ホワイト(読み)ほわいと(その他表記)Minor White

デジタル大辞泉 「ホワイト」の意味・読み・例文・類語

ホワイト(white)

白。白色。
白色の絵の具。また、白色の修正液のこと。
白色人種。白人。
道徳的に好ましいこと。誠実・潔白であること。「ホワイト企業」「ホワイト国」
[類語](1白色はくしょく白妙しろたえ純白雪白せっぱく雪色せっしょく乳色ちちいろ乳白色にゅうはくしょくミルク色灰白色かいはくしょく象牙色ぞうげいろオフホワイトアイボリー真っ白真白い真っ白い白い白白しらじら白白しろじろ白っぽい真っ白け生白いほの白い雪白ゆきじろ皚皚がいがい雪を欺く蒼白そうはく白白しい白皙はくせき色白白面白地しらじ白地しろじ

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精選版 日本国語大辞典 「ホワイト」の意味・読み・例文・類語

ホワイト

  1. 〘 名詞 〙 ( [英語] white )
  2. 白。白い色。〔舶来語便覧(1912)〕
  3. 白色絵の具。
  4. 白色人種に属する人。白人。
    1. [初出の実例]「避けていたホワイトのアメリカ人からそんな風に心安く声をかけられたことで」(出典:南部の旅(1959)〈庄野潤三〉)
  5. 素人。
    1. [初出の実例]「あの田の次という芸妓の如きは。中々ホワイト〈しろうとといふ事か〉にもめづらしい女だ」(出典:当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉一七)
  6. ホワイトシャツ」の略。
    1. [初出の実例]「小野田はホワイト一枚になって」(出典:あらくれ(1915)〈徳田秋声〉七九)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホワイト」の意味・わかりやすい解説

ホワイト(Minor White)
ほわいと
Minor White
(1908―1976)

アメリカの写真家。ミネソタ州ミネアポリスに生まれる。アマチュア写真家であった祖父の傍(かたわ)らで、幼い時から写真に親しんだ。ミネソタ大学で植物学を専攻し、植物の顕微鏡写真を撮影する。顕微鏡のなかに広がる、微細な自然現象の神秘的な姿は、後の写真表現につながっている。大学卒業後しばらくの間詩を書いており、やがて独学で写真制作を始めた。

 1942~1945年第二次世界大戦に従軍。その間にカトリックに改宗、後に神秘論者G・I・グルジェフGeorges Ivanovitch Gurdjieff(1877―1949)を信奉する一方、禅の思想に没頭するなど、精神的な希求から独自の写真哲学を発展させた。戦後コロンビア大学で美学・美術史を学び、1946年カリフォルニア美術学校で教鞭をとる。

 1946年はホワイトにとって重要な年であり、決定的な影響を及ぼす人物に出会う。アンセル・アダムズからは、現像プロセスを極度にコントロールすることで、表現意図を強調する技術を学び、エドワード・ウェストンからは、自然に内在する力を直感力で引き出して映していく美学を学ぶ。また、カリフォルニア州のポイント・ロボスというウェストンの写真における聖地で、岩の断面を抽象的に撮りはじめ、重要な転機を迎えた。アルフレッド・スティーグリッツは、ホワイトを従軍経験による疲弊しきった精神状態から立ち直らせ、写真は精神的な支柱となりうるという確信を与えた。こうしてアメリカの近代写真を築いた先達に多大な影響を受けながら、ホワイトは次代の写真家として、自己の内面をみつめ、その心象を写真に表現していくという課題を担う一人となっていった。1947年からは代表作「シークエンス(連作)」を撮りはじめる。

 写真史家ニューホール夫妻Beaumont Newhall(1908―1993)、Nancy Newhall(1908―1974)との出会いは、ホワイトに別の道を開いた。MoMA(ニューヨーク近代美術館)、後にジョージ・イーストマン・ハウス国際写真博物館(ニューヨーク州ロチェスター)で彼らの仕事を手伝い、写真を研究者としての視点からみることを学んだのである。彼らとともに写真雑誌の構想を練り、1952年『アパチャー』Aperture誌を創刊し、スティーグリッツが主宰した『カメラ・ワーク』Camera Work誌以来の重要な写真批評の場をつくった。この季刊雑誌は、編集を担当したホワイトの感性が主調をなし、次第に彼の個人誌的な様相を呈した。同誌では、ホワイトのアフォリズム、ニューホール夫妻の写真史観、マヌエル・アルバレス・ブラボManuel Alvarez Bravo(1902―2002)、ウィン・バロックWynn Bullock(1902―1975)、ポール・カポニグロPaul Caponigro(1932― )、アーロン・シスキン、フレデリック・ゾマーFrederick Sommer(1905―1999)ら新世代の写真家の作品群が披露(ひろう)され、『カメラ・ワーク』の理想を引き受けながら、1959年特集号「カメラ・ワークを超えて」以降ホワイト流の神秘的信念に基づく「写真道」が追求された。ホワイトは1975年まで同誌の編集・発行を務め、写真界に大きな影響力を及ぼした。多くの大学で教鞭をとり、写真家であると同時に、編集者、教育者としても活躍した。

