19世紀ドイツの厭世(えんせい)思想家。
[佐藤和夫 2015年2月17日]
グダニスク(ダンツィヒ)で富裕な銀行家のもとに生まれ、生涯生活の心配なく暮らした。幼少期からイギリス、フランスなどヨーロッパ諸国を旅行し、それが彼の世界観・芸術観にも影響している。また、女流作家である母ヨハンナJohanna Schopenhauer(1766―1838)との不和・対立は有名で、彼独特の女嫌いと女性蔑視(べっし)の考えの一因になっている。父の死後、1809年よりゲッティンゲン大学で歴史・自然科学を、ほかに懐疑主義者シュルツェGottlob Ernst Schulze(1761―1833)について哲学を学んだ。そこで学んだプラトンとカントの思想はインドのベーダーンタ哲学と並んで、彼の哲学体系を構成する基本的な枠組みとなっている。学位論文『充足理由律の四つの根拠について』(1813)や、ゲーテの色彩論に刺激された『視覚と色彩について』といった著作を完成しているが、なんといっても主著は『意志と表象としての世界』(1819)である。20代後半から30歳にかけて書かれたこの著作に彼の後生のすべては捧(ささ)げられたといって過言ではない。しかし、この主著は、当時かならずしも高い評価を得ず、自信をもっていた彼はひどく失望した。とはいっても、この著作がきっかけとなって、彼はベルリン大学の私講師となった。当時、ベルリン大学はヘーゲルの人気が頂点に達していたが、ショーペンハウアーは、わざとヘーゲルの講義と同じ時間に講義を開くという告知を出した。結果は惨めなもので、ヘーゲルの講義は満員であったが、ショーペンハウアーの講義は成立しなかった。彼が世に認められるようになったのは1851年の『余録と補遺』(邦訳書は『自殺について』『読書について』『知性について』などとして出版)と名づけられる晩年の著作によってであるが、この評価の高まりは、1848年の三月革命の敗北によるドイツでのある種の閉塞(へいそく)状況に対応するものであった。日本でも戦前の重苦しい雰囲気のなかで「デカンショ」といって、デカルト、カントと並んでショーペンハウアーが学生たちに読まれたのも、戦争に突き進む日本の暗い現実を抜きには考えられない。
[佐藤和夫 2015年2月17日]
ショーペンハウアーによれば、世界とは「わたしの表象」であり、現象にほかならない。つまり、主観である意志に対応する客観としてのみ、世界が存在する。時間・空間・因果関係においてある現象に対して、カントのたてた物自体とは実は意志そのものにほかならない。それは「生きんとする盲目的意志」であり、満たされない欲望を追求するがゆえに、生とは苦痛なのである。彼によれば、人類の歴史、時代の変転などの人間の多様な形態は、意志の適切な客体性であるイデアを読み取りうる限りで意味をもつのであって、それ自体においてはどうでもよいものである。このイデアを認識しうるのが芸術であり、なかでも音楽は、意志を直接にイデアという媒介なしに客観化するという点で卓越している。しかし、芸術による生の苦痛からの解脱(げだつ)は一時的なものでしかない。そこで生の苦痛から解脱するには、意志の否定によって無私の行為へと向かい、梵我一如(ぼんがいちにょ)の境地、涅槃(ねはん)の境地へ達するという倫理の次元こそが、真に求められるものである。
[佐藤和夫 2015年2月17日]
『西尾幹二訳「意志と表象としての世界」(『世界の名著45 ショーペンハウアー』所収・1980・中央公論社)』▽『斎藤忍随訳『読書について』(岩波文庫)』▽『細谷貞雄訳『知性について』(岩波文庫)』▽『斎藤信治訳『自殺について』(岩波文庫)』
この世界は考えうるかぎりの最悪の世界だというペシミズムを説いたドイツの哲学者。ハンザ同盟の自由都市ダンチヒ(現,ポーランド領グダンスク)に生まれる。父ハインリヒ・フローリスは富裕な商人,母ヨハンナはゲーテとも親交のあった著名な文筆家であった。自由な世界市民として育てようという両親の方針から,幼時より父にともなわれてフランスやイギリスに旅行し,その地で教育も受けた。父の死後その遺志に従って商人の見習いをはじめたが,学問への情熱を断ち切れず,1809年からゲッティンゲン大学でカントとプラトンの研究に没頭,11年にはベルリン大学に移ってフィヒテやシュライエルマハーの講義を聴くが不満を抱く。13年に《根拠律の四根について》を書き,イェーナ大学で学位を取得,このころからワイマールでゲーテに親しみ,その影響下に15年《視覚と色彩について》を著した。また東洋学者F.マイヤーとの交友を通じてインドの古典に開眼する。18年に主著《意志と表象としての世界》を完成,翌年刊行したが,まったく無視される。20年にベルリン大学講師の地位を得たが,ヘーゲルに対抗して講義時間をヘーゲルのそれに合わせたため聴講者はなく,半年で辞職。31年フランクフルト・アム・マインに移り,以後はそこで終生独身のまま隠者のような生活を送った。43年主著の続編を完成,51年には《余録と補遺》という哲学的随想集を刊行し,その達意な文章と味わい深い人生論的洞察によってようやく世人の注目を集め,やがてその全思想体系が見なおされることになる。死後,評価はいっそう高まり,K.R.E.vonハルトマン,W.R.ワーグナー,ニーチェ,L.N.トルストイらがその強い影響を受けた。
