日本大百科全書(ニッポニカ) 「センデロ・ルミノソ」の意味・わかりやすい解説
センデロ・ルミノソ
せんでろるみのそ
Sendero Luminoso スペイン語
1964年ペルー共産党から分裂した中国派の一部が、1970年に結成した毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)派(文化大革命路線)のゲリラ運動。正式名称「ペルー共産党センデロ・ルミノソ(輝く道)」。
ペルー南部の県アヤクーチョを基盤に活動し、1980年の民政移行に伴い武装闘争を開始。最高指導者アビマエル・グスマンAbimael Guzmán(1934―2021)ら地方の混血知識人に率いられ、「農村から都市へ」の中国革命を擬した戦略を特徴とした。ワマンガ大学で、ペルー社会の「半封建的」解釈についてグスマンの教えを受けた若者が農村に浸透し、公権力を追放して事実上の解放区を広げた。しかし、農村社会への回帰をもくろみ、市(いち)の閉鎖など自給自足体制を強要して農民の反発を買う場面もあった。
トゥパク・アマル革命運動(MRTA)などキューバ派ゲリラと異なり、破壊行為を正当化して民衆の支持を得ようとせず、反対を許さないその姿勢は南アメリカでもっとも謎(なぞ)めき、冷酷な組織として恐れられた。麻薬マフィアとの共生と企業に対する革命税の徴収により資金を確保し、農村や都市に出てきたスラムの若者を徴用し活動を拡大した。軍警察、政府要人、企業家、反発した農村や民衆組織に対する脅迫と殺害、外資系をはじめとする大企業、経済組織や生産施設の爆破などテロ行為によって、社会と経済を疲弊させ、1990年には正規軍との間で「戦略的均衡」をもつといわれるまで拡大し、首都リマは包囲寸前となった。
テロ対策を最大の課題としたフジモリ政権(1990年誕生)には対決姿勢を強め、政権を支援する日本はアメリカと並ぶ最大の帝国主義勢力とみなされた。1991年には野菜技術センターで働く日本人専門家3名が殺害され、日本大使館も再三襲撃される。その後、フジモリが対策を強化するため1992年4月、議会を閉鎖したことを体制打倒の好機とみて大規模な攻勢をかけたが、9月グスマンは逮捕された。それを機におおかたの指導層が逮捕・拘留され、2年間でほぼ組織は壊滅した。1993年グスマンら幹部は獄中から和平宣言を出して仲間の投降をよびかけたが、これを拒否するラミレス・ドゥラン率いる武闘派の一部「赤いペルー」が中南部ジャングルで活動を続けている。
[遅野井茂雄]