マケドニア王(在位前336~前323)。「大王」(マグヌスMagnus)とよばれたのは、ローマ共和政末期の軍人や政治家が彼らの業績の大きさをアレクサンドロスのそれに対比させたことに始まる。父はフィリッポス2世、母はマケドニアの西エペイロスの王族の娘オリンピアス。
[井上 一]
父のフィリッポスは、その兄がマケドニア北西のイリリア人の侵入により戦死したため、兄の子アミュンタス4世の摂政となり(前359)、ついでこれにかわり軍隊に推されて王となった。農民の生活基盤を安定させ、彼らを重装歩兵隊に組織し、小貴族を騎兵隊に組織して軍事力を強化、新戦術をもって指揮し、領土を拡大した。金山の開発、植民などにより国を固め、ギリシア世界にもその影響力を浸透させた。紀元前357年のオリンピアスとの結婚は、彼女のほかに周辺有力者の娘5人を妻としているところからみて政略結婚の一環である。フィリッポスはアレクサンドロスの天性を愛し、前343年、当時の最高の知識人アリストテレスを招いて、アレクサンドロスとその同年輩の貴族の少年たちを教育させた。後年のアレクサンドロスとその周囲のギリシア文化尊重はここで培われたといえる。武技、戦術の教育も受け、前338年夏のフィリッポスとギリシアとの最終決戦、すなわちカイロネイアの戦いに、アレクサンドロスはマケドニア軍左翼の騎兵隊を指揮し、ギリシア最強といわれたテーベ軍を粉砕した。
この秋(前338)フィリッポスはコリントにギリシア諸国の代表を招集し、ギリシア連合(ヘラス連盟またはコリント同盟という)の盟主となり、前337年初めギリシアの宿敵ペルシアへの復讐(ふくしゅう)戦実行が決定、先発遠征軍が派遣された。しかしこの年にフィリッポスはマケドニア人の大貴族パルメニオンと縁続きの娘を妻とした。このため、エペイロス人の母をもつアレクサンドロスとその母の王室内の地位に影がさし、父と不和になったアレクサンドロスは母とともに国外に出奔した。フィリッポスは彼らと和解するため、エペイロス王(オリンピアスの兄弟)とアレクサンドロスの妹との結婚を策したが、前336年この結婚式の席上で、彼に恨みをもつマケドニア貴族によって暗殺された。この暗殺にアレクサンドロスかその母の加担があったと考える人もある。
[井上 一]
アレクサンドロスは父の死後、国の慣習に従って軍隊に推されて王となったが、父の時代からの有力大貴族の支持もあった。秋には父の占めたギリシア連合の盟主の地位を確認された。前335年北方ドナウ川に至る遠征によりトラキア人を、さらに西方に転じてイリリア人を討ち、国の周辺を固めた。このとき彼の戦死のうわさが流れてギリシア諸国に反乱が起こった。彼はギリシアに急行し、反マケドニアの一中心テーベを徹底的に破壊したが、もう一つの中心アテネには寛大であった。
ギリシアを鎮圧したアレクサンドロスは、前334年春、マケドニア軍、ギリシア同盟軍、傭兵(ようへい)らをあわせて歩兵約3万、騎兵約5000、同盟軍提供の160隻の艦隊を率いてペルシア遠征に出発した。ヘレスポントス(ダーダネルス)海峡を越えて小アジア(アナトリア)に渡り、トロヤのアキレウスの墓に詣(もう)でて戦勝を祈り、5月にはグラニコス河畔で小アジア各地の総督たちの率いるペルシア軍を撃破し、戦利品をアテネに送った。内陸のリディアの旧都サルディスを占領し、海岸に出て南進、夏から冬までに沿岸のギリシア人植民市をペルシア支配から解放して民主政治を回復させた。夏ミレトス攻略後、同盟艦隊をむしろ重荷になるとして解散し、前333年5月小アジア中央部フリギアの旧都ゴルディオンを占領した(ここでゴルディオンの結び目を解いたという有名なエピソードがある)。
このころ、小アジアやエーゲ海で活躍したペルシア軍の提督メムノンが病死し、後顧の憂いは減少した。小アジアからシリアに入り、11月イッソスで、ペルシア王ダレイオス(ダリウス)3世自ら率いる数的にはるかに勝るペルシア軍を大敗させ、王の家族を捕虜とした。南進してフェニキアの諸都市を前332年の秋ごろまでに苦戦ののち占領し、ペルシア艦隊から根拠地を奪った。この間ダレイオスから和議申し入れがあったが一蹴(いっしゅう)した。遠征の後背地を固めるため、アレクサンドロスはフェニキアからエジプトに入り、エジプト人にペルシア人からの解放者として迎えられ、旧都メンフィスでファラオの後継者として戴冠(たいかん)した。前331年初めナイル河口のファロス島に面する場所に彼の名を冠したアレクサンドリアを建設し、ヘレニズム時代の繁栄の種をまいた。ついで西方のリビアに入り、砂漠を越え南下してアモン神殿に詣で、神官に神の子という神託を受けた。これはアレクサンドロスの神格化と密接に関係する。
