀以降,この傾向はいっそう強まり,軍制は大きく転換する。封建制の展開に伴い,領主はみずからの家臣に恩貸地を給し,その代償として軍役義務を課すのが一般的となった。こうして,戦うことを職務とする騎士階層が生まれ,聖職者,平民からはっきり身分的に区別されることとなった。これが身分制的社会構造に対応した封建的軍制の基本的特徴である。カペー朝の国王も,必要に応じ,王領地からは〈直臣・陪臣召集令ban et arrière-ban〉により家臣を召集し,封建諸侯の封地からは一定数の騎士を提供させて,国王軍を編成した。ときに平民,とくに都市民が兵役を課されることもあったが,主として城砦や都市防御のためで,攻撃的任務はゆだねられていない。
騎兵の圧倒的優位は14世紀中葉まで続くが,英仏間の百年戦争(1339-1453)は,ヨーロッパ諸国の軍制に大きな変化を引き起こした。もっとも注目すべき点は,封建騎士層に対抗する歩兵隊の台頭であり,また武器としての火器の登場である。軍制変革の先端を行ったのがイギリスであり,すでに開戦早々のクレシーの戦(1346)において,長弓を備えたヨーマン出身の歩兵隊は,騎士道の華と謳われたフランスの騎士軍団を敗退させた。英軍は技術的にもまた,この戦いにおいて初めて大砲を用いている。こうした事態に直面して,フランスも封建騎士団の改変に取り組まざるをえない。その一つの表れが,シャルル7世による軍制改革である。国王は,第1に,貴族の中から選抜し,国家が装備を給する有給の騎士軍団compagnies d'ordonnanceを設けた(1439-45)。第2には,各聖堂区より1名を徴募する〈弓射手歩兵隊Francs-archers〉の創設であり,騎兵中心主義の転換を示している(1448)。この改革は,イギリスの優秀な歩兵に対抗しうる常備軍の創設というフランス国王の夢を示すものだが,結果は構想倒れに終わり,フランソア1世により廃止されてしまった。この歩兵部隊の優劣は,英仏両国の社会的発展の相違を如実に示したものといえよう。
中世末より三十年戦争に至るまで,大陸諸国の軍制に特徴的に見られるのは,むしろ,外国人傭兵への大幅な依存である。ドイツ,イタリア,スコットランド,スイスなどは,とりわけ活発な傭兵供給源となった。このことは,ヨーロッパ諸国がなお明瞭に国民国家としての基礎を固めておらず,国際的な紛争に際しても,君主の家門的利害の対立や宗教上の対抗関係が国家の枠組みをあいまいにしていた状況に対応している。
17世紀以降,ヨーロッパ諸国が絶対王権の確立へと向かうとともに,新たな局面が生じた。頻発する絶対主義諸国間の戦争に直面して国家の枠組みが強まり,各国とも,外国人傭兵への依存から,自国の常備軍建設へと向かうからである。フランスでも,リシュリューの時代から軍制の整備が始まるが,とくにルイ14世の治下,陸軍卿の任にあったル・テリエ,ルーボアの父子により,精力的に王国軍隊の組織化が進められ,フランスはヨーロッパ随一の陸軍力を誇るにいたる。しかし,売官制という絶対王政期特有の官職制度は軍隊にもおよび,連隊長,中隊長のポストは売買されて貴族の子弟の私物化され,兵士は彼らが私的に徴募する方式が採られていた。1688年,各聖堂区より抽選により兵士を選ぶ〈民兵制〉が導入されたことは,のちの徴兵制度の萌芽といってよいが,脱走兵の多さにも見られるとおり,絶対王政は真の国民的基盤を欠いている。これに対し,後発絶対主義国として急速に勢力を伸ばしたプロイセンの場合には,常備軍の整備はより徹底している。とりわけ〈軍人王〉フリードリヒ・ウィルヘルム1世の下において,全王国を500戸単位の徴兵区Kantonに分かち,若者を登録させて強制徴兵を行う〈カントン制度〉が導入され(1733),〈兵営としての国家〉と呼ばれるほどになった。貴族出身の将校と農民から徴募される兵士との間には,領地においてユンカーと隷農の間に見られたと同様の人格的従属関係が持ち込まれる。このように,プロイセンの軍隊は,絶対主義常備軍としてはもっとも強固なものであったが,これもまた国民的な基盤に立脚したものではなかった。
このような絶対主義軍隊に原理的な転換をもたらしたのが,フランス革命であった。革命の渦中,〈祖国は危機に瀕せり〉の檄に呼応した志願兵たちは,みずからの理念である革命擁護のために進んで志願したのであり,ここに初めて〈市民=兵士soldat-citoyen〉の理念にもとづく近代的軍隊が誕生する。
執筆者:二宮 宏之
近代的軍事制度の誕生は上述のごとくフランス革命に求められる。フランス革命は,君主に対する忠誠心ではなく,愛国心にもとづく軍隊,すなわち,国民軍隊を生み,そのための軍制,とりわけ大規模の徴兵制を設定した。国民軍隊の諸制度は,イェーナの戦でフランス軍に敗れたプロイセンにも導入され,1807年,一大軍制改革がなされた。G.J.D.vonシャルンホルストやA.W.A.G.N.vonグナイゼナウによるこの軍制改革は,徴兵制の採用にとどまらず,軍職を〈専門職〉とみなしうる諸制度をも開発した。参謀本部や陸軍大学といった諸機関の創設,序列や試験による昇任制度の採用等がその代表的制度である。このようなプロイセンの軍制は,71年の普仏戦争で敗れたフランスに伝播し,ついでアメリカ,日本にも影響をおよぼすところとなった。イギリスでは,民兵制度が伝統的軍制であったから,常備軍の軍制は発展しなかった。プロイセン的軍制を手本に,軍制改革を開始したのは,ボーア戦争でイギリス軍が大打撃をこうむった後,すなわち,20世紀に入ってからであった。アメリカでは,イギリスと同様に,民兵制度が長く重視されたが,シャーマンW.T.Sherman,ルースS.B.Luceといった軍人が,普仏戦争後,いちはやくプロイセン的軍制を導入し,20世紀初頭には,軍制改革をほとんど完了していた。
執筆者:中村 好寿
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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