翻訳|Tahiti
中部南太平洋にあるフランス領ポリネシアに属するソシエテ諸島中,最大の島。面積1042km2,人口17万8100(2007)。ひょうたん形をした火山島で,大きい方はタヒチ・ヌイ,小さい方はタヒチ・イチまたはタイアラプ(半島)と呼ばれ,狭い地峡でつながっている。集落は海岸に沿って並び,標高2000m以上の山と深い谷におおわれた内陸部は人を寄せつけない。島の中心地パペエテはフランス領ポリネシアの行政,経済,交通の中心でもある。
タヒチ島の〈発見者〉はドルフィン号を指揮するイギリス海軍のウォリス大尉で1767年のことであったが,翌年フランスのブーゲンビルもこの島を訪れ,第一発見者だと信じた。69年から4度島を訪れたキャプテン・クックは,島民についてすぐれた記録を書き残した。島の人々はパンノキ,ココヤシ,バナナ,ヤムイモ,タロイモ,サツマイモを栽培し,豚,犬,鶏を飼い,パンダヌスの葉でふいた地床家屋に住んでいた。当時のタヒチ社会は厳しい階層社会であり,血なまぐさい戦闘も珍しくなかった。しかしヨーロッパ人たちはこうした側面には注目せず,タヒチ社会を自由で平等で友愛に満ちた,性的束縛のない社会だと理想化した。この理想社会にあこがれて,船を脱走した水夫や水兵が住みつき,火器やアルコールや性病を広めた。このため,クック来訪時12万人をこえたと推定される島の人口は,18世紀末には1万5000人,1930年代には9000人にまで減少した。〈理想郷〉の汚染は急速で,最初の訪問からわずか8年後,1777年に3度目の訪問をしたクックが住民の生活の荒廃を嘆いているほどであった。
当時タヒチ島では,各地区に割拠する大小の首長たちの間で抗争が繰り返され,全島を支配する権力を欠いていたが,この状態に終止符を打ち,全島の政治的統一に貢献したのは,バウンティ号の反乱者たちである。ウィリアム・ブライに率いられたバウンティ号は,西インド諸島に運ぶパンノキの苗木を入手する目的で1788年にタヒチを訪れ,5ヵ月間滞在した。この間の規律の乱れと島の女性たちの魅力が,タヒチ出港後トンガ諸島沖で89年に発生した反乱の原因とされる。反乱者たちは船を奪ってタヒチへ戻り,リーダーのフレッチャー・クリスチャンらがピトケアン島へ去ったのちも,16名はタヒチに残った。そして彼らは首長の一人トゥの傭兵として,全島統一抗争に大きな役割を果たした。タヒチに残った反乱者たちは,91年パンドーラ号のエドワーズによって捕らえられたが,その直後にトゥが全島の武力統一を達成し,ポマレ王を名のった。ヨーロッパの火器で戦力を向上させたとはいうものの,ポマレ王朝の軍隊がヨーロッパの国々の敵でないことはいうまでもない。統一を果たしたポマレ王朝の次の課題は,ヨーロッパの国々とのかけひきであった。白人文明はまず,キリスト教伝道団という形で侵入をはかった。西半球の領有を主張するスペインは,1774年フランシスコ会の手で伝道を始めたが,成果は上がらず2年で挫折した。97年に布教活動を始めたロンドン伝道協会も,初め成果を上げることができなかったが,1815年にポマレ2世が改宗してからキリスト教は急速に広まった。ロンドン伝道協会の指導があまりにも島民たちに行き渡ったので,1836年にやってきたフランスのカトリック教会の宣教師は島民たちに追い払われてしまった。この一件は,勢力拡張をめざすフランス政府に絶好の口実を与えた。フランスの支配を望まなかった女王ポマレ4世は,イギリスのビクトリア女王に保護を求めたが聞き入れられず,47年ポマレ女王はついにフランスの保護下に入ることを認めた。この時,ポマレ王朝の勢力下にあるとされた周辺の島々も保護領となった。80年にポマレ5世が退位してタヒチはフランスの植民地になり,1847年に支配下に入ることを免れたライアテア島などリーワード(風下)諸島の島々も,次々とフランス領ポリネシアに加えられていった。
→フランス領ポリネシア
執筆者:石川 栄吉+斉藤 尚文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
南太平洋、フランス領ポリネシア、ソシエテ諸島の主島。フランス領ポリネシアの首都パペーテが、島の北西岸にある。大小二つの火山島がタラバオ地峡でつながったもので、北西側の大きいほうをタヒチ・ヌイTahiti-Nuiといい、その中央のオロヘナOrohena山は標高2241メートル。南東側の小さいほうはタヒチ・イツTahiti-Ituとよばれ、標高1332メートルのロニウRoniu山を有する。両火山島を連ねると、長径75キロメートル、幅はタヒチ・ヌイで35キロメートル、タヒチ・イツで20キロメートル。面積1042平方キロメートル、人口15万0707(1996)。
島名はもとオタヘイティOtaheiteといったが、1767年、イギリスの海軍軍人ウォリスが軍艦ドルフィン号で来航したとき、国王の名で領有を宣言し、キング・ジョージ3世King GeorgeⅢ島と命名した。ついでフランスの航海者ブーゲンビルが自分の生まれ故郷であるギリシアのキテラCythera(現代ギリシア語ではKíthira)島に似ているとして、ヌーベル(新)・キュテールNouvelle Cythere島と名づけたこともある。イギリス軍艦バウンティ号が1788年来航、島の北岸マタバイ湾に5か月停泊、翌年出航後トンガ付近で反乱事件が起きた。1797年にはロンドン宣教協会の南海伝道がタヒチ島を最初の目標とした。タヒチの首長(しゅちょう)ポマレを助けて白人を加えて成立した王朝では、1815年ポマレ2世がキリスト教に改宗、以後太平洋各地にキリスト教が広がる契機となった。タヒチ島自体は1839年に来島したフランスのカトリック宣教をも受け入れ、イギリスが国事に忙殺されてポマレ4世女王のたび重なる要請に応じない間に、1841年にはフランスが領事を置いて以後の支配の基盤をつくった。
住民の人口比率は、先住のポリネシア人77%に対し、ヨーロッパ人14%、アジア人9%であり、気候・風土が温和のためヨーロッパ人には住みやすい「南海の楽園」である。ゴーギャンがここで多くの絵画を描いたほか、文人・画家の来住も多かった。島の南岸のパペアリにはゴーギャン博物館があり、西岸のプナアウイアには歴史・民俗資料を収蔵するタヒチ博物館がある。コプラ、サトウキビ、果実、真珠を産出する。観光客の来島も多い。
パペーテ郊外のファアア空港には、パリをはじめオーストラリアのシドニー、ニュージーランドのオークランド、東京などから国際便が着く。
[大島襄二]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…当時のJ.クックの太平洋探検はイギリスのキリスト教界に強い興味を引き起こし,協会が最初に選んだ宣教の場所は太平洋地域であった。96年伝道船ダフ号はタヒチ島,トンガタプ島,マルキーズ諸島に向かう宣教師達を乗せて出航した。翌年にはタヒチに最初の宣教師が上陸し,以後南太平洋全域へのキリスト教布教の基地となった。…
※「タヒチ島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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