 1969年自伝的写真集『鏡、メッセージ、マニフェステーション』Mirrors Messages Manifestationsを出版。岩の断面や氷の結晶といった荒々しい自然の断片と、光と影が鮮明に映し出された心象風景を、自作の詩とともに「シークエンス(連作)」として綴(つづ)り、入念な編集による記念碑的な写真集となった。地層の複雑に入り組んだ形態とマチエールを、偏執的なまでにつぶさに写し出した写真は、強烈なインパクトをもって観る者に迫る。

 MoMAの写真部長ジョン・シャーカフスキーは、ホワイトへのオマージュとして『鏡、メッセージ、マニフェステーション』から名をとった「鏡と窓――1960年以降のアメリカ写真」展(1978)を企画し、アメリカの1950年代の写真における重要な出来事として、「ファミリー・オブ・マン」展の組織、ロバート・フランクの『アメリカ人』The Americans発刊とともに、『アパチャー』誌創刊を挙げている。この事実は、ホワイトの影響力の大きさをまさに物語っている。

[蔦谷典子]

『Mirrors Messages Manifestations (1969, Aperture, New York)』『James Baker HallMinor White; Rites & Passages (1978, Aperture, New York)』『Peter Bunnel, Jill GuthrieMinor White; The Eye That Shapes (1989, The Trustees of Princeton University, New Jersey)』


ホワイト(Leslie Alvin White)
ほわいと
Leslie Alvin White
(1900―1975)

アメリカの文化人類学者。コロラド州のサリダに生まれる。ルイジアナ州立大学で学び、1927年シカゴ大学で学位取得、1930年ミシガン大学で教職を得る。同大に人類学部を創設し、1945年以降その主任教授を務める。F・ボアズの影響のもとに出発したが、のちにL・H・モルガン(モーガン)の進化主義思想を再評価し、ボアズらの研究方法や文化類型論に対する激しい批判を展開した。当時の反進化主義的な風潮のなかで、モルガンを積極的に評価する異端的ともいえる彼の立場は「新進化主義」とよばれた。彼は文化を技術文化、社会文化、イデオロギー文化の三つの側面に分け、技術文化に文化進化の動因を求める一種のテクノロジー決定論を唱えた。彼の進化理論はエネルギーの使用量を文化進化の尺度とする単系的進化論であり、生態学的要因を重視するスチュワードの多系的進化論の立場からは不十分なものであった。彼はミシガン大学を中心にサービスElman Rogers Service(1915―1996)やサーリンズMarshall Sahlins(1930―2021)らの多くの進化主義的人類学者を養成した。主著に『文化の進化』がある。

[濱本 満 2019年1月21日]


ホワイト(Patrick Victor Martindale White)
ほわいと
Patrick Victor Martindale White
(1912―1990)

オーストラリアの小説家、劇作家。シドニー近郊の牧場主の両親がロンドン滞在中に出生。牧場主見習(ジャカルー)生活2年後の1932~35年、ケンブリッジ大学近代語学部に学ぶ。在学中に詩集『13編の詩』(1930)、『耕す人ほか』(1935)を自費出版。以来46年まで、第二次世界大戦中イギリス空軍情報士官としてギリシア、中東駐在の5年間と数次の欧米旅行を含めて、14年間離国していた。この前後に、処女長編『ハッピー・バレー(幸福谷)』(1939)、『生者と死者』(1941)、『伯母物語』(1948)、『人間の木』(1955)、『ボス』(1957)、『戦車の乗員たち』(1961)などをイギリス、アメリカで刊行。この国の写実主義文学の伝統に、欧米の心理小説の流れを導入し、国内で3種の文学賞を4作品で受賞。続いて『まさしく曼陀羅(まんだら)』(1966)、『生体解剖者』(1970)に次ぐ『台風の目』(1973)を刊行直後に、ノーベル文学賞を受賞する。以後も『周辺の木の葉』(1976)、『トワイボン・アフェア』(1979)と着実に創作活動が続き、回想記『放蕩(ほうとう)息子』(1958)と自伝『鏡のひび割れ――自画像』(1980)も刊行した。ほかに短編集『火傷(やけど)した人々』(1964)と『コカトー(小地主)』(1974)、劇作に『戯曲四種』(1965)、『大きな玩具(がんぐ)』(1978)、『信号操縦者』(1983)などがある。

[平松幹夫・古宇田敦子]

