フランス映画(読み)ふらんすえいが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス映画」の意味・わかりやすい解説

フランス映画
ふらんすえいが

フランスは19世紀末に、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」によって世界で最初に映画を発明し、その後もアメリカと並んで映画の発展にもっとも貢献した国である。娯楽性を追求するアメリカ映画に対して、サイレント期・トーキー期を通じて一貫して映画の芸術性を探求してきたフランス映画は世界的にも高く評価されている。産業面では、伝統的に多数の小プロダクションが分立し、それぞれが小規模ながらも独自な製作活動を展開している。また、第二次世界大戦後は国立映画庁(現、国立映画・映像センター。Centre national du cinéma et de l' image animée、略称CNC)の設置や映画助成金制度の制定など、国家による保護育成策が推進されてきた。2010年代後半の映画製作本数は年間約300本(外国との合作を含む)。複合映画館(シネマ・コンプレックス)を含めて映画館数は2040館(スクリーン数は5981面)。外国映画をも含めた年間の観客動員数は約2億人である(CNC2018年版年次報告書)。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

映画の誕生とサイレント初期

1895年、リュミエール兄弟は映画撮影機と映写機を兼ねる「シネマトグラフ」を発明し、同年12月にパリのグラン・カフェで有料上映会を行って、ここに世界最初の映画が誕生した。撮影を担当したのは弟のルイで、彼は『工場の出口』『列車の到着』など、日常生活の光景を記録した多数の実写映画を撮った。一方、シネマトグラフに注目した奇術師のジョルジュ・メリエスは、舞台での奇術やトリック撮影の技法を使って、『月世界旅行』(1902)をはじめ多くの空想的劇映画をつくった。これらは見せ物として多大な人気を博し、パテ、ゴーモンなどの映画会社も設立されて、映画はたちまちのうちに大衆娯楽として定着した。

 1908年にはフィルム・ダール社が設立され、たわいない見せ物の域を脱して、映画を芸術に高めようとする努力がなされた。同社は高名な劇作家や舞台俳優を招いて、『ギーズ公の暗殺』(1908)ほかの文芸映画を製作したが、それらの作品は基本的には演劇的理念に従うものであった。1910年代には、ルイ・フイヤードLouis Feuillade(1873―1925)が『ファントマ』(1913~1914)などの連続活劇を、またマックス・ランデールが自ら主演して多くの喜劇映画を撮り、それらの人気は広く外国にも及んだ。こうして、フランス映画は世界の映画市場を支配した観があったが、第一次世界大戦とともに映画産業は深刻な打撃を受け、以後はアメリカ映画に王座を奪われた。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

1920年代のサイレント映画

1920年代にフランス映画は前衛的な映画運動の隆盛をみた。その端緒となったのはルイ・デリュックLouis Delluc(1890―1924)が提唱した「フォトジェニー」photogénie論で、これは現実の光景から映画独自の美を抽出することを説き、彼自らも『狂熱』(1921)、『さすらいの女』(1922)などでその理念を実践した。また、ジャン・エプステインはフォトジェニーの概念をさらに発展させ、「機械の知性」としてのカメラの特性を活用して新たな世界観を開拓することを主張し、『アッシャー家の末裔(まつえい)』(1928)などの特異な作品を発表した。一方、アベル・ガンスやジェルメーヌ・デュラックGermaine Dulac(1882―1942)は映画におけるリズムの重要性に注目し、映画を一種の視覚的音楽として構想した。ガンスの『鉄路の白薔薇(しろばら)』(1923)、『ナポレオン』(1927)はそのもっとも壮大な具現である。こうした試みは、一連の斬新(ざんしん)な表現技法、すなわち、意図的な「ぼかし」や画面の歪曲(わいきょく)、急速モンタージュ、スローモーションなどを駆使して、文学や演劇の桎梏(しっこく)を脱した「純粋映画」cinéma purを実現し、それによって映画固有の美学を構築しようとするものであった。

 さらにこれと並行して、当時の前衛的芸術運動であったダダイスムやシュルレアリスムに加わった映画人たちは、夢と幻想、人間の根源的な狂気や無意識の情念を、挑発的なスタイルで表現した。ルネ・クレールの『幕間』(1924)、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1928)はその代表的作品である。これらの「前衛映画」人は、自らの考えをしばしば書物にも著し、芸術としての映画の可能性を理論と実作の両面において模索した。このほか、革命を逃れてパリに亡命した多数のロシア映画人は、アレクサンドル・カメンカAlexandre Kamenka(1888―1969)のおこしたアルバトロス社に拠(よ)ってユニークな創作活動を展開し、アレクサンドル・ボルコフAlexandre Volkov(1878?/1885―1942)の『キイン』(1924)などの話題作を生み出した。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

1930年代のトーキー映画

1920年代末にアメリカでトーキー映画が開発されて大成功を収めたが、フランスでも1930年代初めからトーキー映画の製作が開始された。しかし、おりからの世界恐慌によってパテとゴーモンの二大会社は弱体化し、以後は群小のプロダクションが製作を支えることになった。クレールの『巴里(パリ)の屋根の下』(1930)は音に対する独創的な処理を試みつつ、下町の人々の生活を情感豊かなリアリズムによって描き出し、1930年代のフランス映画に一つの方向づけを与えた。その流れをくむものとしては、ジャック・フェデーの『外人部隊』(1934)、『女だけの都』(1935)、ジュリアン・デュビビエの『望郷』『舞踏会の手帖(てちょう)』(ともに1937)、マルセル・カルネの『霧の波止場』(1938)、『陽は昇る』(1939)などがあげられる。いずれも巧みな脚本、入念な照明、精巧なセットといった、優れた職人芸に支えられた映画であり、陰影に富んだその独特の雰囲気は世界中の観客を魅了し、長らくフランス映画といえばこの時期の名作をさすほどであった。

