改訂新版 世界大百科事典 「ダイコン」の意味・わかりやすい解説
ダイコン (大根)
Raphanus sativus L.
アブラナ科の二年草。古名をオオネ,スズシロ,カガミグサなどともいう。ダイコンの栽培は古くから行われており,エジプトでは古代に普及していた。ピラミッドの碑文にもピラミッド建設のときにタマネギやニンニクとともにハツカダイコンを労働者に食べさせたことが記されている。また,古代ギリシア・ローマ時代にも重んじられ,ローマ人によってヨーロッパに伝えられ,中世以後にゲルマン人やスラブ人によってさらに広範囲の地域に広められた。フランスやイギリスへの伝播(でんぱ)は16世紀以後のこととされている。中国でも栽培は古くから行われ,紀元前に蘆(ろひ)の名がある。この名称はダイコンが西方からもたらされたことを暗示している。
多様なダイコンの品種を大別するとヨーロッパ系とアジア系とに区別される。ヨーロッパ系の代表的なものはハツカダイコン(ラディシュ)であり,アジア系は日本のダイコン(英名Japanese radish)である。しかし中国やインドのダイコンの形質には,ヨーロッパ系と日本系のダイコンの中間をつなぐ形質のものが多くあり,両極端の中間にはっきり区別の線を引くことはできない。
これらダイコンの栽培品種は普通次の5群に分けられることが多い。すなわち(1)ハツカダイコン群,(2)小ダイコン群,(3)黒ダイコン群,(4)北支ダイコン群,(5)南支ダイコン群である。これらは根の肥大のようすやそのデンプン含量の多少,葉形や毛の有無,果実の形などで区別される。またそれぞれ利用方法にも違いがある。このうち日本のダイコンは,根の肥大性や形態,肉質などで世界に類をみないほどの大分化をしているが,南支ダイコンの影響を大きく受けて成立したと考えられる。しかし北支ダイコンの影響も多少受けている。
起源,来歴
栽培ダイコンが多様な分化をしているため,その起源については諸説があり,多系説も多く主張されてきた。しかし,栽培ダイコンはすべて2n=18の染色体数を有する二倍体で,相互に交雑が可能であり,ゲノムも同一とされている。またヨーロッパからアジアにまで広く野生あるいは野生化しているハマダイコンとも交雑する。それらの点から栽培ダイコンはハマダイコンから東地中海地域で最初に栽培化され,それがヨーロッパ域でハツカダイコン群,小ダイコン群,黒ダイコン群を分化し,インドから南中国へ入ったものが南支ダイコン群に,また中央アジア域を通って中国に入ったものが北支ダイコン群に分化してきたと考えられる。さらにこれら品種群の分化にはハマダイコンや近縁野生種との遺伝子の交流が関与して,現在見られるような複雑な栽培ダイコンの品種群が成立してきたものである。日本へは中国を経て伝来し,文献上の最も古い記録としては《古事記》の中に〈淤富泥(おおね)〉の名がでている。《延喜式》には栽培法や利用法も記されており,春の七草にはスズシロの名で使われている。日本のダイコンは世界で最も変化に富み,ダイコンの品種分化の第2次センターになっている。
形状,品種
根形には丸形,円筒形,紡錘形,くさび形,棒状形およびそれら各種の変形があり,葉形はへら形でほとんど欠刻のないものから,羽状で深く切れ込むものなど多様である。また根の大きさは,桜島ダイコンのような20kgにもなる巨大なものからハツカダイコンのように極小のものまであり,長さも守口ダイコンのように細くて長さが1m以上にもなるものまである。根色は白が一般的であるが,赤,緑,黒などがあり,さらに部分的に色の異なるものや,外皮と内部とで色の異なるものなど変化に富んでいる。品種はかつては特色のある地方独特のものが育成され,15程度の品種群に分けられるが,最近の傾向として,ほとんどが栽培しやすくそろいのよい一代雑種(F1)が用いられている。現在の主要な品種群は,みの早生(わせ),宮重(みやしげ),練馬の3群で,さらに阿波晩生(あわおくて),聖護院(しようごいん),二年子(にねんご),時無(ときなし)の4群を加えた7群が経済的な実用品種群として栽培され,需要の大半をまかなっている。また,生育が速く,サラダなどの生食に適するハツカダイコンの栽培も行われている。最近の品種の動向としては消費者の好みから,青首化と小型化の傾向がみられる。ダイコンの栽培は,収穫時期により,秋ダイコン,冬ダイコン,春ダイコン,初夏ダイコン,夏ダイコン,ハツカダイコンなどの作型に分けることができる。おもに春まき,夏まき,秋まきにするが,暖地や高冷地など立地条件を生かした栽培も多く,漬物用,青果用など用途別にも産地が分かれる。全国的に栽培されるが,面積的には北海道,千葉,青森,宮崎,鹿児島などの道県が多い。