『岩渕寿津訳『伯母物語』(『ノーベル賞文学全集26』所収・1976・主婦の友社)』『越智道雄訳『ヴォス――オーストラリア探検家の物語』上下、改訂新版(1997・サイマル出版会)』


ホワイト(Gilbert White)
ほわいと
Gilbert White
(1720―1793)

イギリスの博物学者。ハンプシャー県のセルボーンに生まれる。オックスフォード大学に学び、一生をセルボーンの副牧師として過ごした。代表的著作『セルボーンの自然史と古事』The natural history and antiquities of Selborne(1789)は普通『セルボーンの博物誌』とよばれ、当地の動植物の生態を観察して、友人の博物学者や法律家に書き送った手紙をまとめたものである。標題にも表れているとおり人間社会の風習も描かれており、文学としても高い評価を得ている。博物学の面では、鳥がもっとも多く扱われているが、昆虫、ネズミ、カメ、魚なども登場する。その著作はスコットランドの詩人J・トムソンの影響を受けているといわれる。

[八杉貞雄]

『寿岳文章訳『セルボーン博物誌』上下(岩波文庫)』


ホワイト(Leonard Dupee White)
ほわいと
Leonard Dupee White
(1891―1958)

アメリカの行政学者。1920年から1956年までシカゴ大学に奉職、政治学におけるシカゴ学派の重要な一員。アメリカ政治学会、アメリカ行政学会の会長を歴任。その教科書『行政学入門』Introduction to the Study of Public Administration(1926、1939、1948、1954)は、アメリカにおける最初の行政学の体系的著述であり、いわゆる管理学的行政学の基調を設定したものとしてアメリカ内外の学界に大きな影響を与えた。そのほかにも内外の人事行政および公務員制度の研究、四部作からなるアメリカ行政史の研究(『フェデラリスツ』(1948)、『ジェファソニアンズ』(1951)、『ジャクソニアンズ』(1954)、『リパブリカン・エラ』(1958))も行っており、1959年にピュリッツァー賞を受けた。

[田口富久治]


ホワイト(Israel Charles White)
ほわいと
Israel Charles White
(1848―1927)

アメリカの地質学者。ウェスト・バージニア州立大学などに学ぶ。ペンシルベニア州、アメリカ合衆国地質調査所、バージニア州などの地質技師を歴任する。ペンシルベニア、バージニア州のガス田を調査して、褶曲(しゅうきょく)の背斜軸部に井戸を掘ればガスが得られるのを発見した。その考えは「背斜説」として石油探査に広く応用され、世に大きく貢献した。

[木村敏雄]

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改訂新版 世界大百科事典 「ホワイト」の意味・わかりやすい解説

ホワイト
Gilbert White
生没年:1720-93

イギリスの牧師,博物学者。ロンドンの南西約80kmに位置する生地セルボーンで牧師補をつとめながら自然の観察に熱中し,その成果を約20年間にわたり書簡の形で博物学者ペナントThomas Pennant(1726-98)らに報告し続けた。これらの書簡をまとめた著作《セルボーン博物誌》(1789)は,美しい文体と鋭い観察眼とを兼ね備えた自然史文学の古典であり,また政争から身を引き自然に遊ぶ隠棲者の随想としてもI.ウォールトン《釣魚大全》と双璧を成す。彼の弟ベンジャミン・ホワイトBenjamin White(1725-94)が博物学書の出版を手がけていた関係から著者の一人ペナントとギルバートとの親交が始まっており,また《セルボーン博物誌》の初版も弟の手で出版された。牧師や博物学者がその居住地域の故事と自然史を研究し著書にまとめる習慣はプロットRobert Plot(1640-96)の《スタッフォードシャー博物誌》(1686)を先駆として18~19世紀に流行した。しかしその中からホワイトの著作だけが古典として残ったのは,鳥の渡りや生殖行動をはじめ,生物の生態を自身の目で科学的に観察し,神話や伝承から得た民俗的情報との混同を避けた記述態度によるといえよう。
執筆者:


ホワイト
Patrick White
生没年:1912-90

オーストラリアの小説家,劇作家。シドニー南西の大牧場主の子として,両親の旅先のロンドンで生まれた。ケンブリッジ大学卒。第2次大戦でイギリス軍情報部勤務中,知り合ったギリシア人男性と今日まで続く共同生活に入った。1948年に20年余の欧米生活を打ち切り帰国,シドニー南郊に住んだ。〈精神の白夜の国〉オーストラリアの人間であることは,ホワイトの作家としての運命を決定した。彼自身の倨傲とマッチしたヘレニズム的な高みから,自国の精神的卑俗さを凍りついた憎悪で切り刻む文体は,ローソンを中心とする,共同体意識に貫かれたこの国の文学潮流ではとらえられなかった孤立者の内面の神秘に光をあてた。73年この国初のノーベル文学賞を受賞した。代表的長編小説に《人間の樹》(1955),《ヴォス》(1957。邦訳あり),《完璧な曼荼羅》(1966),《生体解剖人》(1970),《台風の目》(1973),《トワイボーンの場合》(1979),戯曲の代表作に《四つの戯曲》(1965)がある。自伝《ひび割れた鏡》(1980)は同性愛の告白が衝撃を与えた。
執筆者:


