ジェームズ(読み)じぇーむず(英語表記)Henry James

デジタル大辞泉 「ジェームズ」の意味・読み・例文・類語

ジェームズ【James】[英国王]

英国王。
(1世)[1566~1625]在位1603~1625。スコットランド王としては6世。在位1567~1625。スチュアート王朝の祖。王権神授説をとり、絶対王政を敷き、しばしば議会と対立。また、新教徒を弾圧、聖書英訳を命じて欽定訳聖書(ジェームズ王聖書)を作った。
(2世)[1633~1701]在位1685~1688。チャールズ2世の弟。ピューリタン革命で亡命。王政復古で帰国し、海軍卿として活躍。1688年、名誉革命でフランスに亡命。

ジェームズ【James】[米国の哲学者・小説家]

(William ~)[1842~1910]米国の哲学者・心理学者。の兄。プラグマティズムの創始者の一人。ドイツ観念論に反対し、哲学の実用的価値を提唱。著「心理学原理」「プラグマティズム」「宗教的経験の諸相」など。
(Henry ~)[1843~1916]米国の小説家。英国に帰化。の弟。心理主義文学の先駆者。作「ある婦人の肖像」「ねじの回転」など。

ジェームズ(Jesse Woodson James)

[1847~1882]米国開拓時代の無法者。南北戦争では南軍のゲリラに参加。戦後、兄フランクと強盗団を組織、銀行や列車を襲ったが、手下に殺された。

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精選版 日本国語大辞典 「ジェームズ」の意味・読み・例文・類語

ジェームズ

  1. ( James )
  2. [ 一 ] ( 一世 ) イギリス国王(在位一六〇三‐二五)。スコットランド王としてはジェームズ六世(在位一五六七‐一六二五)。メアリー=スチュアートの子。エリザベス一世の死後王位につき、スチュアート朝をはじめた。王権神授説を奉じ、議会と対立した。(一五六六‐一六二五
  3. [ 二 ] ( 二世 ) イギリス国王(在位一六八五‐八八)。チャールズ二世の弟。兄のあとをつぐ。カトリック教の復活、常備軍設置をめぐり議会と対立。一六八八年名誉革命で王位を追われ、フランスに亡命した。(一六三三‐一七〇一

ジェームズ

  1. [ 一 ] ( William James ウィリアム━ ) アメリカの哲学者、心理学者。[ 二 ]の兄。機能的心理学の提唱者の一人で、アメリカの社会的現実に即した思想を展開した。主著「心理学原理」「宗教的経験の諸相」「プラグマティズム」「根本的経験論」。(一八四二‐一九一〇
  2. [ 二 ] ( Henry James ヘンリー━ ) アメリカの小説家。のち、イギリスに帰化。人間の行為を内面的な動機によって分析し、写実的技法で描いた。代表作「ロデリック‐ハドソン」「ある婦人の肖像」「ねじの廻転」など。(一八四三‐一九一六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジェームズ」の意味・わかりやすい解説

ジェームズ(Henry James)
じぇーむず
Henry James
(1843―1916)

アメリカの小説家、批評家。4月15日、ニューヨーク生まれ。ジェームズ家は、祖父が18世紀末にアイルランドから移住、ニューヨーク州で商売を営み、州屈指の資産を築いた。父ヘンリーは閑雅な生活のなかで文人エマソンらと交わり、独自の宗教哲学を構築している。息子のヘンリーは4男1女の第2子で、後の心理学者・哲学者ウィリアムの弟である。

 ヘンリー・ジェームズの文学を方向づけるものとして三つの要素が指摘できる。一には父の独自な教育観、二には優秀な兄との関係、そして三には従妹(いとこ)ミニー・テンプルの死である。息子たちに独自の感性教育を心がけた父の意向により、生後数か月でヨーロッパ旅行に連れ出される。馬車の窓から眺めたパリの街の風景をもっとも古い記憶として、のちに述懐している。最上の教育を求めてアメリカからヨーロッパの各地を転々とするが、感性教育は13歳のとき、たまたま立ち寄ったルーブル美術館で完成する。彼はアポロン廊を埋める絵画のもつ完璧(かんぺき)な美の迫力に圧倒され、敗北感を味わうとともに、芸術的スタイルの完成がナポレオンの世界征服にも匹敵しうる創造的行為であると悟る。しばしば欧米間を往復するうち、1875年、ヨーロッパ永住を決意し、最初はパリに滞在、フロベール、ゴンクール(兄)、ゾラ、ドーデ、ツルゲーネフらと交わり、小説作法とリアリズム理論を学ぶ。1876年以降はイギリスに定住、欧米間の風習や考え方の相違が生む悲喜劇を主題とする「国際物語」を発表。すなわち『アメリカ人』(1877)、『デイジー・ミラー』(1879)、『ある婦人の肖像』(1881)の諸作で、作家としての地位を確立した。