執筆者:平岡 達也
料理
《延喜式》に耕作法の記載があるように,ダイコンは古くから栽培され,食用にされていた。古名を〈おおね〉といい,《和名抄》は〈葍〉〈蘿菔〉の字をあて,〈俗に大根の二字を用う〉としている。ほかに,〈蘿蔔(らふ)〉とも書き,せん切りにした意味の繊蘿蔔がなまって千六本ということばが生じたという。近世以前どんな味付けをして食べていたものか,ほとんど知る手がかりがない。《新猿楽記》には〈食歎愛酒〉の七の御許(おもと)の好物の一つに〈大根舂塩辛〉というのが見えるが,これがダイコンと塩辛をいっしょについたものか,ダイコンをつき砕いて塩味にしたてたものかわからない。《徒然草》には,九州の押領使だった人が万病の薬だとして毎朝ダイコンを2本ずつ焼いて食べたという話がある。あるとき,人が出払って無人の状態でいるところで敵襲をうけた際,見知らぬ兵(つわもの)ふたりが現れて撃退してくれた。不思議に思って尋ねると,そのふたりはダイコンの精だったというのであるが,その焼きダイコンにどんな調味をしたものか,これまた不明である。室町末期の成立と思われる《庖丁聞書》にいたって,魚の上におろしダイコンを置いた〈雪鱠(ゆきなます)〉や,削りダイコンを使う〈ひでり鱠〉という酢を使った料理が姿を見せる。なます以外の料理では,近世初頭の《料理物語》(1643)になって,やっと汁,煮物,香の物などに使うことが記載される。元禄(1688-1704)ころはそばの普及がめざましく,その薬味として辛みダイコンが盛んに栽培,利用されたようである。そして,1785年(天明5)には,いわゆる〈百珍物〉流行の機運に乗じて,《大根一式料理秘密箱》《大根料理秘伝抄》というダイコン料理の専門書2種が刊行されるようになるが,この現象はおそらくダイコンの品種改良の進歩を反映したものだったに違いない。
ダイコンは,おろしなどにしての生食,おでん,ふろふきなどの煮食,汁の実,漬物と,きわめて利用範囲が広い。また,切干しにしたり,葉を干して干葉(ひば)として米飯の増量材にするなど,日本人の食生活を多面的にささえてきた食品であった。成分上の特徴としては,根部に消化酵素アミラーゼ(ジアスターゼ)とビタミンCを多量に含有し,葉部にはカロチンが豊富である。このアミラーゼとビタミンCは熱に弱いので,ダイコンおろしなどにしての生食がよい。アミラーゼの活性はしょうゆでは阻害されないが,酢では阻害される。なお,へたな役者を〈大根役者〉というが,これはダイコンによる食中毒の例を見ないことから,〈あたったためしがない〉にかけたものだという。
執筆者:菅原 龍幸+鈴木 晋一
民俗
大根は,かつて青森県五戸地方で,10人家族でひと冬700本用意したというほど,漬物やかて飯の材料として日常の重要な食糧とされた。一方,大根は種々の形に細工しやすく,婚礼の宴席に男女の性器を模したものが出され,またその色が神聖感を与えるために,古くから正月の歯固めをはじめ,ハレの日の食品や神供として用いられた。また大根は種々の俗信や禁忌を伴っている。種を土用の入りや丑(うし)の日に撒(ま)くと,葬式用や曲り大根になるといって嫌う所が多い。また大根畑に七夕飾りの竹や桃の枝をさしておくと虫がつかないという所も多い。東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子(いのこ)に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。このほか,半夏生(はんげしよう),彼岸,社日,夷講などの季節の折り目や収穫祭にも大根畑にいくのを忌む。これは大根が神祭の重要な食品であり,大根畑は霊界に近い神の出現する神聖な場所と見なされていたことを示している。北九州では,稲の収穫祭である霜月の丑の日の前日に大黒祭が行われ,二股大根を箕(み)にのせ,供物をして祭っている。奥能登のアエノコトでも,二股大根を田の神として丁重に扱う風がある。大黒と大根は語音が近いためか,二股大根を〈大黒の嫁御〉といっている地方は多い。また〈違い大根〉は聖天(歓喜天)の紋とされ,この絵馬を聖天にささげ,大根を絶ち,夫婦和合や福利の祈願を行う。また,大根が聖天の持物とされることもある。
執筆者:飯島 吉晴
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報