ホワイト
Leslie Alvin White
生没年:1900-75

アメリカの文化人類学者。コロンビア大学のF.ボアズのもとで学ぶ。はじめは文化とパーソナリティ論に関心をもったが,イロコイ族を調査するに及んで,アメリカ・インディアン研究の先駆者L.H.モーガンの著作,ことにその進化理論に深く影響されるようになった。20世紀前半の反進化論的なアメリカ文化人類学界にあって,前世紀のモーガンやE.B.タイラーの進化理論を積極果敢に再評価したところから,新進化主義者と呼ばれた。彼の進化理論は,人類社会に普遍的な進化段階を追究するいわゆる単系進化論であり,エネルギー使用量を文化進化の原動力と考えた。その理論は,各民族の文化進化と生態学的環境との関連を重視したJ.H.スチュワードの多系進化論と対比されることが多い。ミシガン大学人類学部を創設し,E.R.サービスやM.D.サーリンズなど,多くの進化主義的人類学者を養成した。
執筆者:


ホワイト
William Henry White
生没年:1845-1913

イギリスの造船技術者。造船所の見習工を経て王立造船学校に学んだのち,海軍省に入った。1881-83年主任造船技師,1885-1902年海軍造船長官を務め,200隻以上の艦船の設計,建造を指導し,イギリス艦隊の増強に貢献した。海軍省での勤務と同時に,王立造船学校教授,王立造船大学教授として講義を行い,1877年には,《造船工学便覧Manual of Naval Architecture》を著した。88年にはローヤル・ソサエティ会員に選出されている。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホワイト」の意味・わかりやすい解説

ホワイト
White, Shaun

[生]1986.9.3. カリフォルニア,サンディエゴ
アメリカ合衆国のスノーボード選手。フルネーム Shaun Roger White。愛称「空飛ぶトマト」。生後まもなく心臓の障害で 2度の手術を受けたが,健康問題を乗り越え,幼少時からスケートボード,サーフィン,スキー,サッカーに取り組む。6歳でスノーボードを始め,アマチュア大会で 5回の全米優勝を含む驚異的な成績をあげたのち,13歳でプロに転向。エクストリーム・スポーツの競技大会,「Xゲームズ」の冬季大会では,2000年のデビュー以来,スロープスタイルとスーパーパイプで多数の金メダルを獲得。2006年トリノ・オリンピック冬季競技大会ハーフパイプでは,決勝のファーストランでフロントサイド1080(3回転)エアを 2回,バックサイド900を 1回決め,金メダルを勝ちとった。2010年バンクーバー・オリンピック冬季競技大会では,ハーフパイプ決勝のファイナルランで,縦に 2回転する間に横に 3回転半する最新技ダブルマックツイスト1260を披露し,圧勝でタイトルを防衛した。活躍はスノーボードにとどまらず,冬季と夏季両方の Xゲームズに出場した初の選手となり,2007年と 2011年にスケートボードのバート競技で金メダルを獲得。一方,たぐいまれな運動能力と明るく魅力的な人柄でメディアの注目を集め,高額のコマーシャル契約を多数得ている。

ホワイト
White, Theodore Harold

[生]1915.5.6. ボストン
[没]1986.5.15. ニューヨーク
アメリカのジャーナリスト,歴史家,作家。 1938年ハーバード大学を卒業後,タイム誌の最初の外国特派員の一人として 1939年から 1945年までアジアに赴き,ミズーリ号上の日本降伏にも立ち会う。のちに通信社と雑誌社のヨーロッパ特派員も務めた。 1960年の大統領選挙の舞台裏を描いた『大統領をつくる法』 The Making of the President,1960 (1961) はピュリッツァー賞を受賞。 1964年,1968年,1972年の大統領選挙も取材して本にしたが,これらは大統領選挙を題材としたものでは古典的存在となっている。そのほかの著書としては,中国に同情的すぎるとしてタイム誌を追われるきっかけとなった『中国からの雷鳴』 Thunder Out of China (1946) や,ニクソンの失脚を描いた『信頼を破る』 Breach of Faith: The Fall of Richard Nixon (1975) ,自伝的な『歴史を求めて』 In Search of History: A Personal Adventure (1978) などがある。 1985年には,ニューヨーク・タイムス・マガジンに,日本の輸出攻勢をきびしく批判する記事「日本からの脅威」を発表した。

