13世紀から17世紀へかけて北ヨーロッパに成立していた都市連合体で,リューベック,ハンブルク,ケルンなどドイツ都市を圧倒的多数とする。日本では古くから〈ハンザ同盟〉という名で知られているが,〈同盟〉という呼称は適当ではない。ハンザ同盟という同盟条約が締結されたことはただの一度もなく,多分に自然発生的に成立し,国際法的拘束によることなく加盟都市の自発的意思によって維持されたからである。ハンザという言葉も元来は特定のものをさす固有名詞的な言葉ではなく,〈団体〉あるいは〈ギルド〉をさす一般的な普通名詞であった。やがてこの言葉は商人団体ないし商人ギルドをさす言葉としてしだいに用法が限定され,ついにはここにいう連合体もハンザと呼ばれるにいたったが,それとてやっと13世紀になってからである。したがって史上数々のハンザがあったが,ここにいうハンザが規模の点で群を抜いて大きく,存続年代も長かったので,今日ではハンザという言葉は歴史上1回限りの現象をさす歴史学上の固有名詞となってしまった。さらに奇妙なことに,このハンザは自然発生的かつ自発的な都市連合体であってギルドではなかったから,ハンザという名で呼ばれてはいるものの,実体においては本来のハンザではなかった。それゆえ,史上に名高い〈ハンザ同盟〉は〈ハンザ〉でも〈同盟〉でもなく,世界史上に二つとないユニークな現象であり,むしろ,そのような特異性にこそ積極的な意義が認められるべきである。
ハンザ同盟は,バルト海を中心とする北方貿易の必要から生まれた。東方の穀物,木材,海産物,鉱石,塩などの生活必需品を大量にかつ恒常的に西方に輸出するバルト海貿易は,投機的な南方貿易と異なり,商人同士の協力が不可欠であり,このような必要が商人連合,都市連合を生み出した。ハンザ同盟がなんら〈同盟〉ではなく,自然発生的なものであったということは,その起源が明確でなく,多くの異なった学説が展開されることを意味する。古くは1241年にリューベックとハンブルクの間で締結された条約にその起源を求め,それが拡大してハンザ同盟に発展したのだとする見解があったが,2都市間限りで拡大性のない同条約に起源を見いだすのは無理である。むしろ,後述するハンザ総会が唯一のハンザ機関であることに着目し,ハンザ総会発生の端緒となった59年のリューベック,ロストク,ウィスマル3市の会議に起源が求められるべきであろう。しかしよりいっそう重要なことは,ハンザ総会発生以前にすでに実現していた商人たちの外地における協力と団結である。今日では13世紀後半以前を商人ハンザの時代,以後を都市ハンザの時代に区分し,商人ハンザの重要性を積極的に評価し,都市連合勢力の成立にのみ拘泥することなく,ハンザの淵源を古い時代にまで求める傾向にある。
このハンザは最盛期(14~15世紀)には200もの加盟都市を算したが,ハンザ固有の機関としては不定期に開催される総会があるのみで,ハンザ自体の行政機関も財政も軍備もなかった。だからハンザ都市であるか否かは総会に代表を派遣するか否かによってしか決定されえない。ただ一度だけ総会に参加したにすぎない都市もあれば,つねに総会に参加しつづけた都市もある。それゆえ,ハンザの各加盟都市に対する規制力は弱く,ハンザを支えていたのは国際商業面での各都市の利害共通感覚にほかならなかった。中世には今日のような実態を備えた国家が存在しなかったので,各都市・商人は横の結束を通じて利益を追求し守らねばならなかったのである。中世末以後中央集権国家が成長するに伴ってハンザが衰えたのも,都市の連合体を必要とする時代が去ったからである。しかし表面上ハンザはその規模の点でも国際政局における比重の点でも輝かしかった。1370年にデンマーク国王とハンザとが戦争を交え,後者が勝利を収めたが,これは一度結束すればハンザ同盟が有力な主権国家をも屈服させる実力を有していたことを示したものであった。
加盟各都市のハンザに対する関係はさまざまであるが,有力だったのはリューベック,ハンブルク,ブレーメン,リューネブルク,ケルン,ダンチヒなどで,当時大都市とはいえないにしてもリューベックに近いロストク,ウィスマル,シュトラールズントなどはハンザを熱心に支えたから,ハンザ内部での比重は高かった。とくにリューベックはバルト方面におけるハンザ商業の創始者であり,全中世を通じてハンザの盟主であった。以上の中で人口,経済力などあらゆる意味で最も大きかったのはケルンであり,事実ハンザ内部でもリューベックに次ぐ位置を占めたが,ハンザの共同行動に対してはしばしば反抗的で,有力ではありながらハンザ内部では異端分子に近かった。ハンザ貿易の特色は多数の中小資本の結集を背景に海外各地で特権を獲得し,北方貿易を独占したところにある。各地に商館を設けて貿易活動の拠点としたが,中でもノブゴロド,ベルゲン,ブリュージュ,ロンドン(スティールヤード)のそれは四大商館として名高い。ハンザ貿易に工業生産の背景が欠けていたといいきるのは無理であるにしても,概していえば東西間の中継貿易がハンザ貿易の中心となっていた。
