日本大百科全書(ニッポニカ) 「ショア」の意味・わかりやすい解説
ショア(Stephen Shore)
しょあ
Stephen Shore
(1947― )
アメリカの写真家。ニュー・カラーを代表する写真家の一人。ニューヨーク生まれ。幼いころから写真に興味を抱き、ほぼ独学で写真を学ぶ。はやくも6歳のときに暗室機材を与えられ、3年後には最初のカラー写真を制作。10歳のときにウォーカー・エバンズの写真集に大きな影響を受ける。17歳のときアンディ・ウォーホルに出会い、ファクトリーと呼ばれたその仕事場に通いつめ、ウォーホルとその仲間たちを撮影するようになる。その作品は後年『ザ・ベルベット・イヤーズ1965―67』The Velvet Years 1965-67(共著。1995)として出版された。1970年、マイナー・ホワイトがコネティカット州のホチキス・スクールで開催した写真のサマー・ワークショップ「ホチキス・ワークショップ」に参加。71年、弱冠23歳にして、存命中の写真家としては初めてニューヨークのメトロポリタン美術館で個展を開催した。この展覧会は、76年のMoMA(ニューヨーク近代美術館)におけるウィリアム・エグルストンの展覧会と並んで、カラー写真が芸術として世間に認知されるうえで大きな役割を果たした。
ショアがカラー写真に専念しはじめたのは72年ごろからで、70年代前半にニューヨークのライト・ギャラリーで開催した一連の個展は、カラー写真への関心を大きく喚起し、ドキュメンタリー写真にビュー・カメラ(レールや蛇腹がむき出しになっている大判カメラ。建築物が歪んで写るのを補正したり、ピントを調節するのに優れる)を用いるブームの火付け役となった。75年にはグッゲンハイム奨学金を受け、翌76年には弱冠30歳にしてMoMAで個展を開催。
1972年から81年にかけて、それまでほとんどニューヨークの外に出ることがなかったショアはアメリカ国内をまわる旅に出た。そこで大型ビュー・カメラによって何気ない光景を撮影し、アメリカの土着の建築と自然が織りなす風景を厳密に美しい色彩でとらえた。それらは写真集『アンコモン・プレイシズ』Uncommon Places(1982)にまとめられた。さらにフランスに行き、印象派の大画家クロード・モネがその色彩の変化に惚れ込んだジベルニーの庭(モネがパリ郊外につくった庭)に通いつめ、83年に『ジベルニーの庭』The Gardens at Giverny(共著。1983)として出版した。1982年以来、ニューヨーク、バート・カレッジの写真学部長を務めている。98年に出版された『ザ・ネイチャー・オブ・フォトグラフス』The Nature of Photographsでは、エバンズ、ウジェーヌ・アッジェ、ロバート・フランクらの写真作品を約80点掲載し、ショア自身がそれらにコメントをつけながら、写真がどのように機能するか、写真をどのように見るか、といった問題について詳しく語っており、その独自の写真観をうかがい知ることができる。
[竹内万里子]
『The Nature of Photographs (1998, Johns Hopkins University Press, Baltimore)』▽『Stephen Shore, Gerald Van Der Kemp et al.The Gardens at Giverny; A View of Monet's World (1983, Aperture, New York)』▽『Stephen Shore, Lynne TillmanThe Velvet Years 1965-67 (1995, Thunder's Mouth Press, New York)』
ショア(Howard Shore)
しょあ
Howard Shore
(1946― )
カナダの映画音楽作曲家、指揮者、サックス奏者。トロント生まれ。影響を受けた音楽家として武満(たけみつ)徹、ジョン・ケージ、ニーノ・ロータの名を挙げる一方、「映画音楽の源流はオペラにあり」と言明し、イタリア・オペラに対する熱狂も隠さない。こうした幅広い興味がジャンルを問わぬ守備範囲の広さと弛(たゆ)まぬ実験的姿勢をショアにもたらし、鬼才の名を欲しいままにしている。
アルト・サックスを学ぶためアメリカ、ボストンのバークリー音楽院に進学するが作曲志望に転向。同音楽院卒業後、ロック・グループ、ライトハウスのメンバーとなり、同バンドの解散まで活動。1975年から5年間にわたってバラエティ・テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の音楽監督を務めた。同番組が輩出した人気グループ「ブルース・ブラザーズ」はショアの命名による。後年、ショアはインタビューで「毎週、舞台音楽を手がけたようなもので、よい修業になった」と述懐しているが、この時の体験が後に『ミセス・ダウト』(1993)、『エド・ウッド』(1994)、『アナライズ・ミー』(1999)などのコメディ作品の音楽に生かされることとなった。また、旧友デービッド・クローネンバーグDavid Cronenberg(1943― )監督と20年以上にわたってコンビを組み続け、国際的に広く知られるようになる。代表作に、十二音音楽に基づくスコアを弦楽五重奏が演奏した『ザ・ブルード/怒りのメタファー』(1979)、テープループ技法(ある音素材を録音したテープを数珠(じゅず)つなぎにして再生し、通常の楽器演奏では得られない音響を生み出す技法)を使用した『スキャナーズ』(1981)、もっぱらシンクラビア(録音した音素材を変調可能にする電子鍵盤楽器)だけで音楽をつけた『ヴィデオドローム』(1982)、プッチーニのオペラ作品へのオマージュを見せた『ザ・フライ』(1986)、オーネット・コールマンをソリストに招きフリー・ジャズの実験を行った『裸のランチ』(1991)、エレクトリック・ギター六重奏とハープ三重奏の組み合わせという奇抜な楽器編成で書かれた『クラッシュ』(1996)などがあり、1作ごとに映画音楽の新しい表現形式を模索する姿勢が高く評価されている。
クローネンバーグ作品で大きな注目を集めてからは、もともと得意だったコメディ以外にも作曲依頼が増えはじめ、『羊たちの沈黙』(1990)や『セブン』(1995)を代表とするサイコ・スリラー作品から『エスター・カーン/めざめの時』(2000)のような室内劇風の人間ドラマまで手堅くまとめ、そのいずれもが高いクオリティを保つ。『ザ・フライ』以降は、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を自ら指揮して録音を行うことが多い。アカデミー賞とは長く無縁であったが、3時間の長尺をオペラ的手法で重厚にまとめた『ロード・オブ・ザ・リング』(2001)でアカデミー最優秀作曲賞に輝いた。また、『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(2003)でも同賞を受賞している。その他の作品として演奏会用作品にピアノ独奏のための「ピアノ4」(1991)など。92年(平成4)、『裸のランチ』公開に合わせてコールマンと来日公演を行った。
[前島秀国]