アレクサンドロスは、エジプトからふたたびシリアを経てメソポタミアに入り、前331年10月ニネベの北東ガウガメラで、ダレイオスの率いる数、装備に勝るペルシア軍に決定的な打撃を与え、ダレイオスはメディアに逃れた。11月バビロンに入り、その儀式にのっとって守護神マルドゥクに犠牲を捧(ささ)げた。12月ペルシア帝国の首都スーサを占領、莫大(ばくだい)な財貨を入手した。この年の夏ギリシアでは、ギリシア連合に加わらなかったスパルタの王が反マケドニア戦争を企てたが、アレクサンドロスが後事を託したアンティパトロスによって秋までに鎮圧された。
ガウガメラの戦いののち、マケドニア本国から兵員の補充を受け、前330年初めペルシアの旧都ペルセポリスを占領し、ペルシアへの復讐(ふくしゅう)のしるしとしてその宮殿を炎上させた。春ダレイオスを追ってメディアに入り、エクバタナで対ペルシア復讐戦終了を宣言、同盟軍を解散した。ダレイオスは7月バクトリア総督ベッソスに殺害され、アレクサンドロスはいまやペルシア帝国の支配者としてマケドニア軍とギリシア人志願兵を率いてパルティアからバクトリアへと向かう。この間アレクサンドロスが帝国支配者としてペルシア式服装、儀式を採用したため、マケドニア人との摩擦も始まり、老将パルメニオン父子がその犠牲となった。
前329年、ヒンドゥー・クシ山脈を越えてバクトリアに入り、アルタクセルクセス4世を称していたベッソスを捕らえ、ペルシアの慣習に従い極刑に処した。さらに北のソグディアナに侵入、ヤクサルテス(シルダリヤ)河畔にアレクサンドリア・エスカテ(さいはてのアレクサンドリアの意)を建て、北方民族に備えた。この地方で現地人の頑強な抵抗に悩まされたアレクサンドロスは、彼の東方化政策に対するマケドニア人、ギリシア人の激しい反発に直面する。前328年夏マラカンダ(サマルカンド)において、グラニコス河畔の戦闘でアレクサンドロスの命を救ったクレイトスが、酒宴の席上王の東方化政策に抗弁し、王によって殺されるという事件が起こった。前327年春アレクサンドロスはバクトリア豪族の娘ロクサネーと結婚し、東方人にマケドニア式軍事訓練を施すなど帝国支配のための方策をたてるが、これと前後して、マケドニア貴族の子弟からなる小姓団のなかに王殺害の企ても生まれ、これに関係ありとして処刑されたのがアリストテレスの甥(おい)カリステネスである。彼は東征に加わって王の業績録を巧妙につくっていたが、王にペルシア風の跪拝(きはい)の礼をとらず、疑われて死に至った。
[井上 一]
前327年夏、ヒンドゥー・クシ山脈を南に越えインドに侵入したアレクサンドロスは、前326年インダス本流を渡ってパンジャーブに入り、7月その東支流ヒュダスペス河畔でその地方の王ポロスを降伏させ、さらに東ヒュパシス川に進んだが、兵士たちはそれ以上の進軍を拒否した。アレクサンドロスはヒュダスペス川まで軍を戻し、前325年春この川を下り、途中、クラテロスが率いて西進する隊と分かれ、インダス河口近くでネアルコスの率いる船隊と分かれ、ともに西に向かった。その間とくにアレクサンドロスの率いる隊は多大の人員を失いながら、三つの隊は再会した。その後西に帰る間に、彼の不在を利用して不正を行った高官たちを処罰した。前324年1月、帝国の財務を託したハルパロスが危険を察してアテネに逃れた。この年の春スーサに入り、マケドニア人とペルシア婦人の間の結婚を大掛りに行い、アレクサンドロスはダレイオス3世の娘スタテイラと結婚した。夏にはギリシア諸国に、各国の内紛の結果国外追放となった者を受け入れることと、王自身を神として祀(まつ)ることを要請した。スーサからメソポタミアのオピスに到着し、アレクサンドロスは老兵を故国に帰還させる命令を発したが、兵士はこれを彼らへの不信ととり、騒擾(そうじょう)を起こした。アレクサンドロスは東方人の兵士をもってマケドニア兵にかえ、マケドニア兵は結局王に屈服した。前323年初めにはバビロンに入った。春には王を神として祀ることを決めたギリシア諸国の使節を引見、以後軍の編成やアラビアへの遠征計画を練ったが、5月末日熱病にかかり、翌6月10日に死去した。
