ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
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ギリシア中東部、エピルスとエーゲ海とに挟まれた地方。英語名テッサリーThessaly。カルディッツァ、ラリサ、マグネシア、トリカラの4県からなる。面積1万4037平方キロメートル、人口75万4893(2001)。中心都市ラリサ。ピニオス川流域の肥沃(ひよく)な平原を中心とし、西をピンドス山脈、北東をオリンポス山、南東をヘリコン山など2000~3000メートルの高山に囲まれる。ギリシア第二の穀倉地帯で、麦類、豆類、米のほか、果物、タバコなどを豊かに産する。古代から馬の飼育でも知られる。1393年にオスマン帝国支配下に入ったが、1881年、同地方の大部分がギリシアに割譲された。
[真下とも子]
青銅器時代後期にはミケーネ文化の影響下にあったが、紀元前12世紀、北方からの侵入者のうちテッサリア人がこの地を占めた。前6世紀にタゴスtagosという長官職を頂点とした緩やかな連合国家を形成し強力となる。前5世紀末フェライPheraeのリコプロンが僭主(せんしゅ)政を樹立、他のテッサリア諸市と対立して団結を弱めたが、その子イアソンJasonは自らタゴスとなり、中央ギリシアに覇を唱えた(前385ころ~前370)。マケドニアの興隆とともにその支配下に入る。前196年ローマによって解放されたが、前148年属州マケドニアに併合。紀元後3世紀後半から、ゴート人、ブルガリア人の侵入を受け、6世紀末以後スラブ人が定住した。
[古川堅治]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…続くテオドロス1世はテッサロニキのラテン人王国を滅ぼし(1224),〈ローマ人の皇帝〉として戴冠式をあげたが,クロコトニッツァでブルガリア人の王アッセン2世に敗れ(1230),帝国の威勢は急速に傾いた。版図は二分され,テッサロニキは1246年ニカエア帝国の手におち,残存部分もミハエル2世の死(1271)後エピロスとテッサリアにさらに分かれ,それぞれ別々のアンゲロス家一族によって支配された。エピロスでは1318年以後ケファロニアのオルシニ家が代わって君臨した。…
※「テッサリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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