 ジャン・ルノワールもまた、同様の雰囲気をもった『牝犬(めすいぬ)』(1931)、『十字路の夜』(1932)などを撮り、人道主義的な大作『大いなる幻影』(1937)も手がけたが、そのスタイルはより開放的であり、『ゲームの規則』(1939)はそうした彼の資質を最大限に発揮した傑作である。ジャン・ビゴは痛烈な社会風刺を込めた『新学期 操行ゼロ』(1933)や、船上生活者の暮らしをみずみずしい感性で描いた『アタラント号』(1934)によって、希有(けう)な才能を示した。このほか、1930年代には演劇人が映画に進出し、マルセル・パニョルの『パン屋の女房』(1938)やサッシャ・ギトリの『とらんぷ譚(ものがたり)』(1936)などの、自作戯曲を映画化した作品は映画と演劇との融合を図る試みとして興味深い。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

戦時下から戦後映画へ

第二次世界大戦中、ナチスの占領下でフランス映画は低迷したが、ロベール・ブレッソンの『ブローニュの森の貴婦人たち』(1944)や、非占領地区の南フランスで撮られたカルネの『天井桟敷(さじき)の人々』(1945)など、いくつかの優れた作品が生み出された。第二次世界大戦後、1946年に国立映画庁が設置され、翌1947年には映画助成金制度が制定されて、フランス映画は再建に向けて歩み出した。ルネ・クレマンは『鉄路の闘い』(1945)でドキュメンタリー的手法でレジスタンス運動を描き、ジャン・コクトーは『美女と野獣』(1946)で独特の幻想的世界をつくりだした。また、アンリ・ジョルジュ・クルーゾの『犯罪河岸』(1947)やジャック・ベッケルの『現金(げんなま)に手を出すな』(1954)などは、第二次世界大戦後のフランス映画に「フィルム・ノアール」film noir(暗黒映画)のジャンルを定着させた。そして、クレールやクロード・オータン・ララらの巨匠たちは、『夜の騎士道』(1955)や『青い麦』(1954)といった洗練された商業映画によって高い人気を得た。このほか、ブレッソンは『田舎(いなか)司祭の日記』(1951)や『抵抗』(1956)で孤高の創作活動を続け、また、渡米したマックス・オフュルスやルノワールも帰国して、『快楽』(1952)や『フレンチ・カンカン』(1954)などの円熟した作品を発表した。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

ヌーベル・バーグの登場と映画の革新

しかし、第二次世界大戦後に映画の復興が進むとともにその弊害も現れてきた。多くの作品は伝統に縛られて自由な発想を欠き、撮影所の閉鎖的な体質は容易に新しい人材を受け入れなかった。そうした状況のなかで、「良質の映画」の伝統に異議申し立てを行い、映画製作に新鮮な活力をもたらしたのが、1950年代末に始まる「ヌーベル・バーグ」nouvelle vague(新しい波)である。その中心となったのは、アンドレ・バザンの主宰する映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家から実作に転じた若い監督たちで、彼らはアンリ・ラングロアHenri Langlois(1914―1977)の運営するシネマテーク・フランセーズなどでの豊富な映画鑑賞体験に基づき、確固たる映画史観のもとに、既成の映画作法を打ち破る斬新な作品を発表した。

 その端緒となったジャン・リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)、フランソワ・トリュフォーの『大人は判(わか)ってくれない』(1959)、クロード・シャブロルの『いとこ同志』(1959)などの登場は、映画界のみならず社会的にも大きな反響をよんだ。同じく『カイエ・デュ・シネマ』誌の批評家出身で、『獅子(しし)座』(1959)のエリック・ロメール、『パリはわれらのもの』(1961)のジャック・リベットJacques Rivette(1928―2016)のほか、『死刑台のエレベーター』(1957)のルイ・マル、『二十四時間の情事』(1959)のアラン・レネ、『シェルブールの雨傘』(1963)のジャック・ドゥミなど、多くの才能豊かな監督が輩出した。その後もゴダールの『気狂(きちが)いピエロ』(1965)、トリュフォーの『夜霧の恋人たち』(1968)をはじめ意欲的な作品が次々に生み出され、ヌーベル・バーグは1960年代のフランス映画を決定的にリードした。

 ドキュメンタリー映画の分野では、現実への積極的な介入を通して社会の真実をとらえようとする「シネマ・ベリテ」cinéma-véritéの運動が起こり、ジャン・ルーシュJean Rouch(1917―2004)の『我は黒人』(1958)、クリス・マルケルChris Marker(1921―2012)の『美しき五月』(1963)などの重要な成果がもたらされた。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

ポスト・ヌーベル・バーグと作家主義

フランス社会を大きく揺るがした1968年の五月革命は映画界にも波及し、ヌーベル・バーグの集団的な運動は後退して、それぞれの監督が独自の道を歩き始めた。その極端な例はゴダールで、彼はいっさいの商業映画を否定し、『イタリアにおける闘争』(1970)などの戦闘的な政治映画に身を投じた。一方、トリュフォーは『恋のエチュード』(1971)などで円熟した手腕をみせ始め、ロメールは『クレールの膝(ひざ)』(1970)をはじめとする「六つの教訓話」シリーズを連作した。

