マリアテギ(英語表記)José Carlos Mariátegui

改訂新版 世界大百科事典 「マリアテギ」の意味・わかりやすい解説

マリアテギ
José Carlos Mariátegui
生没年:1894-1930

ペルーの作家,政治家。ペルーの生んだ最も独創的なマルクス主義者。ペルー南部モケグアの没落した中産階級の家庭に育ち,14歳でリマの新聞社に入社,若くしてジャーナリズムで活躍した。1919年奨学金を得て渡欧し,4年間の大部分を過ごしたイタリアでは,自由主義の危機とファシズムの台頭,社会主義運動の高揚といったロシア革命直後の大変動を経験する。帰国後,アヤ・デ・ラ・トーレに招かれ,ゴンサレス・プラダ人民大学で〈世界危機〉について講義する。23年,アヤが国外に追放された後はペルー左翼運動の中心的存在となり,レギア独裁政権の弾圧を受けながらも労働者のなかにマルクス主義を浸透させた。26年《アマウタAmauta》を創刊。その誌上で,マルクス主義の観点から経済構造,インディオ・土地問題などペルー社会の構成と現実を鋭く分析し,28年,記念碑的な《ペルーの現実解釈の七評論》として出版する。また同年,階級政党としてのペルー社会党を,翌29年にはペルー労働総同盟(CGTP)を創設,中産階級を中核に据えて反帝民族主義革命を目ざすアプラAPRA)党と対決した。この対立のなかでマリアテギは,民族的諸階級内の階級対立と中産階級の保守的性格を見抜いただけでなく,アプラの唱える反帝国主義国家の樹立とその厳しい規制の下での外資導入による民族的資本主義化という構想がいかに帝国主義に吸収されやすいかを看破し,封建主義と階級の搾取を同時に除去する社会主義革命の実現を目ざそうとした。ここでマリアテギは,インカ時代の原始共産主義を伝統にもつインディオ農民の革命的潜在力に期待した。そのためコミンテルンとも対立し,29年6月のブエノス・アイレスでの第1回ラテン・アメリカ共産党会議は,マリアテギの考えを退けた。翌30年4月16日,彼は36歳の若さでこの世を去ったが,彼の知的遺産は,今日ペルー左翼運動の共有財産となっている。主要著作には,前記のほか,《現代の風景》(1925),死後まとめられた《マルクス主義の擁護》《イデオロギーと政治》などがある。
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百科事典マイペディア 「マリアテギ」の意味・わかりやすい解説

マリアテギ

ペルーの作家,独創的マルクス主義者。若くしてジャーナリズムで活躍。1919年から4年間,主にイタリアに滞在し,ロシア革命直後の政治的大変動を経験。1923年アヤ・デ・ラ・トーレが国外追放された後,左翼運動の中心的存在となる。1926年雑誌《アマウタ》創刊。1928年ペルーの現実を7分野から広く分析した《ペルーの現実解釈のための7つの試論》を出版。同年ペルー社会党,翌年ペルー労働総同盟を創設し,APRAと対決。封建主義と階級の搾取を同時に除去する社会主義革命の実現をめざし,インディオ農民の革命的潜在力に期待したため,コミンテルンと対立。1929年第1回ラテン・アメリカ共産党会議は彼の考えを退けた。
→関連項目インディヘニスモインディヘニスモ文学センデロ・ルミノソ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マリアテギ」の意味・わかりやすい解説

マリアテギ
まりあてぎ
José Carlos Mariátegui
(1894―1930)

ペルーの社会主義思想家。南部のモケグアに生まれ、小学校時代に左足を事故で痛める。14歳で首都リマの『ラ・プレンサ』紙の校正係となり、独学でジャーナリズムの世界に入った。数種の新聞や雑誌の発刊に加わって、文学論から政治・社会評論に転じ、レギーア大統領の独裁を批判して、1919年に国外追放に処せられる。4年近くをイタリア、フランスなどで過ごし、ロシア革命後の社会主義運動の高揚を目の当たりにした。帰国後の1926年に雑誌『アマウタ』を発刊して左翼運動の旗手となり、1928年には主著『ペルーの現実解釈のための七試論』を刊行し、社会党を結成した。ペルーの歴史と現実を分析して原住民共同体を再評価し、インディヘニスモ(原住民復権主義)と社会主義を結び付けることによって、マルクス主義の土着化を目ざした。彼のユニークな思想はコミンテルンに認められなかったが、現在その影響力はラテンアメリカを超えている。

[乗 浩子]

『原田金一郎訳『ペルーの現実解釈のための七試論』(1988・柘植書房)』『小林致広・辻豊治訳『インディアスと西洋の狭間で――マリアテギ政治・文化論集』(1999・現代企画室)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マリアテギ」の意味・わかりやすい解説

マリアテギ
Mariátegui, José Carlos

[生]1895
[没]1930
ペルーの思想家。独創的なマルクス主義の著述家で,病弱にもかかわらず 1920年代に精力的に活躍。 1926年進歩的知識人らと刊行した雑誌『アマウタ』 Amauta (賢人) を通じペルー先住民族のインディオの救済を説き,土着主義と結びついた独自の社会主義の建設を主張した。 28年ペルー社会党を創設。その異端的な思想,理論ゆえ,当時のコミンテルンから批判された。主著『ペルーの現実に関する七つの評論』 Siete Ensayos de Interpretación de la Realidad peruana (1928) 。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マリアテギ」の解説

マリアテギ
José Carlos Mariátegui

1894~1930

ペルーの革命思想家。ペルーの政治・労働運動を指導し,社会党,ペルー労働総同盟を創設した。独自の先住民共同体論や先住民問題と社会主義の合流を示唆し,アプラ運動の民族主義やコミンテルンの路線と対立した。文学・芸術批評にも才能を発揮したが,35歳で夭折した。独創的なマルクス主義者として評価されている。主著は『ペルーの現実解釈に関する七つの試論』。

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世界大百科事典(旧版)内のマリアテギの言及

【インディヘニスモ】より

…ラテン・アメリカの原住民の擁護と復権の運動。これをインディヘニスモと命名し,その性格を規定したのはペルーの思想家J.C.マリアテギであった。彼は〈原住民の問題とは社会問題であり,かつ優れて土地問題である〉といい,その運動の主目的は土地の奪回であり,原住民共同体の積極的な再建である,と主張した。…

【ペルー】より


[アプラと共産党]
 この旧秩序に異議申立てをして1920年代末に登場するのがアプラ党と共産党である。両者とも,ペルーのブルジョアジーが国民統合の歴史的使命を果たしてこなかったという共通認識から出発したが,アヤ・デ・ラ・トーレに率いられたアプラ党がその使命を中産諸階級に託したのに対し,マリアテギはその役割を否定し,社会主義への基軸勢力として労働者・農民階級を考えた。しかしマリアテギの政治構想は,30年,彼が夭逝したため流産し,創設した社会党は,死後,共産党となりモスクワの支配下に入り,革命勢力としてよりはむしろ支配層からアプラ対策として利用されるにいたる。…

※「マリアテギ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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