ホワイト
White, Andrew Dickson

[生]1832.11.7. ニューヨーク,ホーマー
[没]1918.11.4. ニューヨーク,イサカ
アメリカの教育家,外交官。コーネル大学の創立者で初代学長。 1853年エール大学卒業,引続き3年間ヨーロッパで勉学。この間 54~55年ペテルブルグのアメリカ公使館員をつとめた。帰国後ミシガン大学の歴史,英文学教授。ニューヨーク州に宗派,性別,人種,学科などの点で制約のない州立大学を設立しようという年来の夢が,E.コーネルの寄付金とモリル法による州有地の贈与によってコーネル大学の設立,認可となって実現した。初代学長として最大の精力と多くの財産を傾注し,将来の発展を期した。多くの政府委員,駐ドイツ (1879~81) ,駐ロシア (92~94) 公使,駐ドイツ大使 (97~1903) ,99年のハーグ平和会議の首席全権委員などを歴任。主著『キリスト教における科学と神学の闘争』A History of the Warfare of Science with Theology in Christendom (1896) ,『ヒューマニティと不合理との戦いにおける七大政治家』 Seven Great Statesmen in the Warfare of Humanity with Unreason (1910) 。

ホワイト
Whyte, William Foote

[生]1914.6.27. マサチューセッツスプリングフィールド
[没]2000.7.16.
アメリカの社会学者。スウォースモア・カレッジ,ハーバード大学に学び,1943年シカゴ大学で博士号を取った。 48年コーネル大学の産業・労働関係学部教授。産業社会学の立場から,経営を生産でなく人間関係を含む個人や集団の社会体系としてとらえた。そのほか少年ギャングの小集団研究,レストラン従業員の研究,従業員と顧客の研究,労使関係など,彼の関心は第1次集団の内部の地位や集団活動や経営組織の内部の人間的感情要素などに向けられている。主著『ストリート・コーナー・ソサエティ-イタリア人スラムの社会構造』 Street Corner Society: the Social Structure of an Italian Slum (1943) ,『レストラン産業における人間関係』 Human Relations in the Restaurant Industry (48) 。

ホワイト
White, Stanford

[生]1853.11.9. ニューヨーク
[没]1906.6.25. ニューヨーク
アメリカの建築家。文献学者 R.ホワイトの子。 1872年から H.リチャードソンに師事し,79年 C.マッキム,W.ミードとともにニューヨークにマッキム・ミード・アンド・ホワイト建築事務所を開設。同事務所は 1890年代後半から 20世紀初頭にかけてのアメリカの新古典主義建築復活の中心的存在となる。マッキムの力強さに対し,R.ショー風の荘園住宅作品にみるようなデリケートで装飾的な美しさを特徴とした。マジソン・スクエア・ガーデンで精神障害者に刺殺された。作品はカジノ (1881,ニューポート) ,I.ベル2世邸 (81~82,同) ,ビラード邸 (85,ニューヨーク) のほか,ニューヨークのセンチュリークラブ,ヘラルド・ビル,マジソン・スクエア・ガーデンなど。

ホワイト
White, Patrick (Victor Martindale)

[生]1912.5.28. ロンドン
[没]1990.9.30.
オーストラリアの小説家。 1973年ノーベル文学賞受賞。ケンブリッジ大学卒業。第2次世界大戦中はイギリス空軍に属して中東に駐屯,戦後オーストラリアに帰る。処女長編『幸福の谷』 Happy Valley (1933) 以下,『生ける者,死せる者』 The Living and the Dead (41) ,『人間の木』 The Tree of Man (55) ,『ボス』 Voss (57) ,『生体解剖者』 The Vivisector (70) ,『嵐の眼』 The Eye of the Storm (74) ,『ひび割れた鏡』 Flaws in the Glass (80) など。戯曲には『アビシニアへの帰還』 Return to Abyssinia (47) など。オーストラリアが誇る国際的作家。

ホワイト
White, Leonard Dupee

[生]1891.1.17. マサチューセッツ,アクトン
[没]1958.2.23. マサチューセッツ,アクトン
アメリカの行政学者。ダートマス大学,シカゴ大学で学位を得たのち,1920~56年シカゴ大学で教壇に立った。また連邦人事行政委員会委員長もつとめる。行政改革運動の強い影響を受け,みずからもその擁護者となった。行政はあらゆる組織に共通する過程であって,これを法的視点からではなく管理の視点からとらえるべきであるという説を展開,いわゆるシカゴ学派の重鎮として近代行政学の樹立に大きな役割を果した。主著『行政学入門』 Introduction to the Study of Public Administration (1926) 。

