西はカルパチ山脈から東はドン川にいたる黒海北方の草原地帯,ギリシア人のいうスキュティアSkytia地方に居住した騎馬遊牧民族。英語ではScythians。ことに前6世紀から前3世紀にかけて,この地方に強大な遊牧国家を建設した。この民族の起源についてはまだ不明なところが多いが,イラン系民族であろう。スキタイ国家の出現にさきだち,アゾフ海東岸の草原地帯やクバン川流域に,キンメリア人が既に騎馬遊牧文化をつくりあげており,スキタイ文化はそれに多くを負っている。ヘロドトスによれば,スキタイ人は農耕をせず,生計は家畜にたよっている。家畜にひかせる車両住宅(住車)で移動の生活をし,町や城を築かない。人々は馬に乗って弓を使う(騎射)という。ヘロドトスはまた別のところで,スキタイ人には農耕スキタイ,農民スキタイ,遊牧スキタイ,王族スキタイの4種があるといっているので,スキタイの一部は農耕をし,定着していたのであろう。
スキタイ人の一部はさきに南下をはじめていたキンメリア人のあとを追って,カフカス山脈を越えて西アジアに侵入し,キンメリア人とともにアッシリア帝国衰退の一因をつくった(前673-前612ころ)。アケメネス朝ペルシアの時代になると,スキタイは,ダレイオス1世の大軍遠征をこうむる。これにはかつての西アジア侵入の復讐とギリシア遠征にさきだつスキタイ牽制の意図があった。出没自在のスキタイ人はペルシア軍を悩ませ,たいした戦果のないままに退却させた(前512)。しかしペルシア帝国の領域拡大で,その後のスキタイ勢力圏はいちじるしく狭められ,スキタイ人は黒海北岸に点在するギリシア人植民都市と交易を通じて共存共栄をはかった。前3世紀になってスキタイと近縁関係をもち,その東方に住んでいたサルマートが大挙ドン川を渡ってスキタイ領に侵入し,スキタイ人はクリミア半島に追いこまれ,そこに小王国をつくって,わずかに余勢を保つのみとなった。
→スキタイ文化
執筆者:小谷 仲男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
前7~前3世紀,北カフカース,黒海北岸にいたイラン系遊牧民。ヴォルガ川を越えて東方から侵入してきたらしい。ヘロドトスは,前7世紀にキンメリア人を追ってスキタイが西アジアに侵入したという。前者の痕跡は考古学的に確認しにくいが,スキタイの遺物は東アナトリア,西北イランに認められる。西アジアから引きあげたあと,黒海北岸で在来の農耕民を支配した。王侯は最大で高さ20m,直径100mに達する古墳を築き,墳丘内あるいは地下の墓室にスキタイ特有の動物文様を施した金属工芸品や武器,馬具を殉葬者とともに入れた。同様な文化が広く中央アジア北部,アルタイ,モンゴル高原,中国北部にも分布しており,まとめてスキタイ文化と呼ぶ。ヘロドトスによれば,スキタイは遺体を裂いて内臓を除去し,代わりに香りの強い草を詰めて縫いあわせたというが,その実例がアルタイ山中から発見されている。前3世紀にサルマタイに圧迫されてクリミアに小王国をつくったが,3世紀にゴート人によって滅ぼされた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…日本神話が,《古事記》と《日本書紀》に見られるような皇室の王権神話の体系に形成されつつあった時期に,日本がもっとも密接な交渉を持った地域は朝鮮半島だった。当時の朝鮮半島では,イラン系の遊牧民スキタイ人のあいだで発生してユーラシアのステップ地帯の全域に広まったいわゆる〈騎馬民族〉の文化が受容され,とくに支配層に強い影響を及ぼしていた。そのスキタイ人は,彼らの居住地だった黒海の沿岸に建設された多くのギリシアの植民市を介して,ギリシア人と盛んに交易し,ギリシア文化の影響を受けていたことが知られている。…
※「スキタイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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