ドイツ観念論の時代に生きながら,彼はそれには終始強い反発を示し,ドイツ観念論とは違った方向でカント哲学をひきついだ。彼はカントの現象界を〈表象としての世界〉としてとらえ,それは空間,時間,カテゴリーによって構成された個体化された表象にすぎないとする主観的観念論を説いた。一方カントが不可知だとした物自体界を彼は〈意志としての世界〉としてとらえた。表象界の根底には〈意志〉つまり盲目的な生命衝動の渦巻く世界が横たわっているのである。人間存在の根源にも満たされることのない盲目的な意欲が働いており,したがって人生は苦悩であり,この世界は可能なもののうち最悪のものである(ペシミズム=最悪観,厭世観)。この苦悩を逃れるには,芸術によって生命衝動を鎮静し,無関心な認識主観になるか,倫理的・宗教的に利己的自我を脱するかしかない。彼はこうした解脱の道として,厭世的・無神論的な仏教をもっとも高く評価している。彼の哲学は単なる人生論哲学にとどまるものではなく,意志を根源的存在と見るライプニッツ,カントの主意主義を受けつぎ,ニーチェの〈力への意志〉の哲学を準備するものとして,ドイツ形而上学の伝統に確固たる位置を占めるものである。なお,ショーペンハウアーの哲学は日本でも1892年に高山樗牛の《厭世論》によってはじめて一般に紹介され,1910-12年姉崎正治による主著の翻訳《意志と現識としての世界》が出されて以来,大正から昭和にかけて,むしろ学生や一般の読書人によって,ニーチェとともに人生論哲学の書として熱心に読みつがれてきた。
執筆者:木田 元
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1788~1860
ドイツの哲学者。カントの後継者を自任してフィヒテ,シェリングを攻撃した。世界の実体は意志であるが,その意志は盲目的なので人生は苦痛であると説く。ニーチェに強い影響を与えた。主著『意志と表象としての世界』。
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…ウパニシャッドは,19世紀冒頭フランスの東洋学者アンクティル・デュペロンのラテン語訳《ウプネカットOupnek’hat》によってはじめて世界に紹介された。これはペルシア語訳からの重訳であるが,ドイツの哲学者ショーペンハウアーがこの訳によってウパニシャッドを知り,大きな影響を受けたことは有名である。【吉岡 司郎】。…
…プラトンが〈ダイモン〉と名づけ,つねに陶酔とか狂気とかに関連づけられるエロスの現象は,近代哲学の主流を占めた理性主義の立場からは扱いにくいものであったのであろうか。はたして例外的に本格的にエロス・性愛の形而上学を展開したのは非合理主義の哲学者ショーペンハウアーの《意志と表象としての世界》(1819)であった。人間男女がのぼせ上がる恋愛は〈種族の意志〉としての性衝動の発現による悲喜劇的幻影にすぎないと彼は説いている。…
…偶然的真理と見えるものも,事実の無限の系列をたどることができれば,したがってその系列を一瞬に直観しうる神の目には必然的と映るにちがいないのだが,それをなしえぬ人間はその真理が成立するのに十分なだけの根拠があると想定するしかないのである。のちにショーペンハウアーがこの根拠律を生成,認識,存在,行為の4領域に即して精密に規定しようと試み,近くはハイデッガーが根拠律を手がかりに根拠の問題を問い深めようと試みた。【木田 元】。…
…文科大学の学生関欽哉と成女大学生の小野繁の恋愛,結婚から破局までを描いた大作で,かれらをめぐって砲兵少尉の香浦速男やその妹園枝,法学士北小路安比古,また欽哉の許嫁お房らが登場し,欽哉・繁らの運命を大きく左右する。ツルゲーネフの《ルージン》に構想を借り,またショーペンハウアーの恋愛観をも祖述しているが,日露戦争前後の青年男女の思想的動揺を的確にとらえ,そこに時代の〈矛盾や病弊〉をえぐり出そうとしている。構成や文章,描写もみごとな当代の代表作。…
…その背景には,ヘーゲルに代表される壮大な政治・社会思想としてのドイツ観念論の体系が,台頭しつつある新しい産業社会を前にして崩壊し,さらには1848年の革命に挫折し啓蒙の思想を実現しえなかった市民層が,新たな世界観的拠りどころを求めていたという事態がある。政治的幻滅の中で,政治的にはきわめて保守的なショーペンハウアーのペシミズムが流行のきざしを見せ,やはり革命失敗の苦い経験から政治と芸術の架橋を放棄し,〈総合芸術〉に19世紀の克服を求めたW.R.ワーグナーが知識人層および支配層の注目を引きはじめていたころである。ニーチェの思想形成は,こうした19世紀ドイツ市民社会の知的状況に深く根ざしている。…
…18世紀初頭にライプニッツが,およそ可能なあらゆる世界のうち,ただ一つ神によって現実化されたこの世界は,最も良い世界だと主張し,その思想がオプティミズムと呼ばれたが,それにならって,19世紀初頭にイギリスのコールリジが物ごとの〈最悪の状態〉を指すためにpessimismという言葉を造った。 しかし,やがて1819年にショーペンハウアーの《意志と表象としての世界》が出されると,この語はもっぱらそこで説かれているような厭世的な世界観,人生観を指すために使われるようになる。ショーペンハウアーは,存在の根本原理を盲目的な意志(生命衝動)と見,人生の悲惨も道徳的な善悪などとまったくかかわりのないそうした存在原理の現れにほかならず,深い形而上学的根拠にもとづくと考えたのである。…
…彼は人間の認識に与えられる物の〈現象Erscheinung〉と,その背後にある〈物自体Ding an sich〉とを区別するが,この物自体は意志つまりある種の力を本質とするものと考えられている。カントの思想を継承したショーペンハウアーは,物自体を明確に意志・意欲・生命力としてとらえている。(7)興味あるものとして,〈物〉を高次に構成された〈構造〉ないし〈シンボル〉としてとらえる考え方がある。…
※「ショーペンハウアー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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