15世紀以降のイギリスやオランダの商人の成長は,やがてハンザの貿易独占を破りこれと対立するようになった。そして,イギリス,デンマーク,ロシアに成立しつつあった集権的国家もまた自国の利益を追求するという点で,ハンザと対立するようになった。1494年のモスクワ大公によるノブゴロド商館の閉鎖,1598年のイギリス女王によるロンドン商館の閉鎖は,ハンザの存在意義の低下とその衰退を如実に示す事件であったといえよう。
執筆者:高橋 理
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中世の北欧商業圏の覇権を握った北ドイツ中心の都市同盟。ハンザ同盟とは俗称で、正式名称はドイツ・ハンザDeutsche Hanse (Hansa)。ハンザHanseの語の原義は「集団」を意味し、外地における商業権益を守るため団結した貿易商人の組合をさすことばとして使われた。
[平城照介]
ロンドンには、すでに11世紀中葉、ケルンの商人が組合の集合所をもっており、12世紀中葉にはハンブルクの商人、リューベックの商人も組合結成を認められ、これら本国都市ごとの組合が合体して、ロンドンにおけるドイツ人ハンザが形成された。この種の商人ハンザの拠点はロンドンに限られなかった。リューベックの建設(1158)に始まる東ドイツ植民運動の進展の結果、バルト海沿岸に多数の商業都市が建設され、バルト海を中心に北欧商業圏が形成されたが、それに伴い、ノブゴロド、ベルゲン、ブリュージュなどにも、商人ハンザの重要拠点が設けられ、ハンザ商館Kontorとよばれた。
最初北欧商業圏の指導権を握ったのは、ゴトランド島のビスビーを拠点に活躍したゴトランド商人であったが、13世紀末よりリューベックの商人がその地位を奪い、後のハンザ同盟の盟主となる地歩を築いた。
[平城照介]
都市ハンザ、つまりハンザ商人たちの本国都市間の同盟としてのハンザ同盟は、この商人ハンザから生まれた。すでに13世紀中葉より、いくつかの都市間に個別的同盟が結ばれる事態が認められたが、1356~58年、ブリュージュの商館を拠点とするハンザ商人と、フランドル地方の在地商人との争いが激化し、ハンザ商人が本国都市に援助を求めてきた事件を契機に、リューベックの提唱によるハンザ諸都市の会議が開かれて(ハンザ総会の起源)、「ドイツ・ハンザの諸都市」の名のもとに対フランドル経済封鎖が宣言され、1366年には、外地における商業特権の享受がドイツ・ハンザ加盟都市の市民に限られることが確認されて、ドイツ・ハンザの都市同盟としての性格が明確となった。
[平城照介]
ハンザ同盟内の結合は比較的緩く、加盟都市の代表で構成されるハンザ総会で重要な決定がなされ、また、のちになると加盟都市の分担金の制度がつくられたが、成文化された同盟規約も、恒常的執行機関も存在せず、加盟都市の公式リストさえ一度も作成されなかったので、加盟都市の範囲すらさだかでない。同盟の中核となったのは約70の都市であり、ほかに130ほどの都市が緩い形でこれに加わっていたといわれる。都市以外にドイツ騎士団も加盟していた。
[平城照介]
中世末・近世初頭、イギリスはじめ強力化し始めた国民国家が、重商主義的政策をとり始め、とくにオランダの商業資本がバルト海貿易に進出し、指導権を奪った結果、ハンザ同盟は急速に衰退し、加盟都市も激減した。1669年の最後のハンザ総会に出席したのは、リューベック、ハンブルク、ブレーメンのほかは、わずかに三都市(ケルン、ブラウンシュワイク、ダンツィヒ)を数えるにすぎなかった。リューベック、ハンブルクおよびブレーメンは、すでに1630年以降緊密な相互援助同盟を結成しており、ハンザ同盟消滅後も、19世紀に至るまで、ハンザ都市の伝統を維持し続けた。第二次世界大戦後の「ドイツ連邦共和国」(旧西ドイツ)においても、ハンブルクとブレーメンの二都市は、他の七州(ラント)と同格の連邦構成員となっている。
[平城照介]
『増田四郎著『独逸中世史の研究』(1951・勁草書房)』▽『高村象平著『西欧中世都市の研究Ⅱ ハンザの経済史的研究』(1980・筑摩書房)』▽『高橋理著『ハンザ同盟』(1980・教育社)』