 また、1970年代には、特異な問題意識とスタイルをもった新たな監督が注目を集めた。女流作家のマルグリット・デュラスは『インディア・ソング』(1975)ほかの作品で映像と言語の関係を鋭敏な感性で追求し、同じく作家のアラン・ロブ・グリエは『快楽の漸進的横滑り』(1973)などで映画における物語構造の解体を企てた。ジャン・ユスターシュJean Eustache(1938―1981)の『ママと娼婦(しょうふ)』(1972)やアンドレ・テシネAndré Téchiné(1943― )の『フランスでの思い出』(1975)は、フランス社会の根源的な矛盾を鋭くえぐり出した。このほか、『一緒に老(ふ)けるわけじゃなし』(1972)のモーリス・ピアラMaurice Pialat(1925―2003)、『サン・ポールの時計屋』(1973)のベルトラン・タベルニエ、『頭の中の指』(1974)のジャック・ドアイヨンJacques Doillon(1944― )、『一番うまい歩き方』(1976)のクロード・ミレールClaude Miller(1942―2012)など、それぞれに個性的な監督が活動を開始した。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

多様性の時代

1980年代のフランス映画は、そうした多様性を継承しつつ、安定した発展をみせた。すなわち、『秘密の子供』(1979)のフィリップ・ガレルPhilippe Garrel(1948― )や『30歳で死す』(1982)のロマン・グーピルRomain Goupil(1951― )がきわめて私的な映画づくりを展開する一方で、ピアラ、タベルニエ、ドアイヨン、ミレールらは中堅監督として認められ、さらに『勝手に逃げろ/人生』(1980)で商業映画に復帰したゴダール、『終電車』(1980)で国民的支持を得たトリュフォー、新たに「喜劇と諺(ことわざ)」シリーズに着手したロメールなど、ヌーベル・バーグ世代はいまや巨匠とみなされるに至った。

 その一方で、1980年代には新しい世代が登場した。『ディーバ』(1981)のジャン・ジャック・ベネックスJean-Jacques Beineix(1946―2022)、『薔薇(ばら)の名前』(1986)のジャン・ジャック・アノーJean-Jacques Annaud(1943― )、続いて『ニキータ』(1990)のリュック・ベッソン、『ポンヌフの恋人』(1991)のレオス・カラックス、『デリカテッセン』(1991)のジャン・ピエール・ジュネJean-Pierre Jeunet(1953― )とマルク・キャロMarc Caro(1956― )など、一部で新しいエンターテインメントを志向しながら、それぞれが個性的で多様な世界を表現し始めた。

 こうした若い世代の活躍には目を見張るものがあり、製作本数が減少した1990年代前半においても年間20~30本以上の長編デビュー作が製作された。そして、1990年代には、ジャン・ポール・ラプノーJean-Paul Rappeneau(1932― )の『シラノ・ド・ベルジュラック』(1990)やレジス・バルニエRégis Wargnier(1948― )の『インドシナ』(1992)などのように、歴史劇やメロドラマを中心に「良質の映画」の伝統を受け継いだ中堅監督たちが活躍をみせ、さらに『そして僕は恋をする』(1995)のアルノー・デプレシャンArnaud Desplechin(1960― )や『家族の気分』(1996)のセドリック・クラピッシュCédric Klapisch(1961― )をはじめ、マチュー・カソビッツMathieu Kassovitz(1967― )、エリック・ゾンカErick Zonca(1956― )、セドリック・カーンCédric Kahn(1966― )、フランソワ・オゾンFrançois Ozon(1967― )、ブリュノ・デュモンBruno Dumont(1958― )といった若い才能が次々と出現した。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

現状

2000年代に入ったフランス映画は、全世帯の約80パーセントがビデオデッキを備え、800万世帯以上がケーブル・テレビに加入するなど、新たな映像時代を迎えている。そんな状況のなか、ゴダールやシャブロルたち巨匠をはじめ、ベッソンやデプレシャンたち中堅が活躍する一方で、『私はどのように父を殺したか』(2001)のアンヌ・フォンテーヌAnne Fontaine(1959― )、『ヒューマンネイチュア』(2001)のミシェル・ゴンドリーMichel Gondry(1963― )をはじめ、クリストフ・バラティエChristophe Barratier(1963― )、ロバン・カンピオRobin Campillo(1962― )、ステファヌ・ブリゼStéphane Brizé(1966― )といった若い世代が登場し、新鮮な感性によってフランス映画の幅を広げている。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

 21世紀初頭の最大の特徴は、女性監督の台頭だろう。ベテランのクレール・ドニClaire Denis(1948― )は『ガーゴイル』(2001)、『ホワイト・マテリアル』(2009)など異文化と女性の問題を扱う作品を発表し続け、カトリーヌ・ブレイヤCatherine Breillat(1948― )は『ロマンスX』(1999)などでフェミニズムの追及を続けている。パスカル・フェランPascale Ferran(1960― )は、『レディ・チャタレー』(2006)で新しいチャタレイ像を示した。さらに若い世代では、バレリー・ドンゼッリValerie Donzelli(1973― )は、『わたしたちの宣戦布告』(2011)で障害のある子どもを育てる若い夫婦を鮮烈に描き、ミア・ハンセン・ラブMia Hansen-Love(1981― )は、『あの夏の子供たち』(2009)で夫の死後生きてゆく若い母の強い生き方をみせた。

 男性監督では、フランソワ・オゾンやベルギー出身のダルデンヌ兄弟が評価の高い作品を作り続けている。グザビエ・ボーボワXavier Beauvois(1967― )は『神々と男たち』(2010)がようやくヒットし、クリストフ・オノレChristophe Honoré(1970― )は『美しいひと』(2008)など着実につくり続けている。最近では、『アーティスト』(2011)でアカデミー作品賞など7部門を制したミシェル・アザナビシウスMichel Hazanavicius(1967― )や『最強のふたり』(2011)が世界中でヒットしたエリック・トレダノEric Toledano(1971― )とオリビエ・ナカーシュOlivier Nakache(1973― )のコンビのように、海外でもヒットする娯楽作品を手がける監督も増えている。