 兄ウィリアムは幼少より才気煥発(かんぱつ)、行動型で、つねに弟に一歩先んじていたことが、ヘンリーを兄とは対照的な観察型の人物に仕上げたといわれる。さらに18歳のとき、火災の消火作業中、背中に負傷、この一件が心理的抑圧の因となり、南北戦争にも行かず、生涯を独身で通し、鋭利な観察を根底に置く独自の「視点」の文学を開拓した。彼は特定の人物を設定し、その者の視点と意識を通して現実をとらえる方法で小説のドラマ性とリアリティを追求する。とくに1890年代には劇作の経験と相まって、「視点の劇化」の斬新(ざんしん)な実験を小説のなかで行った。芸術家を主人公とする物語、幽霊物語も数多い。『ねじの回転』(1898)は後者の代表例である。

 従妹ミニーの肺結核による死は、青春、理想など人生価値の挫折(ざせつ)、裏切りの象徴として受け止められ、ジェームズのいう「災難の想像力」の門が開かれる。以後、裏切りと断念の主題が執拗(しつよう)に追求される。円熟期の三大小説、『鳩(はと)の翼』(1902)、『使者たち』(1903)、『黄金の盃(さかずき)』(1904)は、以上の主題と技法を渾然(こんぜん)と融合させ、欧米文化統合のビジョンを含むジェームズ文学の最高峰といえよう。50年にわたる作家生活の所産は、長編19、中短編110余、戯曲15、その他『アメリカ印象記』(1907)、ヨーロッパ旅行記、自伝回想録など、また数多くの評論も残している。1916年2月28日、ロンドンで没。

[岩瀬悉有]

『西川正身訳『デイジー・ミラー』(新潮文庫)』『蕗沢忠枝訳『ねじの回転』(新潮文庫)』『谷口陸男編『二十世紀英米文学案内1 ヘンリー・ジェイムズ』(1967・研究社出版)』『F・O・マシーセン著、青木次生訳『ヘンリー・ジェイムズ 円熟期の研究』(1972・研究社出版)』『谷口陸男編著『ヘンリー・ジェイムズ研究』(1977・南雲堂)』


ジェームズ(Elmore James)
じぇーむず
Elmore James
(1918―1963)

アメリカのブルース・ギタリスト、ボーカリスト。ブルースのギター奏法のなかでもっとも特徴的なサウンドをもち、つねに人気の高いスライド・ギターの名手であり、壮絶なボーカルのパワーもあり、南部からシカゴのブルース・シーンで活躍した。

 ミシシッピ州ホームズ郡リッチランドに生まれる。プランテーションを転々とする生活を強いられたが、1936年にミシシッピ・デルタの町ベルゾナに住んだ時、音楽の基本を授かることになるロバート・ジョンソン、そしてサニー・ボーイ・ウィリアムソンⅡSonny Boy Williamson Ⅱ(1899―1965)らと知り合い、当時最高レベルのサザン・ブルース(南部で歌われ、好まれた土臭いブルース・スタイルの総称)に浸る。

 1940年ごろには、当時ジャズ/ブルースの世界にも押し寄せてきていた楽器の電気化を試みるようになり、ジョンソンが果たせなかった、エレクトリック・ブルース・ギターの展開に踏み込む。第二次世界大戦時には海軍に応召、帰国後ミシシッピ州カントンのラジオ修理屋で働きながらラジオ局への出演を経験して知名度を上げていった。1951年にジャクソンで「ダスト・マイ・ブルーム」をウィリアムソンのバックを得て録音、これがリズム・アンド・ブルース・チャートのトップ10に入るほどの大ヒットとなる。翌1952年からロサンゼルスのモダン・レーベルに継続的にレコーディング、「プリーズ・ファインド・マイ・ベイビー」「ハンド・イン・ハンド」(いずれも1952、『ザ・クラシック・アーリー・レコーディングス1951―1956』The Classic Early Recordings 1951-1956収録)に聞かれるスライド奏法はすさまじいほどの迫力をもっていた。シカゴでの活動が増えるとともに、J・T・ブラウンJ. T. Brown(1918―1969、テナー・サックス)やジョニー・ジョーンズLittle Johnny Jones(1924―1964、ピアノ)を含んだバンド、ブルームダスターズのアンサンブルもまとまりをみせていく。

