東アフリカ、タンザニア東部の都市。インド洋に臨み、政治、経済、交通、文化の一中心で、実質的な首都機能をもつ。同国最大の港湾都市でもある。人口254万5000(1999推計)、514万7070(2018推計)。地名はアラビア語で「平和の家」を意味する。1862年ザンジバル王国のスルタンが町を建設、91年ドイツ領東アフリカの首都となってから発展し、港湾も整備された。1914年にはタンガニーカ湖畔のキゴマまで鉄道が建設され、中部アフリカ開発の拠点となった。1975年にはザンビアのカピリ・ムポシまでタンザン鉄道が開通し、ザンビアの外港となっている。石油精製、サイザル麻の製袋、カシューナッツほかの食品加工などの工業が発達し、コーヒー、サイザル麻、綿花などタンザニアの主要生産物の過半数を輸出する。住民構成は複雑で、地元のザラモ人が人口の3分の1を占めるが、ニャムウェジ人、ヤオ人、エンゴニ人など他地方出身の住民も多い。近年人口の増加が目だち、住宅地はマゴメニ地区、カリアコ地区など郊外に拡大している。植民地時代に開けた高級住宅地はオイスター湾に面している。ダルエス・サラーム大学や教員養成の専門学校がある。パン・アフリカニズムを推進した初代大統領ニエレレの政策で、アフリカ統一機構(OAU)のアフリカ解放調整委員会の本部が置かれた。南西16キロメートルには国際空港がある。また、内陸部のドドマへの首都移転計画が決定し、大統領府、立法府が移転した。
[赤阪 賢]
東アフリカ,タンザニア連合共和国の首都。人口234万(2002)。この名称はアラビア語で〈平和の家〉を意味するが,このことは古くからイスラムの影響をうけ,インド洋岸の港として栄えたことを反映している。ここを起点とする鉄道はタンガニーカ湖畔,ビクトリア湖畔,およびザンビアの銅山地帯に達し,それら内陸の生産物の輸出と内陸向け輸入品の積卸しで,港湾活動が盛んである。商工業の中心であり,国立大学,博物館,植物園,総合病院なども整っている。また南アフリカ共和国のアパルトヘイトに反対し,アフリカ人の独立運動を支援する政治活動の基地になり,アフリカ統一機構(OAU)の解放委員会も置かれていた。1860年代にザンジバルのアラブの首長が夏の離宮を建設し,小さな港町となったが,84年ドイツに占領され,91年にはドイツ領東アフリカの主都がバガモヨから移された。第1次世界大戦に際してドイツ人は港の入口に浮きドックを沈めて自ら封鎖した。この港湾都市が発展したのは第2次世界大戦中からで,1940年代に南部・中部アフリカ開発の拠点として港湾,交通施設の整備が始まり,56年に港湾施設近代化が完了した。最近はザンビアに通じるタンザン鉄道が建設されたため,港湾の拡張が必要となっている。61年に独立したタンガニーカの首都,64年ザンジバルを合わせて首都となった。
執筆者:西野 照太郎
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東アフリカ,タンザニアの事実上の首都。インド洋の港市として1862年ザンジバルのスルタン,サイイド・マジドによって建設される。ザンビアの産銅地帯に至るタンザン鉄道の起点でもある。
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