[古賀 太]

俳優

優れた映画製作国の例に漏れず、フランスもまた多くの優秀な映画俳優を生み出した。第二次世界大戦前では、男優のアルベール・プレジャンAlbert Préjean(1894―1979)、ジャン・ギャバン、モーリス・シュバリエ、シャルル・ボアイエ、女優のフランソワーズ・ロゼーらのスターが一世を風靡(ふうび)し、またミシェル・シモンMichel Simon(1895―1975)やルイ・ジューベなどの特異な個性をもった俳優が活躍した。第二次世界大戦後では、男優のジェラール・フィリップやジャン・マレー、ジャン・ルイ・バロー、女優のダニエル・ダリュー、シモーヌ・シニョレSimone Signoret(1921―1985)、ミシュリーヌ・プレールMicheline Presle(1922―2024)らが充実した仕事ぶりをみせた。1950年代後半にはアラン・ドロンとブリジット・バルドーの二大スターが出現し、またヌーベル・バーグはジャン・ポール・ベルモンド、ジャン・クロード・ブリアリJean-Claude Brialy(1933―2007)、ジャンヌ・モロー、アンナ・カリーナAnna Karina(1940―2019)、カトリーヌ・ドヌーブらを世に送り出した。1980年代から1990年代にかけては、ジェラール・ドパルデューGérard Depardieu(1948― )、ダニエル・オートゥイユDaniel Auteuil(1950― )、イザベル・アジャーニIsabelle Adjani(1955― )、サンドリーヌ・ボネールSandrine Bonnaire(1967― )、ジュリエット・ビノシュJuliette Binoche(1964― )らが活躍した。その後、2000年代にかけては、ジャン・マルク・バールJean-Marc Barr(1960― )、ブノワ・マジメルBenoît Magimel(1974― )、バレリア・ブルーニ・テデスキValeria Bruni-Tedeschi(1964― )、シャルロット・ゲンズブールCharlotte Gainsbourg(1971― )らの個性豊かな演技が目だっている。

[岩本憲児・武田 潔・村山匡一郎]

 女優のベテランでは、カトリーヌ・ドヌーブが『しあわせの雨傘』(2010)など活躍を続けているが、2010年代、外国でも有名な女優は、マリオン・コティヤールMarion Cotillard(1975― )である。『エディット・ピアフ 愛の賛歌』(2007)がアカデミー賞主演女優賞を得て以来、『インセプション』(2010)などハリウッドへの出演が続く。子役時代から活躍してきたビルジニー・ルドワイヤンVirginie Ledoyen(1976― )もダニー・ボイルDanny Boyle(1956― )監督の『ザ・ビーチ』(2000)ほか外国でも活躍。彼女とともにフランソワ・オゾン監督『8人の女たち』(2002)に出演したリュディビーヌ・サニエLudivine Sagnier(1979― )は、ジャン・フランソワ・リシェJean-François Richet(1966― )監督の『ジャック・メスリーヌ――フランスで社会の敵No.1と呼ばれた男』(2008)の評価が高い。そのほかレア・セドゥーLéa Seydoux(1985― )は『マリー・アントワネットに別れをつげて』(2012)で主演し、若手の注目株である。

 男優では、マチュー・アマルリックMathieu Amalric(1965― )が『潜水服は蝶(ちょう)の夢を見る』(2007)などアート系の映画で活躍し、『さすらいの女神たち』(2010)で監督・主演を務めた。メルビル・プポーMelvil Poupaud(1973― )も、『ぼくを葬(おく)る』(2005)などアート系で活躍。メジャーでは、喜劇俳優のダニー・ブーンDany Boon(1966― )が監督・出演した『シュティスへようこそ』(2008)が、フランス映画最大の2000万人を超すヒット。この映画に主演したアルジェリア系のカド・メラドKad Merad(1964― )も人気抜群である。

[古賀 太]

『飯島正著『フランス映画史』(1950・白水社)』『岡田晋・田山力哉著『世界の映画作家29 フランス映画史――リュミエールからゴダールまで』(1975・キネマ旬報社)』『M・マルタン著、村山匡一郎訳『フランス映画1943―現代』(1987・合同出版)』『J・ドゥーシェ他著、梅本洋一訳『パリ、シネマ――リュミエールからヌーヴェルヴァーグにいたる映画と都市のイストワール』(1989・フィルムアート社)』『村山匡一郎著『映画100年 STORYまるかじり――フランス篇快作220本』(1994・朝日新聞社)』『ジョルジュ・サドゥール著、丸尾定・村山匡一郎・出口丈人・小松弘訳『世界映画全史5 無声映画芸術への道――フランス映画の行方1 1909―1914』(1995・国書刊行会)』『清水馨著『しねま・ふらんせ100年物語』(1995・時事通信社)』『中川洋吉著『カルチエ・ラタンの夢 フランス映画七十年代』(1998・ワイズ出版)』『山田宏一著『山田宏一のフランス映画誌』(1999・ワイズ出版)』『細川晋監修、遠山純生編『ヌーヴェル・ヴァーグの時代 1958―1963』改訂版(2003・エスクァイアマガジンジャパン)』『中川洋吉著『生き残るフランス映画――映画振興と助成制度』(2003・希林館)』『山崎剛太郎著『一秒四文字の決断――セリフから覗くフランス映画』(2003・春秋社)』『中条省平著『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「フランス映画」の意味・わかりやすい解説