ホワイト
White, Hugh Lawson

[生]1773.9.30. ノースカロライナ,アイアデル
[没]1840.4.10. テネシー,ノックビル
アメリカの法律家,政治家。テネシー州最高裁判所判事 (1801~07) ,州上院議員 (07~09) ,テネシー州法銀行総裁 (12~27) を経て連邦上院議員 (25~40) 。インディアン問題委員会委員長としてインディアンのミシシッピ川以西への強制移住を積極的に支持。最初 A.ジャクソン大統領を支持したが,1836年の大統領選挙でジャクソン側の候補 M.バン・ビューレンに対抗し,ホイッグ党の支持で立候補したが落選。

ホワイト
White, John

[生]1590.6.29. ペンブルック
[没]1645.1.29. ロンドン
イギリスの政治家。ウェールズ出身の清教徒で,法律家になり,1629年マサチューセッツ湾植民地の特許状獲得に尽力するなど,アメリカの植民地建設に活躍。1640年下院議員に選ばれ,まもなく聖職者腐敗調査委員会議長に就任し,『醜聞と悪徳の聖職者の第一世紀』First Century of Scandalous Malignant Priestsと題する聖職者の堕落を批判した報告書を提出,そのため「センチュリー・ホワイト」と呼ばれた。

ホワイト
White, Edward Higgins, II

[生]1930.11.14. サンアントニオ
[没]1967.1.27. ケープケネディ
アメリカの宇宙飛行士。陸軍士官学校卒業後,空軍に勤務。 1959年ミシガン大学航空学科より修士の学位を取得,ならびに空軍のテストパイロット学校を卒業。 62年第2期宇宙飛行士の一人に選ばれた。 65年6月,C.マクディビットとともにジェミニ4号に乗込み,アメリカ人として初めて 20分間の宇宙遊泳に成功。 67年1月 27日ケープケネディ基地で,サターン IB型ロケットの予備実験中にアポロ宇宙船に火災事故が発生,V.グリソム,R.チャフィーとともに死亡。アメリカの宇宙飛行計画中,初めての犠牲者の一人となった。

ホワイト
White, Leslie Alvin

[生]1900.1.19. コロラド,サライダ
[没]1975.3.31. カリフォルニア,ローンパイン
アメリカの文化人類学者。ミシガン大学教授。 19世紀の文化進化論者 L.モーガンの考え方を再評価した。その近代的意義の主張は新進化主義といわれ,歴史的,地理的関心の強い F.ボアズらの研究方法や文化類型論を強く批判している。主著『文化の進化』 The Evolution of Culture (1959) 。

ホワイト
White, Charles

[生]1728.10.4. マンチェスター
[没]1813.2.13. チェシャー,アシュトンアボンマージー
イギリスの外科医,産科医。整形外科創始者の一人。 1785年に記載したホワイト法は,腋窩にかかとを当て,上腕骨の脱臼を整復する方法。産科医としては 73年,I.ゼンメルバイスより先に産褥熱の原因を「手術」熱とし,褥婦を清潔に取扱うことの重要性を強調。また下肢に対する上肢の相対的な長さが人種間で異なることなどを発見し,人体測定学の創始者といわれる。

ホワイト
White, Harry Dexter

[生]1892.10.29. ボストン
[没]1948.8.16. メリーランド,ベセスダ
アメリカの経済学者。初め大学で経済学を講じたが,1934年財務省に入り,ニューディール派の理論家として次第に認められ,第2次世界大戦中は財務次官補として国際通貨基金 IMFのアメリカ側原案である「連合国国際安定基金案」を起草した。その第1次草案はアメリカ国内で審議修正されて発表されたものよりはるかに野心的で超国家的性格の強いものだったといわれる。 46~47年 IMFの初代アメリカ代表理事。反米活動容疑で下院の非米活動委員会に喚問されたが,確証が出ないまま死去。

ホワイト
White, Terence Hanbury

[生]1906.5.29. ボンベイ
[没]1964.1.17. ギリシア,ピレエフス
イギリスの小説家。アーサー王伝説の形を借り現代を風刺した3部作,『石の中の刀』 The Sword in the Stone (1939) ,『森の魔女』 The Witch in the Wood (40) ,『できそこないの騎士』 The Ill-Made Knight (41) ──のち1巻本『過去と未来の王』 The Once and Future King (58) として改訂再刊──の著者として知られる。

ホワイト
White, Edward Douglass

[生]1845.11.3. ルイジアナ,ラフーシュ
[没]1921.5.19. ワシントンD.C.
アメリカの法律家,政治家。南北戦争では南軍に参加。戦後法律を学び,1874年ルイジアナ州上院議員,78年州最高裁判所判事,91~94年連邦上院議員を歴任し,民主党の実力者として活躍。 94年連邦最高裁判所判事に任命され,1911~21年同裁判所長官。 1898年のハワイ併合などの領土併合やシャーマン反トラスト法の法的解釈について独自の見解を示した。