[井上 一]
アレクサンドロスの死後、彼の征服した領域は、部下の将軍たち、いわゆるディアドコイ(後継者)の争奪の的となり、彼らに分割されてしまう。しかし、彼らのある者は、アレクサンドロスの遺骸(いがい)を自分の手元に奪取し、ある者はアレクサンドロスの肖像を刻印した貨幣を発行するなど、彼らの権力の正統性をうたうため、彼を利用した。同時代人によるアレクサンドロス関係の記録はローマ共和政期の政治家に影響を及ぼしたが、ローマ帝政期に編集されたいくつかのアレクサンドロスの伝記は、現代まで古典として広く読まれている。
アレクサンドロスは、彼の東征の間に征服地に70以上の都市を建設し、ギリシア人、マケドニア人を住まわせ、オリエントの在来の都市にも同様の措置をとった。このことが、ギリシア文化とオリエント文化との混交を盛んにして、いわゆるヘレニズム文化を生んだ。その例としてギリシア美術・建築様式の東漸があげられる。さらに忘れてならないものに、彼の東征がオリエントの精神界に及ぼした影響がある。『旧約聖書』「ダニエル書」は、彼の東征をユダヤ人の苦難の新しい始まりといっている。逆に彼を恩恵者とする伝説も諸民族のなかに生まれ、ユダヤに生まれたこの種の伝説は、イスラム世界や中世ヨーロッパ世界にも受け継がれた。
[井上 一]
『大牟田章著『アレクサンドロスとヘレニズム世界』(『岩波講座 世界歴史2 古代2』所収・1973・岩波書店)』▽『大牟田章著『アレクサンドロス大王』(1976・清水書院)』▽『井本英一・岡本健一・金澤良樹著『アレクサンダー大王99の謎』(1977・サンポウジャーナル)』▽『ジェラール・ヴァルテル他著、大牟田章訳『世界伝記双書2 アレクサンドロス大王』(1984・小学館)』▽『井上一訳『アレクサンドロス』(『世界古典文学全集23 プルタルコス』1966、1983・筑摩書房)』▽『プルターク著、河野与一訳『プルターク英雄伝9』(岩波文庫)』
生没年不詳。200年ごろのアリストテレス学者。数世紀にわたりもっとも権威あるアリストテレスの注釈家と考えられた。アリストテレスの『霊魂論』に従って、人間の知的能力を、知性を展開させうる単なる可能性としての可能知性(赤ん坊の状態)、感覚経験から獲得された概念を所有している所有知性(大人の状態)、思考を現実に遂行する能動知性、に分析した。そしてこの能動知性を、『形而上(けいじじょう)学』に登場する、自己自身を永遠に思考する「思考の思考」としての神と同一とした点に特徴がある。しかし能動知性と人間個人の心の関係は明らかではない。
[山本 巍 2015年1月20日]
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【歴史】
地理的概念として見た場合,マケドニアは現在のマケドニア共和国の領域だけでなく,ブルガリア南西部のペートリチ地方とギリシア北部地域まで含むと考えられている。この地方には,前7世紀から前2世紀にかけて,アレクサンドロス大王で有名な古代マケドニア王国が存在した。しかし,6世紀から7世紀にかけ東欧全域で起きたスラブ人の大移動の結果,バルカン半島南部もスラブ化した。…
…在位,前336‐前323年。アレクサンドロス3世とも呼ばれる。アルゲアス王家のフィリッポス2世と西隣モロシア王家出身の妃オリュンピアスとの間に生まれ,前336年即位,2年後東方遠征の途につき,アケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼして中央アジア,インド北西部にいたる広大な世界帝国を実現したが,その活動は内治・外征の両面で未完のまま,前323年32歳でバビロンに病没した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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