フランス映画 (フランスえいが)

リュミエール兄弟が1895年12月28日に,パリの〈グラン・カフェ〉で彼らが発明した〈シネマトグラフ〉(撮影機兼映写機)の成果を世界で初めてスクリーンに映写して有料上映会,すなわち興行を行ったときから,真のフランス映画史が始まる。写真家出身のルイ・リュミエール(弟)は実写フィルム(《赤ん坊の食事》《工場の出口》《列車の到着》等々いずれも1895年の製作)を撮ったが,これに対して,〈シネマトグラフ〉の発明に魅せられた奇術師ジョルジュ・メリエスは,数々の夢幻的なトリック映画(《呪われた洞窟》1897,《水上を歩くキリスト》1899,《魔法の本》1900,《月世界旅行》1902,等々)をつくった。リュミエールの写実性とメリエスの幻想性という二つの傾向を根底に受け継いでいるのがフランス映画であるとみる映画史家が多い。しかし,リュミエールの《水をかけられた撒水夫》(1905)にはすでに最初の〈笑いを生み出すシチュエーションを演出した〉フィクション(=喜劇)の試みが見られ,またメリエスがステージのなかで再現した《ハバナ湾におけるメイン号の爆発》(1898),《ドレフュス事件》(1899)などにはセットによるみごとなリアリズムの表現があった。

1900年の初めには,シャルル・パテーのパテー映画社とレオン・ゴーモンのゴーモン社が台頭し,フランスの二大映画会社に発展する。とくにパテー映画社は1903年から09年まで〈パテー映画時代〉と呼ばれるほどの隆盛で,それはまずパテー映画社の製作総支配人であったフェルディナン・ゼッカFerdinand Zeccaが監督し,〈リアリズム映画の先駆〉となった《ある犯罪の物語》(1901)から始まり,メリエスを模倣した〈夢幻劇〉からアンドレ・デードAndré Deedの喜劇に至るまで数々の作品を量産,フランスのみならずヨーロッパの映画市場を独占した観があった。1907年にデードがイタリアに去ったあと,その後を継いだのがマックス・ランデル(日本では長い間ランデと表記されてきた)で,やがてチャップリンにも影響を与えるその洒脱な喜劇が,第1次世界大戦まで全盛期を迎える。

 映画を通俗的な娯楽として発展させようとしたアメリカ(ハリウッド)の歴史とは対照的に,映画を〈芸術〉に高めようとする志向がフランス映画には早くからあり,1907年にラフィット兄弟によって設立された〈フィルム・ダールFilm d'Art社〉がまず,安っぽい短編,トリック映画,見世物的映画の興行的行詰りを打開するために,当時の舞台の芸術家,人気俳優を起用し,またアナトール・フランスやエドモン・ロスタンといった有名作家のオリジナルシナリオや文豪の名作を映画化して新しい知識階級の観客層をつかまえ,まさに〈フィルム・ダール(芸術映画)〉への道を開くことになる(しかし,映画史家・理論家モーリス・ベッシーのように,〈それ自身においては演劇の複製に止まり,映画を誤った方向へ向かわせる結果となった〉という見方もある)。劇作家のアンリ・ラブダン作,アンドレ・カルメット,ル・バルジー共同演出,コメディ・フランセーズの名優たちの出演による《ギーズ公の暗殺》(1908)の大ヒットから,パテー映画社が設立したS.C.A.G.L.(著作者・文学者映画協会)の製作による,アルベール・カペラーニ演出,アンドレ・アントアーヌの自由劇場の名優の出演によるユゴー原作《ノートル・ダム・ド・パリ》(1911),《噫無情》(1912),アンドレ・アントアーヌ演出によるゾラの《ジェルミナール》(1914)等々をへて,ルイ・メルカントン演出,名女優サラ・ベルナール主演の大作《エリザベス女王》(1912)に至るまで,〈フィルム・ダール〉の名で呼ばれた演劇的文芸映画がヨーロッパのみならずアメリカにも影響を及ぼし(アドルフ・ズーカーが《エリザベス女王》を全米で公開して大ヒットさせ,フィルム・ダール社の映画づくりをモデルにパラマウントの前身であるフェイマス・プレイヤーズ社を創設したことはよく知られている),映画史上一つのエポックを画した。なお,先のパテー映画社はフィルム・ダール社の全作品の配給権を握ると同時に製作もした。

パテー映画社の最大のライバルはゴーモン社であった。世界最初の女流監督として知られるアリス・ギーAlice Guyの後を継いで製作責任者兼監督となったルイ・フイヤードの力で,ゴーモン社は1910年代半ばには完全にパテー映画社を追い越してフランス映画界の覇者となった。その頂点が《ファントマ》(1913-14)から《ドラルー》(1915-16),《ジュデックス》(1917)に至るフイヤード監督の連続活劇film à épisodes(〈シネ・ロマン〉とも呼ばれた)で,興行的大成功のみならず,芸術家(なかでもブルトン,アラゴンをはじめとするシュルレアリストたち)を熱狂させたのであった。アラゴンの処女小説《アニセまたはパノラマ》(1920)には〈活劇〉と題する章があり,〈まさに現代にふさわしい見世物〉として連続活劇へのオマージュがつづられている。