ホワイト
White, Gilbert

[生]1720.7.18. ハンプシャー,セルボーン
[没]1793.6.26. ハンプシャー,セルボーン
イギリスの博物学者,聖職者。有名な『セルボーンの博物誌』 The Natural History and Antiquities of Selborne (1789) の著者。郷里の片田舎セルボーンに終生在住,身辺の自然界の出来事を観察して日誌につけ,また手紙で友人に書き送ったことがきっかけになり,書簡 110通をもとにした『博物誌』ができあがった。

ホワイト
White, Richard Grant

[生]1821.5.23. ニューヨーク
[没]1885.4.8. ニューヨーク
アメリカの文献学者,著述家。シェークスピア批評と編纂で特に知られる。『シェークスピア学者』 Shakespeare's Scholar (1854) のほか,南北戦争当時,南部に同調した北部人を風刺した『聖ベンジャミンによる平和のための新福音書』 The New Gospel of Peace According to St. Benjamin (4巻,63~66) 。

ホワイト
White, Paul Dudley

[生]1886.6.6. ボストン
[没]1973.10.31. ベルモント
アメリカの心臓専門医。ハーバード大学を卒業。マサチューセッツ総合病院でインターン,医師,心臓診療部と研究所の部長,病院顧問となった。その間,ハーバード大学医学部教授,アメリカ心臓協会会長,国立心臓研究所顧問,国際心臓病協会会長などを歴任。心臓病の世界的権威で,D.アイゼンハワー大統領が 1955年9月冠状動脈血栓症に襲われたとき,主治医として活躍した。

ホワイト
White, George

[生]1890. ニューヨーク
[没]1968.10.10. ハリウッド
アメリカのプロデューサー,ダンサー。チャールストンなどのステップを取入れたレビューで有名。自作自演した『ジョージ・ホワイトのスキャンダル 1919年』 George White's Scandals of 1919 (音楽,G.ガーシュイン) が好評を博し,以後毎年上演してニューヨーク名物となった。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

大学事典 「ホワイト」の解説

ホワイト
Andrew Dickson

アメリカ合衆国の歴史家,大学教授,外交官,教育者。アメリカの大学が古い宗派的な束縛から解放され,純粋科学や応用科学が文学などと同等な地位を持つことを理想とし,1865年,エズラ・コーネルとともに,今日研究大学,進歩的な大学として名声を有するコーネル大学を共同で設立した。ニューヨーク州に生まれ,イェール大学で学士号を取得。同級生にダニエル・コイト・ギルマンがいた。パリ大学やベルリン大学にも学び,1858年にミシガン大学歴史学および英文学教授,66年にコーネル大学歴史学教授ならびに初代学長(任期1885まで)となる。外交官としても活躍し,1892~94年にロシア大使,1897~1902年にドイツ大使を務めた。著書に『キリスト教国における科学と神学の戦いの歴史A History of the Warfare of Science with Theology in Christendom』(上下2巻,1896年)があり,一部邦訳されている(森島恒雄訳『科学と宗教との闘争』岩波新書,1968年)。ニューヨーク州イサカで死去。
著者: 赤羽良一

出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報

色名がわかる辞典 「ホワイト」の解説

ホワイト【white】

色名の一つ。JISの色彩規格では「」としている。一般に、人間の目に見える光のすべてを反射する物体から感じる色をさす。ただし、これは理論上の白であって、実際にそのような物体は存在しないとされる。そのため、日常生活で「白」といっている物はすべて「白のようなもの」ということになる。したがってホワイトはホワイトであり、ほかの色で形容しようがない。また、ホワイトは無彩色であり、ブラックの対語。このホワイトとブラックはもっとも古く発生した色名の概念とされる。具体的なホワイトの色名にはスノーホワイトがある。

出典 講談社色名がわかる辞典について 情報

百科事典マイペディア 「ホワイト」の意味・わかりやすい解説

ホワイト

米国の写真家。ミネソタ州ミネアポリス生れ。ボーモント・ニューホールに影響を受け,1916年より独学で写真を始める。1928年よりミネソタ大学で植物学を専攻した後,コロンビア大学で美術史と美学を学ぶ。第2次大戦従軍中にカトリックに改宗。宗教的・幻想的イメージと自然を融合させた独自の表現を確立した。1952年アダムズ,ニューホール,ドロシア・ラングらとともに写真雑誌《アパチャー》の創刊に参加,その後も同誌やジョージ・イーストマン・ハウス発行の写真雑誌《イメージ》の編集に関った。ロンドンで没。