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中世の北欧商業圏を支配した北ドイツ都市同盟。ハンザは元来「団体」の意で,旅商人の組合をさし,降って「ドイツ・ハンザ〈Deutsche Hanse〉」を名乗る都市同盟をいう。リューベックを盟主とするその同盟都市数は最盛期には100を超えた。ロンドン,ブリュッヘ(ブリュージュ),ベルゲン,ノヴゴロドに四大根拠地(外地ハンザ)を置き,ヨーロッパ内陸部や東欧,さらに地中海商業圏へも進出した。経済的外地商人ハンザと政治的本国都市ハンザとの統合としての都市同盟の性格が明確化したのは1358年であり,デンマークの南進を阻止して(70年)その最盛期を迎えたが,ドイツ諸領邦国家の自領内の都市への圧迫やイギリス,オランダの外来商人排斥策,さらに加盟都市内部での商人対手工業者の抗争のため衰退し,17世紀末には消滅した。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…バイキングの海賊としての脅威は11世紀中に鳴りをひそめ,代わって12世紀にはスラブ人の海賊がバルト海を席巻した。13世紀になってスラブ海賊を追放したのはハンザ同盟である。ハンザ同盟は14世紀から15世紀にかけてその最盛期に入り,加盟都市もバルト海から北海沿岸にまで広がった。…
…13~15世紀を通じて,ロシア毛皮はハンザ商人によるバルト海貿易の主たる取引品目であり,ノブゴロドにあるハンザ商館からドイツ諸都市やフランドルに搬出された毛皮(とくにリス毛皮)は毎年数十万枚に達した。ノブゴロドがハンザ同盟との交易の窓口だったのに対し,同時期のモスクワはタナ,カッファ,スダクなど黒海沿岸のイタリア植民都市を通じて地中海地域や東方諸国に輸出した。14~15世紀のモスクワとノブゴロドがドビナやペチョラなど北部地方の支配権をめぐって争ったのは,北部ロシアが当時の最も豊かな毛皮産地だったからである。…
…船はマストの数を増やし,四角や三角の帆を用いた。北海およびバルト海沿岸の交易都市が提携したハンザ同盟のにぎわいも,中世後期のイギリス経済の発展も,ともに航海技術の発達によるところが大きい。サンタ・マリア号によるコロンブスの新大陸発見(1492),バスコ・ダ・ガマによる喜望峰回りのインド洋横断(1497‐99),マゼラン一行による世界周航(1519‐22)によって,大型帆船は大航海時代の主役となった。…
…ゴトランド商業は,12世紀ザクセンのハインリヒ獅子公(リューベックの建設者)と結び,ノブゴロドに商館をもつことで全盛を迎える。リューベック領域の自由通過権をうることによってドイツ,北海地方,イングランド,ノルウェーとの交易がなされ,他方リューベックをはじめとするハンザ同盟の商人もゴトランドの都市ビスビューを訪れた。12世紀末にはドイツ教会が建設された。…
…市による商業の中心は東方へ移動し,フランクフルト,ネルトリンゲン,リンツなどにおいて盛んとなった。一方,北ヨーロッパにおいては,13,14世紀にハンザ同盟に所属する都市の商人の活動が活発化し,バルト海からフランドル,イングランドへ穀物,木材,毛皮,蠟,ニシンなどを運び,逆に東方へ毛織物,塩,ブドウ酒を輸送した。リューベックがその中心であった。…
…この体制を中世的世界経済と称する。そしてその主導権を握ったのは,北ではバルト海および北海の交易を制覇したドイツ・ハンザ(ハンザ同盟)の同盟都市であり,南では相互に激しい競争を繰り返したベネチア,ピサ,フィレンツェ,アマルフィ,ガエタ,ジェノバなどのイタリア都市であった。またこの両者をつなぐ役割を演じたのは,フランス北東部シャンパーニュ地方の大市開催の諸都市およびフランドル地方の諸都市であった。…
…北欧では東海Østersjønと呼ぶ。北の地中海にあたり,古代バルト文明,中世のバイキング東征やハンザ同盟通商の舞台となった。約1万~1万5000年前にスカンジナビア氷床の縁がこの海域にあり,北の硬い楯状地と南の若い堆積岩の境界部が深く削られてこの海盆ができ,その頃はストックホルムとイェーテボリを結ぶ低地で北海と連なり,カテガット海峡は閉じていた。…
… 1070年にノルウェー王オーラブ3世によって建設され,バイキング時代の交易の中心地として発展した。歴史上ベルゲンを名高くしているのは,中世を通じここにハンザ同盟の商館が置かれていたことである。ベルゲンのハンザ商館は〈ドイツ人の橋〉と呼ばれ,ノルウェー国王から正式に認められたのは14世紀中ごろのことである。…
…ウォッシュ湾に流入するウィザム川の河口近くに位置し,周辺の肥沃な農業地帯の中心地として牛などの交易が盛んで,農業機械,農産加工などの工業や貝類の漁業もみられる。13世紀にはハンザ同盟の港町として羊毛,ワインの取引で繁栄し,イングランドではロンドンに次ぐ貿易港に発展,1545年に自治都市となった。しかしその後,河川の沈泥で港湾機能が低下したため衰退した。…
…造船業など重工業の一中心地。中世にはハンザ同盟の盟主として繁栄し,旧ドイツ帝国内ではケルンと並ぶ大都市であった。ケルンなどローマ時代以来の歴史を有する西方都市とは異なり,中世における東部植民の進展に応じて建設された比較的歴史の浅い都市である。…
※「ハンザ同盟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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