 なお連続活劇の創始者はビクトラン・ジャッセVictrin Jasset(1862-1913)で,作品としては《ニック・カーター》(1908)が世界最初の連続活劇として知られる。次いで日本にも大きな影響を及ぼした《ジゴマ》(1911)がやはりジャッセの手でつくられる(活劇映画)。また〈連続活劇の女王〉とうたわれたパール・ホワイト主演の一連のシリーズをつくってアメリカの連続活劇の創始者となったルイ・ガスニエLouis Gasnier(1882-1962)もパテー映画社のアメリカ支社の初代監督であり,このように世界映画史において連続活劇を生み出したのはフランス人であったことがわかる。これらの連続活劇,とくにフイヤード作品には,オール・ロケによる〈生活の断片〉が画面をいきいきとさせており,舞台のセットで撮影された〈フィルム・ダール〉に欠けていたリアリズムの命脈を,この連続活劇によって保持したことがいかに映画史的に重要であるかは,飯島正もその著《前衛映画理論と前衛芸術》(1970)において指摘しているところである。

アメリカ映画が〈娯楽産業〉として発展していく傾向に対して,あくまでも純粋な〈芸術〉をめざすフランス映画の特色が明確に現れたのが,第1次大戦後の1920年代でアベル・ガンス監督の有名な〈映像の時代が到来した〉というマニフェストに象徴されるように,映画を〈新しい芸術の表現形式〉と考え,あらゆる〈公式主義と画一主義を排して〉,映像による詩や音楽をつくろうとする映画芸術派が主流をなすに至った。ルネ・ジャンヌが〈フランス派〉と呼び,ジョルジュ・サドゥールが〈フランス印象派〉と名づけた映画作家たちが一時代をつくる。斬新なフラッシュ・バックによって映像を躍動させた《鉄路の白薔薇》(1923),あるいは〈トリプル・エクラン(三面スクリーン)〉によって映像の〈交響楽〉を奏でた《ナポレオン》(1927)などのガンス,装置の様式化,新しい照明,歪曲レンズの使用,極端なソフト・フォーカスなどによって新鮮な映像づくりを試みた《エル・ドラドオ》(1921),《生けるパスカル》(1925)などのマルセル・レルビエMarcel L'Herbier(1890-1979),スロー・モーションや二重露出による映像で詩を表現しようとした《滴る血潮》(1924),《アッシャー家の末裔》(1928)のジャン・エプスタン,幻想的な映像による〈砂漠の砂のフォトジェニー〉で鮮烈な印象を与えた《女郎蜘蛛》(1921)や〈繊細な心理描写〉に成功した《テレーズ・ラカン》(1928)のジャック・フェデルらがその代表的存在であった。〈アバンギャルド映画〉が〈非商業主義の旗をかざして扇動者のごとき役割までも帯びはじめる〉(モーリス・ベッシー)のもこの時代であり(〈アバンギャルド〉の項の[映画]を参照),〈純粋映画〉を求める映画理論が発達するのもこの時代だが,サドゥール《世界映画史》によればフランス映画そのものは〈国際的影響力を少しももたず〉〈恐るべき企業的退廃〉におちいったのが20年代であった。

1920年代にフランスのサイレント映画に興味ある役割を果たしたのが,監督のアレクサンドル・ボルコフ,ビクトル・トゥールヤンスキー,ディミトリ・キルサノフ,俳優のイワン・モジューヒン,女優のナタリー・リセンコといった亡命ロシア人の映画集団で,22年にはアレクサンドル・カメンカAlexandre Kamenkaの支配下に映画会社〈アルバトロスLes Films Albatros〉が設立され,ボルコフ監督,モジューヒン主演の《キイン》(1922),トゥールヤンスキー監督,リセンコ主演の《恋の凱歌》(1922)などのほか,マルセル・レルビエ(《生けるパスカル》1925),ルネ・クレール(《イタリア麦の帽子》1927),ジャック・フェデル(《カルメン》1926)等,やがてトーキー時代のフランス映画を支えることになる重要な監督たちのサイレント映画も製作,トーキー時代に入ってからもジャン・ルノアール監督《どん底》(1936)などを製作した。

レオン・ゴーモンがフィルムと蓄音機を組み合わせたトーキー映画をパリ万国博に出品したのが1900年のことだから,フランス映画のトーキー化の試みは世界各国に先立って行われていたことになる。しかし,その産業化に成功したのはアメリカであり,アメリカのトーキー映画の攻勢によってフランス映画はいよいよ混迷し,サイレント時代の映画産業を支配してきた二大会社,ゴーモンとパテーも弱体化して,小プロダクションの分立というフランス映画独特の製作システムが生ずる。

 ルネ・クレール監督《イタリア麦の帽子》とカール・ドライヤー監督《裁かるゝジャンヌ》(1928)という〈サイレント映画芸術のもっとも完成された作品〉であると同時に〈限りなくトーキーに近づいたサイレント映画〉が,サドゥールによれば,〈音とことばを招き〉,フランスの撮影所のトーキー設備がまだ整わない間に,イギリスの撮影所を借りてフランス最初のトーキー映画《三仮面》(1929。アンドレ・ユゴン監督)がつくられ,次いで名実ともにフランス最初のトーキー映画《夜はわれらのもの》(1929。アンリ・ルーセル監督)がつくられる。そして仏独英3ヵ国語版が製作されたドライヤーのトーキー第1作《吸血鬼》(1931)は興行的に失敗するものの,〈音の対位法〉を探求したクレールのトーキー第1作《巴里の屋根の下》(1930)はフランスの〈トーキー映画の宣言〉となり,また,クレジットタイトルを画面に文字で出す代わりにすべて音声化,すなわち朗読してしまうというトーキーならではの試みを実現したレルビエ監督《黄色の部屋》(1930)などの成功をへて,フランス映画はトーキー時代に入る。