ホワイト

オーストラリアの小説家,劇作家。シドニー南西の大牧場主の子。英国で学び,第2次世界大戦中は英国空軍情報部に勤務,そこで知り合ったギリシア人男性との同性愛は自伝《ひび割れた鏡》(1981年)にも描かれている。1948年に帰国し,これまで閉塞したナショナリズム色の濃かったオーストラリア文学の伝統を打ち破る作品を発表した。おもな長編小説に《人間の樹》(1955年),《ヴォス》(1957年),《完璧な曼陀羅》(1966年),《生体解剖人》(1970年),《台風の目》(1973年),《トワイボーンの場合》(1979年)。戯曲に《四つの戯曲》(1965年)など。1973年ノーベル文学賞受賞。

ホワイト

米国の小説家,批評家。長編第1作《エレーナを忘れて》(1973年)などで幻想的作風を高く評価されたあと,1950年代米国社会を背景にゲイとしての思春期を描いた自伝的長編《ある少年の物語》(1982年)では〈最も卓越したゲイ作家〉としての声望を得る。《美しい部屋は空っぽ》(1988年)はその続編。またゲイ解放やエイズ問題を扱う著作として《欲望の国》(1980年)や《ジョイ・オブ・ゲイ・セックス》(1987年)があり,ゲイ文学のアンソロジーも編集している。

ホワイト

英国の博物学者,牧師。生れ故郷セルボーンに住みついて《セルボーン博物誌》(1789年)を書いた。これは友人の博物学者ペナントらにあてた手紙をもとにしたもので,美しい文章と,鳥の渡りや生殖行動についての精緻(せいち)な描写によって,自然誌文学の古典となっている。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル大辞泉プラス 「ホワイト」の解説

ホワイト

コトブキ製紙が販売するトイレットペーパーのブランド。また、その商品名。リサイクルパルプ100%使用。マイクロエンボス加工。シングル、ダブル2枚重ね、12ロール、18ロール入りがある。ブランドはほかに幅が短いタイプの「プチホワイト」がある。

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367日誕生日大事典 「ホワイト」の解説

ホワイト

生年月日:1892年10月29日
アメリカの財政金融の専門家
1948年没

ホワイト

生年月日:1891年1月17日
アメリカの行政学者
1958年没

ホワイト

生年月日:1590年6月29日
イギリスの政治家
1645年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のホワイトの言及

【セルボーン】より

…オールトンの町の南方8km。ここに生まれ,生涯の大半をこの地で過ごした牧師ホワイトGilbert White(1720‐93)の《セルボーンの博物誌》(1789)で有名。彼はこの書で草木や鳥魚の行動などを正確に観察し,自然に対する無限の愛着を示した。…

【セルボーン】より

…オールトンの町の南方8km。ここに生まれ,生涯の大半をこの地で過ごした牧師ホワイトGilbert White(1720‐93)の《セルボーンの博物誌》(1789)で有名。彼はこの書で草木や鳥魚の行動などを正確に観察し,自然に対する無限の愛着を示した。…

【博物学】より

…アメリカでは全博物図鑑中の最大傑作といわれるJ.J.オーデュボン《アメリカの鳥類》がほぼ同時期に出版されている。一方,博物学書は文芸作品と同じ感覚でも鑑賞されるようになり,G.ホワイトの《セルボーン博物誌》を先駆けとして,J.H.ファーブル《昆虫記》やE.T.シートン《動物記》のような人気作品が書かれた。 20世紀にはいると博物学は,生物学プロパーというよりもむしろ専門家でない自然愛好者が手がける分野と考えられるようになり,記述の学あるいは自然観察の学の全般的衰退をみるに至った。…

【文化】より

…アメリカのL.H.モーガンは,社会の発達を,蒙昧(もうまい),野蛮,文明の3段階に分けて進化論を展開した。ところが,文化の変化は必ずしも一系列的に起こるものではないことが明らかになり,文化進化論はゆらいだが,その後,ホワイトL.A.White,E.サービスらは,文化の新進化論を唱えた。地球上における旧石器時代以来の文化の発達,進化そのものは否定しえない事実であるからである。…

【大衆文化】より

…そこでアドルノらは,大衆文化は,社会変革に向けられるべき大衆のエネルギーを吸収しており,その意味で大衆文化はきわめて政治的意味をもっていると批判した。 このような大衆社会批判はL.A.ホワイト,ローゼンベルクなどアメリカの論者たちに受け継がれ,創造的な教養文化は大衆文化によって危険にさらされていると主張された。すなわち,大衆文化は文化産業のもつマス・メディアを介して普及される。…

【文化】より

…アメリカのL.H.モーガンは,社会の発達を,蒙昧(もうまい),野蛮,文明の3段階に分けて進化論を展開した。ところが,文化の変化は必ずしも一系列的に起こるものではないことが明らかになり,文化進化論はゆらいだが,その後,ホワイトL.A.White,E.サービスらは,文化の新進化論を唱えた。地球上における旧石器時代以来の文化の発達,進化そのものは否定しえない事実であるからである。…

※「ホワイト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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