ジャワ戦争(読み)ジャワせんそう(英語表記)Java War

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ジャワ戦争
ジャワせんそう
Java War

インドネシアでジャワ人が起した反オランダ闘争 (1825~30) 。イギリスの中間統治 (11~16) ののち,ジャワに復帰したオランダが数々の失政を行なったため,ジャワ人不平分子は失意の王子ディポ・ネゴロの指揮のもとに蜂起し,ジョクジャカルタを占領した。オランダは苦戦の末,要塞を築いて反撃し,首領を捕えて反乱を鎮圧した。

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大辞林 第三版の解説

ジャワせんそう【ジャワ戦争】

1825~30年、オランダの侵略に反対したジャワの王族を中心とした抵抗戦争。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジャワ戦争
じゃわせんそう

オランダの経済政策に対する不満とジョクジャカルタ侯の王位継承権問題などを契機として、1825~30年に発生したジャワ人の対オランダ抵抗戦争。オランダは、ナポレオン戦争により疲弊した本国財政を、東インド(現インドネシア)からの経済的搾取により立て直そうと図っていた。一方このころ、ジョクジャカルタの王宮(クラトン)では、かねてから王位を約束されていたディポネゴロDiponegoro(1785―1855)王子が、オランダの支持を受けた異母弟の一派により王位継承者の地位を追われ、隠遁(いんとん)生活に入っていた。これを機に、王子に同情を寄せる王宮内勢力や彼を支持するイスラム指導者、さらには現状に不満を抱く一般民衆が、王子の下に結集することになった。こうして1825年、王子と彼を補佐するイスラム指導者キヤイ・セントットに指導されたジャワ軍は、ジョクジャカルタを占領し、その後ジャワ各地でオランダ軍に対する果敢な武力抵抗を展開した。しかしジャワ軍は、近代的な軍備を整えたオランダ軍によってしだいに追い詰められ、29年10月セントットが、ついで翌30年ディポネゴロ王子が詭計(きけい)により捕らえられ、ついにジャワ軍は敗れ去った。この戦争の結果、オランダのジャワ支配は確立されたものとなり、30年からは強制栽培制度がジャワ農民のうえに課せられてゆくことになった。
 なお、指導者ディポネゴロ王子は、独立後のインドネシアにおいて「民族英雄」の一人として高く評価されている。[後藤乾一]

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世界大百科事典内のジャワ戦争の言及

【ディポネゴロ】より

…インドネシア,ジャワ島ジョクジャカルタのスルタン,アマンクブウォノ3世の長男で,ジャワ戦争(1825‐30)における反乱軍の指導者。インドネシア共和国の民族英雄の一人。…

※「ジャワ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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