 この時期に注目されるのは,マルセル・パニョルとサッシャ・ギトリー(ギトリー父子)という2人の演劇人の活躍で,とくにパニョルは,自作の戯曲がまずアレクサンダー・コルダ監督によって(《マリウス》1931),次いでルイ・ガスニエ監督によって(《トパーズ》1932),そしてマルク・アレグレ監督によって(《ファニー》1932)映画化されたのに刺激され,33年には映画雑誌《レ・カイエ・デュ・フィルム》を創刊し,サイレント映画がパントマイムの具象化であり完成であったのに対して〈トーキーは演劇の具象化であり再創造である〉という独特のトーキー映画論を展開,自分の映画会社を創立し,マルセイユに撮影所を建設して,みずから製作・監督に乗り出し,《アンジェール》(1934),《セザール》(1936),《二番芽》(1937),《ル・シュプンツ》《パン屋の女房》(ともに1938)等々を映画化,レーミュ,フェルナンデルといった南フランスのマルセイユなまりの名優に成功をもたらした。同じころパリでは〈芝居の神さま〉といわれたブールバール劇の作者であり演出家であり俳優であるサッシャ・ギトリーも自作の戯曲を次々に映画化し,《とらんぷ譚》(1936),《王冠の真珠》(1937)等々で徹底的な話術,〈語り〉の芸で映画に新形式をもちこみ(のちにオーソン・ウェルズに強い影響を与えた),パニョルとともに,フランス映画史に特異な地位を占めるに至った。

〈アバンギャルド〉のドキュメンタリー映画《ニースについて》(1930)から出発し,戦後まで公開禁止になった〈スキャンダラスな〉短編劇映画《新学期・操行ゼロ》(1932),次いで唯一の長編《アタラント号》(1934)を残して,〈天才詩人〉と呼ばれて期待されたジャン・ビゴが29歳で死んだ1934年から,フランス映画はようやく〈暗黒時代〉から抜け出て,新しい時代を迎えることになる。フェデル監督《外人部隊》(1934),《ミモザ館》《女だけの都》(ともに1935)から始まる30年代のフランス映画の〈自然主義〉的傾向は,フェデルの弟子のマルセル・カルネ(1909-96。《ジェニイの家》1936,《霧の波止場》1938),それにジュリアン・デュビビエ(《我等の仲間》《望郷》ともに1936,《旅路の果て》1939),ジャン・ルノアール(《大いなる幻影》1937,《獣人》1938,《ゲームの規則》1939)などの作品も含めて,映画史家サドゥールによって〈レアリスム・ポエティック(詩的リアリズム)〉と名づけられた。この〈新しいフランス派〉(とロジャー・マンベルは呼んでいる)の映画の特質は,アンドレ・バザンによれば〈本物そっくりにつくられた正確でリアルなセットに人物たちの心理やドラマが光のように反映して,すべてのディテールが象徴にまでたかまり,そこから,たくまずして詩が生まれてくる〉ところにあり,その意味での〈詩的リアリズム〉を実現したのは,ドイツ表現派のカメラマンだったオイゲン・シュフタンによる撮影,ハンガリー生れのセット・デザイナーであるアレクサンドル・トローネルによる美術に支えられたカルネ=プレベール作品(監督マルセル・カルネ,脚本ジャック・プレベールのコンビによる作品)であり,とくに《霧の波止場》がその代表作とみなされている。フェデル,カルネ,デュビビエ,ルノアールはまた,サドゥールによってフランス映画の〈戦前の4巨匠〉と名づけられた(ルネ・ジャンヌはカルネを除き,ルネ・クレールを加えて〈4巨匠〉としている)。

戦時中は,ナチスの圧制を避けて,〈4巨匠〉のうち,フェデルはスイスへ,デュビビエとルノアールはアメリカへのがれ(ルネ・クレールもすでにハリウッドに行っていた),カルネだけがフランスにとどまった。そして,時事的な主題や現代的な物語をいっさい禁じられたナチス占領下の状況のなかで,詩人のプレベールと組んで,中世の幻想的なロマンス《悪魔が夜来る》(1942),19世紀のロマン派演劇華やかなりしころのパリの犯罪大通りを舞台にした恋愛メロドラマ《天井桟敷の人々》(1943-44)を撮って大成功を収めた。マルセル・レルビエ監督《幻想の夜》(1942),クリスチャン・ジャックChristian-Jaque監督《幻想交響楽》(1943),ジャン・ドラノワ監督《悲恋》(1943),《血の仮面》(1944),クロード・オータン・ララ監督《シフォンの結婚》(1942),《乙女の星》(1945)といった幻想的な物語やメロドラマや探偵ものやコスチュームもの等々の〈現実逃避映画〉がビシー政権下のフランス映画を彩るものであったが,そのなかから孤高の喜劇王ジャック・タチのほか,アンリ・ジョルジュ・クルーゾ(《犯人は21番街に住む》1942),ジャック・ベッケル(《最後の切り札》1942,《赤い手グーピ》1943),ロベール・ブレッソン(《罪の天使たち》1943,《ブーローニュの森の貴婦人たち》1944)といった重要な監督がデビューし,ハリウッドから帰って来たマックス・オフュルス,ジャン・ルノアールらとともに戦後のフランス映画のリアリズムの流れをつくることになる。サドゥールはその著《世界映画史》のなかで,〈ニュース映画のスタイルでふつうの人々の生活〉を描いたジャン・グレミヨン監督《大空はあなたのもの》(1943)を〈ナチス占領下のフランス映画の最良作〉と評価している。

