イギリスの詩人。ロバート・ブラウニングとともにビクトリア朝のイギリス詩を代表する人物。1809年8月6日、リンカーンシャー、サマズビーの牧師館で生まれる。男8人女4人計12人のうちの4番目の子であった。父の牧師ジョージ・クレイトン・テニソン博士は教養も学問もある人で詩も書いたが、父が自分を差し置いて弟を相続人とし、テニソンは意に反して聖職についたことで大きな不満を抱いており、心も生活もしだいにすさんでいった。優しく敬虔(けいけん)な母親エリザベス・フイッチは夫の所業に苦しんだ。このような家庭環境のうえに元来テニソン家に伝わる精神病質が加わって、若いころの彼の心に大きな影を投げかけた。彼の兄弟はすべて詩をつくったといわれ、1827年に兄チャールズと『二人兄弟の詩集』を出版したが、実際には兄フレデリックの作品も含まれている。1828年からケンブリッジ大学に学び、そこでA・H・ハラムArthur Henry Hallam(1811―1833)と知り合い、無二の親友となり、ともにヨーロッパ大陸を旅行した。ハラムは1831年テニソンの妹エミリーと婚約したが1833年にウィーンで急死し、これが大作『イン・メモリアム』執筆の契機となったことはよく知られている。
早くからの周囲の期待にもかかわらず、1830年と1832年に発表した詩集はあまり評判にならず、その後10年間の沈黙を強いられたのち、1842年の詩集によって初めて世評が確立した。これより前の1838年にエミリー・セルウッドと婚約したが財政上その他の理由で中断し、『王女』(1847)のあと『イン・メモリアム』(1850)で成功を収め、財政的にも立ち直ったあと、ようやく1850年に結婚した。ここで彼の半生にわたる苦難の時代が終わり、同年ワーズワースの後を受けて桂冠(けいかん)詩人に任命された。1855年の『モード』はやや不評であったが、アーサー王伝説を扱った『国王牧歌』(1859)は大成功で、これ以後、詩人としてすばらしい名声と最高の栄誉を受けることとなり、1883年にはビクトリア女王から男爵の位を授けられた。詩としては『イノック・アーデン』(1864)も高評を博した。その後『民謡詩集』(1880)、『ティレシアス』(1885)、『デーメーテール』(1889)、『オイノーネの死』(1892)というように、晩年に至るまで詩集の発表を続けた。このほか『女王メアリ』(1875)、『ハロルド』(1876)、『ベケット』(1884)などの劇を書き、そのいくつかは成功裏に上演された。このように功成り名遂げて1892年10月6日83歳で亡くなり、ウェストミンスター寺院に葬られた。
[戸田 基]
『入江直祐訳『イノック・アーデン』(岩波文庫)』▽『三浦逸雄訳『テニソン新詩集』(1967・日本文芸社)』
イギリスの詩人。バイロンを除いてイギリス文学史上彼ほど民衆の心をとらえた詩人はいなかった。それはビクトリア朝の進化論的科学思想をいち早く先取りし,それと既成宗教のモラルとの相克から生まれる不安と懐疑の時代精神を,感傷的で美しい詩でうたったからである。しかし,このため20世紀前半の批評家の反動的攻撃をうけるはめとなった。ケンブリッジ大学に入って〈十二使徒〉の文学青年グループを結成,《抒情詩集》(1830)を出す英才ぶりを示したが,1833年秋の友人A.ハラムの死は,詩人に内省と思索の転機をもたらした。こうして生まれた《1842年詩集》は,いっそう深みをまし,ギリシア神話,アーサー王伝説,イギリスの田園生活を素材にした傑作,たとえば〈ユリシーズ〉〈アーサー王の死〉〈くだけ波よ〉などを含んで詩人として名声を確立した。《王女》(1847)は女子教育問題を提供したものの,一般には付随的で感動的な抒情短詩〈涙,いわれなき涙〉などが有名だった。50年には相愛のエミリーと結婚,1833年来,書きためてきた一大哀詩《イン・メモリアム》を刊行した。この詩は親友ハラムを失った個人的悲しみをこえ,信仰によって心の平和にたどりつく詩人の苦闘の哲学詩で,これにより桂冠詩人になった。つづく《モード》(1855)は,〈抒情的モノドラマ〉と詩人の呼ぶ野心作だったが,前作ほど好評ではなかった。このあと海辺の町の悲恋の詩《イノック・アーデン》(1864)や,アーサー王伝説に時代思潮を織りこんだ長編詩《国王牧歌》(1859-89)を完成,ますます信仰と懐疑,希望と失意の葛藤にのめりこみ,死と霊魂不滅の意味を探求しつづけた。《ディミーターその他の詩編》(1889)の〈砂州をこえて〉は広漠無限の海へ復帰する詩人の人生への決別のうたであるといえよう。
テニソンは,過度な音楽的韻律美や逃避的感傷や教訓癖のゆえに批判されることはあっても,ビクトリア朝の国民詩人としての地位は不動であり,H.ジェームズのいうように〈時の文明社会の一部〉であったことを否定しえない。日本では《新体詩抄》(1882)で〈軽騎兵隊進撃の詩〉が訳出されてから,テニソン・ブームが起き,武島羽衣,土井晩翠,岩野泡鳴らがその思想的影響をうけている。夏目漱石も《文学論》で〈愛の手に断たれたる余の心を慰めたるは《モード》と《イノック・アーデン》なり〉と熱い告白をしている。漱石の《薤露行(かいろこう)》(1905)は,テニソンのアーサー王物語のみごとな翻案である。
執筆者:松浦 暢
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…やがて産業資本家たちの自然,そしてダーウィンの自然へと移っていったからである。テニソンやブラウニングは,まだビクトリア朝の思想,道徳,哲理を彼らの詩作品に歌いえたが,そのあと,新しい科学思潮と,肥大した商工業社会の成長の渦に巻きこまれて,詩人の声は急激な変質を余儀なくされた。かつては社会,政治,思想,知識,道徳,信仰に直接〈参加〉する声であったものが,自分ひとりでささやく声へ変質していったのだといえよう。…
…イギリスの詩人A.テニソンの代表作。制作1833‐50年,出版1850年。…
…最初はラファエル前派の絵画を模倣した宗教的,寓意的な演出写真であったが,66年ころからストレートな肖像を撮るようになる。カメラの前に立ったのは,J.ハーシェル,A.テニソン,T.カーライルなど,彼女と親しい著名人たちであった。その写真はピンボケであったりブレたりしているが,それはかえって人物の表情を生き生きとしたものにし,個性がよくとらえられている。…
…これ以来この種の詩作は,桂冠詩人の義務ではなく,自発的意志によってのみ行われるならわしである。ほかに著名な桂冠詩人としてはR.サウジー,A.テニソンがいる。【川崎 寿彦】。…
※「テニソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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