日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャレット」の意味・わかりやすい解説
ジャレット
じゃれっと
Keith Jarrett
(1945― )
アメリカのジャズ・ピアニスト。ペンシルベニア州アレンタウンに生まれ、3歳からクラシック・ピアノを弾きはじめ神童といわれる。7歳のときフィラデルフィアでソロ・ピアノ・リサイタルを開き、クラシックのほかに自作の曲も演奏してみせる。このころからセミプロとして音楽活動を行い、1962年、16歳にしてオリジナル曲だけでソロ・コンサートを行う。同年ジャズ専門誌『ダウン・ビート』Down Beatの奨学金を得、1年間バークリー音楽院に学ぶ。卒業後ピアノ・トリオを結成し、ボストン周辺で活動、1965年ニューヨークに進出し、クラリネット奏者トニー・スコットTony Scott(1921―2007)、サックス奏者ローランド・カークのバンドで演奏した後、アート・ブレーキー率いるジャズ・メッセンジャーズに採用される。
1966年、テナー・サックス奏者チャールズ・ロイドCharles Lloyd(1938― )のカルテットに加わるが、このグループでの斬新(ざんしん)な演奏が彼の評価を高め、新時代のピアニスト登場を印象づけた。また、このバンドのドラム奏者ジャック・デジョネットJack DeJohnette(1942― )とは、後にスタンダーズ・トリオを組む。ロイドのグループには1969年まで在籍したが、この間1967年に初リーダー作を録音。
1971年から翌1972年にかけトランペット奏者マイルス・デービスのグループに参加。1971年、このバンドに在籍中ヨーロッパをツアーし、そのおり、初のソロ・ピアノ・アルバム『フェイシング・ユー』をドイツのジャズ・レーベルECMに吹き込み、1970年代ソロ・ピアノ・ブームに火をつけると同時に、スターとしての地位を確立した。1970年代は彼の活動がもっとも多彩な時期で、ECMレーベルに多くのソロ・アルバムを吹き込んだ。なかでも1973年の『ソロ・コンサート』は当時としては画期的な3枚組LPで、内容も従来のジャズ・ピアノの枠を超える斬新な響きをもっていたためファン、評論家の間で大きな話題となった。
彼はアルバム発表と同時にソロ・コンサートも各地で行い、これも異例の観客動員数を記録した。また同時期、サックス奏者デューイ・レッドマンDewey Redman(1931―2006)を加えたカルテット編成でアトランティック・レーベル、インパルス・レーベルにレコーディングを行い、このグループを「アメリカン・カルテット」と称すると同時に、北欧のサックス奏者ヤン・ガルバレクJan Garbarek(1947― )を加えたカルテットでECMに録音を行い、こちらは「ヨーロピアン・カルテット」と称した。1970年代はこのほかにもクラシック的なアルバムも発表し、まさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍ぶりであった。
1980年代はしばらくレギュラー・グループをもたずソロ活動に専念していたが、1983年ベース奏者ゲーリー・ピーコックGary Peacock(1935―2020)、デジョネットとトリオを組み、アルバム『スタンダーズVol. 1』『同Vol. 2』を発表、以後このグループでの活動を恒常化させた。慢性疲労症候群という病気のため活動を制限される時期があったが、その後もソロおよびスタンダーズ・トリオでの活動は最高度の音楽性を維持している。
彼の多彩な音楽活動を分析してみると、ソロでの演奏は一時期「クラシック的」という批判、つまり譜面があるのではないかという疑問を受けたが、多くのライブ・レコーディングを聴けば、それらが完全な即興演奏であることが確認される。この誤解はECMの録音方法がピアノ本来の響きを重視したため、旧来のアタックのみを強調した「ジャズ的」サウンドと違和感があったことからもたらされた面もある。「スタンダーズ・トリオ」での演奏は文字どおりスタンダード・ナンバーのみを取り上げるが、これもいわゆる「商業的配慮」とは異質のきわめて創造的な内容で、形を変えた即興演奏への挑戦とみることができる。彼らのピアノ・トリオ・フォーマットは、ビル・エバンズの創始による三者協調型の現代ピアノ・トリオの典型で、この面でも多大な影響をジャズ・ピアノ・シーンに与えている。また黒人トランペット奏者ウィントン・マルサリスと論争を行い、白人ミュージシャンの側からジャズの本来あるべき姿について主張し、ジャズ・シーンの精神的バック・ボーンの役割を果たしている。
[後藤雅洋]
『キース・ジャレット述・山下邦彦編『キース・ジャレット――音楽のすべてを語る』(1989・立東社)』▽『イアン・カー著、蓑田洋子訳『キース・ジャレット――人と音楽』(1992・音楽之友社)』