1946年に国家単位でフランス映画産業を保護育成する目的の下に中央映画庁(CNC)が設けられ,翌47年に映画金融公庫(映画産業助成基金)が設置されて戦後のフランス映画がスタートすることになるが,作品としてはすでに大戦直後に〈戦後〉の出発点になる2本の重要な映画がつくられた。オール・ロケのドキュメンタリズムで貫かれたルネ・クレマン監督のレジスタンス映画《鉄路の闘い》(1945)と,これとは正反対の〈夢幻的〉なジャン・コクトー監督のおとぎ話《美女と野獣》(1946)である。またも写実性と幻想性のはざまに,フランス映画は創造と破壊,あるいは退廃と断絶を繰り返しながら発展していくことになる。そしてジャン・オーランシュとピエール・ボストの脚本家コンビによる文芸名作の映画化(オータン・ララ監督《肉体の悪魔》1946,《青い麦》1953,《赤と黒》1954,等々)を中核とするフランス映画の〈良き伝統〉が凡庸と退廃におちいったとき,〈ヌーベル・バーグ〉がフランス映画を刷新することになる。

 しかし,その後は,アメリカ資本の進出に押され,とくに1968年の〈五月革命〉以後は,映画助成金制度の〈民主化〉によって新人監督にデビューのチャンスがいっそう大幅に与えられるようになったものの,そのぶんだけ作品も小粒になり,粗製濫造ぎみになった。〈ラジカルに政治化〉した反商業主義映画(ジャン・リュック・ゴダールとジガ・ベルトフ集団による〈革命的闘争映画〉)もあれば,〈国民的喜劇王〉ルイ・ド・フュネスの映画(《大追跡》1964,《大進撃》1966)が大ヒットし,コスタ・ガブラスConstintin Costa-Gavras監督《Z》(1968),イブ・ブワッセ監督《暴行》(1972)といった〈政治サスペンス映画〉も流行する。次いで占領時代への回顧ブームに乗って〈ノスタルジー映画〉(マルセル・オフュルス監督《悲しみと憐れみ》1969,ルイ・マル監督《ルシアンの青春》1973,等々)が流行,また74年にはジスカール・デスタン大統領,ミシェル・ギー文化相の下で映画検閲が撤廃されて〈ポルノの自由化〉が急激に進み,《エマニエル夫人》(1974)のロング・ヒット,〈ハードコア〉のポルノ映画のブーム,そして70年代末から80年代初めにかけてはジャン・ポール・ベルモンドのコミカルなアクション映画(《警部》1979,等々)の未曾有のヒットやゴダールの商業映画への復帰(《カルメンという名の女》1983)が評判になったが,その間にフランス映画は完全に国際性を失ってしまった観がある。

 なお,国際的に知られたフランス映画のスターとしては,ハリウッドで活躍したモーリス・シュバリエ,シャルル・ボワイエを別にすれば,戦前から戦後にかけてもっとも長く人気を保ったジャン・ギャバンを筆頭に,トーキー初期の小唄映画やルネ・クレールの喜劇で人気のあったアルベール・プレジャン,戦後のルネ・クレールの喜劇や数々の文芸映画の名作に主演したフランス映画界きっての二枚目ジェラール・フィリップ,女優では連続活劇(《ドラルー》1915-16)の〈バンプ〉として知られたミュジドラ,《うたかたの恋》(1936)などでその美貌が一世をふうびしたダニエル・ダリュー,ギャバンと共演の《霧の波止場》(1938)からジェラール・フィリップと共演の《夜の騎士道》(1955)に至るミシェール・モルガン,戦後の大女優として知られるシモーヌ・シニョレ(《肉体の冠》1951),〈全裸女優〉マルティーヌ・キャロル(《浮気なカロリーヌ》1952),〈セックス・シンボル〉となったブリジット・バルドー(《素直な悪女》1956),〈ヌーベル・バーグ〉の大女優ジャンヌ・モロー(《死刑台のエレベーター》1957),〈フランスのガルボ〉とハリウッドのリポーターによってその美しさがたたえられたカトリーヌ・ドヌーブ(《シェルブールの雨傘》1964)らがいる。
ヌーベル・バーグ
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランス映画」の意味・わかりやすい解説

フランス映画
フランスえいが

リュミエール兄弟によるシネマトグラフの発明や G.メリエスによるトリック撮影の工夫など,フランスは映画史の初期に重要な役割を果したが,創造性においては遅れをとっていた。飛躍をとげたのは第1次世界大戦後で 1920年代にはイメージの表現力とリズムが重視され前衛映画も多く発表された。そして,前衛映画から出発してトーキー初期の代表作『巴里の屋根の下』 (1930) を発表した R.クレールをはじめ,J.デュビビエ,J.フェデー,J.ルノアールらが,人間洞察にすぐれた作品を手がけ,30年代黄金時代を築いた。第2次世界大戦下でも M.カルネの『天井棧敷の人々』 (44) などの名作が生れ,戦中・戦後にかけては H.-J.クルーゾー,R.ブレッソン,R.クレマンらが登場,レジスタンス映画や人間心理のひだに入り込むリアリズム重視の作品を手がけた。やがて 50年代末にはヌーベルバーグと呼ばれる若い世代が台頭,『勝手にしやがれ』 (60) の J.-L.ゴダールと『大人は判ってくれない』 (59) の F.トリュフォーがその代表格。その後も彼らは独自の映像世界を展開したが,70年代の不況によりフランス映画は衰退した。しかし,80年代になると J.-J.アノー,J.-J.ベネックスら新世代が台頭。さらに L.カラックス,L.ベッソンらの青年監督が輩出,斬新な感覚で現代を活写する彼らは,新ヌーベルバーグ派と呼ばれる。以後フランス映画界は息を吹返し,映像と主題のユニークさにおいて独特の地位を占めている。

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