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ジョン ジョンJohn

翻訳|John

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ジョン
John

[生]1167.12.24. オックスフォード
[没]1216.10.18/1216.10.19. ニューアーク
イギリス,プランタジネット朝第3代のイングランド王(在位 1199~1216)。本名 John Lackland。ヘンリー2世の第4子。「欠地公子(土地なし公子)」とも称される。兄リチャード1世の死後,王位継承権をもつ 3番目の兄ジョフリーの子アーサーブルターニュ公)を追放して即位。アーサーを推すフランスフィリップ2世と戦って 1204年ノルマンディーを失い,続いて 1206年までにフランス内のイギリス領の大部分を失った。1205年カンタベリー大司教のヒューバート・ウォルターが死亡し,ローマ教皇インノケンチウス3世は後任にスティーブンラントンを推したが,ジョンみずからの聖職者叙任権を主張して反対。1208年教皇はイングランドを聖務停止に処し,翌 1209年ジョンを破門。両者の争いは 1213年まで続いたが,結局ジョンは屈服し,イングランドを教皇に献上,みずからは教皇の封建的臣下としてあらためてイングランドを封土として受け,教皇に毎年 1000マルクを支払い,かつラントン大司教に認める条件で和解が成立。1214年再びフランスに出兵したが,領地回復に失敗して帰国。積年の失政と圧政により貴族の不満が爆発し,内乱が勃発した。1215年ジョンはラニーミードで貴族の指導者と会見,その要求条項(→マグナ・カルタ)の承認を余儀なくされた。しかしジョンはただちにこれを教皇に訴え,教皇が『マグナ・カルタ』の無効と貴族指導者の破門を宣したため,内乱が再燃し,ジョンはロチェスター城を奪い,1216年1月北部諸州やスコットランド国境地方を略奪した。その後も精力的に戦闘を続けたが,後継者を指名することもなく,種々の問題を残したまま没した。

ジョン
John, Sir Augustus Edwin

[生]1878.1.4. ウェールズ,テンビー
[没]1961.10.31. ハンプシャー
イギリスの画家。スレード美術学校に学ぶ。 1903年ニューイングリッシュアートクラブの会員となって反アカデミズムの立場で活動。肖像画に秀作が多い。代表作『ほほえむ婦人』 (1910,テート・ギャラリー) 。

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デジタル大辞泉の解説

ジョン(John)

[1167~1216]英国王。在位1199~1216。対仏戦に敗れて大陸内英領の大半を失い、ローマ教皇インノケンティウス3世からは破門され、さらに重税を課したため貴族の離反を招いて1215年マグナカルタ(大憲章)を承認。欠地王。

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百科事典マイペディアの解説

ジョン

英国の画家。ロンドンのスレード美術学校卒業後パリに遊学し,19世紀フランス絵画の影響を強く受けた。ロイド・ジョージ,G.B.ショーなど名士の肖像を描き,手堅い素描力と鋭い性格描写を示した。

ジョン

英国のロック歌手,作曲家,ピアノ奏者。1968年ソロ・デビュー。米国に活動拠点を置き,1972年の《ホンキー・シャトウ》からアルバム7枚が連続で全米ヒットチャート1位を獲得,トップスターの地位を確立,1970年代を代表するポップシンガーとなった。

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和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典の解説

ジョン【(朝鮮)】

朝鮮料理の一つ。野菜・肉・魚介類などに小麦粉と溶き卵をつけ、油で焼いたもの。または、小麦粉を水で溶いた生地に具材を混ぜ、お好み焼きのように平たく焼いたもの。後者では、ねぎを用いた「パジョン」が代表的。◇後者のタイプは「チヂミ」ともいう。

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世界大百科事典 第2版の解説

ジョン【Elton John】

1947‐
イギリスのポップ・シンガー,ピアニスト,作曲家。少年の頃から小さな酒場のピアニストとして働きながら音楽学校に通い,卒業後はブルース歌手の率いるバンドオルガンを弾いた。作詞家を志すB.トーピンと知り合って作曲に励み,合作した《レディ・サマンサLady Samantha》をジョンが歌って,1969年にシングル盤で発売。続いて初のLP《エンプティ・スカイEmpty Sky》を出して名声を獲得した。初めは,ピアノを弾きながら抒情的に歌うスタイルで,作品も格調の高いものが特徴だったが,たびたびアメリカに公演してファン層が広がるにつれ,作曲も大衆の好みに合わせる傾向が強まり,コンサートでの派手なアクションや奇抜な服装を売物とするようになった。

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大辞林 第三版の解説

ジョン【John】

1167~1216) イギリス(イングランド)王(在位1199~1216)。フランス内の領土を敗戦で失い、教皇との抗争で破門されるなど失政を重ねた。1215年マグナ-カルタを承認。失地王。欠地王。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ジョン
じょん
Thomas Edward John
(1943― )

アメリカのプロ野球選手(左投右打)。大リーグメジャー・リーグ)のクリーブランド・インディアンス、シカゴホワイトソックスロサンゼルス・ドジャース、ニューヨーク・ヤンキース、カリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)、オークランド・アスレチックスで投手としてプレー。野球選手としては困難といわれてきた肘(ひじ)への靭帯(じんたい)移植手術を施し、みごとに復活した左腕投手であり、これにより同様の故障をもつ選手に新たな道を開いた。現在、同手術は「トミー・ジョン手術」とよばれている。
 5月22日、インディアナ州テレ・ホートで生まれる。1961年、インディアンスに入団。1963年に大リーグに昇格したが、64年までの2年間で2勝しかできず、ホワイトソックスへトレードされた。1965年に14勝をあげて頭角を現わし、68年まで4年連続2桁(けた)勝利をマーク。1969年は9勝に終わったが、70年からふたたび5年連続2桁勝利をあげた。この間、1972年にはドジャースに移籍した。1974年のシーズンオフ、痛みのひかなかった左肘を手術。翌75年1シーズンはリハビリにあて、76年から復帰した。同年10勝、1977年には初の20勝もマークしてみごとに甦(よみがえ)った。1979年からはヤンキースに移り、80年まで2年連続して20勝を記録した。その後、数球団を渡り歩いたが、1987年にヤンキースで13勝したのが最後の活躍となり、89年限りで現役を引退した。実働年数は投手では歴代2位の記録である。
 実働26年間の通算成績は、登板試合760、投球回4710と3分の1、288勝231敗、防御率3.34、奪三振2245、162完投、46完封。[山下 健]

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