ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ステファン・ドゥシャン」の意味・わかりやすい解説
ステファン・ドゥシャン
Stefan Dušan; Uroš IV
[没]1355.12.20. ディアボリ
セルビア王 (在位 1331~46) ,のち皇帝 (在位 1346~55) 。ウロシュ4世,ドゥシャンとも呼ばれる。中世セルビア王国の最大版図を実現した人物。祖父ステファン・ウロシュ2世 (在位 1282~1321) に反抗して盲目にされ追放された父とともに 1314~20年コンスタンチノープルで少年時代を過ごす。このときの屈辱とビザンチン帝国での教育が性格形成に大きな影響を及ぼした。父の即位 (ステファン・ウロシュ3世〈在位 1322~31〉) 後,副王として海岸地方の統治をゆだねられ,1326~30年ボスニア,ブルガリアと戦って勝利。さらに父王をも追放して 1331年王位を簒奪した。国内の不穏貴族を一掃したのち 1334年,1341~45年,1347~48年ビザンチンを攻略,マケドニア,アルバニア,エピルス,テッサリアを併合した。 1346年スコピエで教会会議を開き,セルビア教会の大主教を総主教に昇格させ,新しい総主教から「セルビア人とギリシア人の皇帝」の冠を受けた。その後,意識的にビザンチンの宮廷儀式や官職,統治組織を導入。 1349年に『ドゥシャン法典』を発布した。同年再度ボスニアに兵を進め,1353年ハンガリーと戦ってベオグラードをとり,さらにビザンチンの帝位を求めてコンスタンチノープルに向かう途上没した。死後ドゥシャンの帝国は内紛とオスマン帝国軍の侵略で急速に崩壊したが,その歴史は 19~20世紀にセルビアを中心とする南スラブ統一運動に大きな刺激を与えた。
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