 1950年代後半以降はシカゴのレーベル、チーフやチェスにもレコーディングし、若手のブルースマンの台頭に刺激されるように重みのあるスロー・ブルースにも新境地を開拓し、「イット・ハーツ・ミー・トゥー」(1957)、「ザ・サン・イズ・シャイニング」(1960)といった曲を世に送り出した。

 晩年はニューヨークの黒人プロデューサー、ボビー・ロビンソンBobby Robinson(1917―2011)のファイアー・レーベルに1959~1961年にレコーディングした「ザ・スカイ・イズ・クライング」「シェイク・ユア・マニーメイカー」「サムシング・インサイド・オブ・ミー」(『ザ・スカイ・イズ・クライング クラシック・ブルース・コレクテッド』The Sky is Crying; Classic Blues Collected(2001)収録)等、傑作は枚挙にいとまがない。

 若いころから心臓を患っていたが、1963年帰らぬ人となった。当時、非黒人の間でのブルースに対する関心はまだジェームズにまで到達しておらず、45歳という若さで、しばしば歌ってきたように「マイ・タイム・エイント・ロング(おれは長くはない)」そのままになってしまったことは、ブルース界にとっても大きな痛手であった。

[日暮泰文]

『『ブルース&ソウル・レコーズ』第38号(2001・ブルース・インターアクションズ)』『Gayle Dean WardlowChasin' That Devil Music; Searching for the Blues(1998, Miller Freeman Books, San Francisco)』『Steve FranzThe Amazing Secret History of Elmore James(2003, Blue Source Publications, St. Louis)』


ジェームズ(William James)
じぇーむず
William James
(1842―1910)

アメリカの哲学者、心理学者。宗教思想家ヘンリー・ジェームズHenry James(1811―1882)の長男としてニューヨーク市に生まれる。小説家ヘンリー・ジェームズの兄。ハーバード大学で最初に化学、ついで比較解剖学と生理学を学び、さらに医学を専攻する。1869年医学博士の学位をとり、1873年よりハーバード大学で解剖学と生理学、1875年より心理学を教え、1885年哲学教授となる。1907年同大学退職。3年後にニュー・ハンプシャーのチョコルアで死去。

 最初の著作『心理学原理』(1890)は12年の歳月をかけて執筆されたものであり、従来の単に思弁的、内省的な心理学にとどまらず、実証的、観察的な事実を重視する科学的心理学を志向する画期的な名著とされ、現代心理学に多大の影響を与えるとともに、深い哲学的含蓄によって現代哲学者たち(たとえばベルクソン、J・デューイ、ウィットゲンシュタイン)に広範な刺激を与えた。論文集『信じる意志』(1897)は、知的領域で真偽を決めることのできない命題はそれを信じることによって初めて真となる場合があることを明らかにし、また決定論を批判して自由意志を認める立場を守る諸論文から成り立っている。

 1898年、カリフォルニア大学における哲学会での講演「哲学的概念と実際的結果」は、20年前にパースが唱えたプラグマティズムを独自の角度から紹介し、プラグマティズムの名を全世界に広めた。プラグマティズムに関する彼の基本的な立場は著書『プラグマティズム』(1907)と論文集『真理の意味』(1909)に詳しい。『多元的宇宙』(1909)では、宇宙はたった一つの原理によって支配されているのではなく、宇宙を統一的に記述しようとするどんな文章にも「そして」ということばが続くのであり、宇宙はいわば帝国ではなくて連邦共和国のように多元的なものであるという。

 死後出版された『根本的経験論』(1912)では、世界は物でも心でもなく、いわば両者の交点である「純粋経験」からなると主張し、ある時期のバートランド・ラッセルや西田幾多郎(にしだきたろう)の『善の研究』(1911)に影響を与えた諸論文が集められている。『哲学の諸問題』(1911)は、入門書の体裁をとりつつ自らの哲学の体系的叙述を試みたものであるが、未完の遺稿となった。

[魚津郁夫 2015年10月20日]

『福鎌達夫他訳『ウィリアム・ジェイムズ著作集』7巻(1960~1962・日本教文社)』『桝田啓三郎・加藤茂訳『根本的経験論』(1978・白水社)』『今田寛訳『心理学』上下(岩波文庫)』


ジェームズ(Etta James)
じぇーむず
Etta James
(1938―2012)

アメリカの黒人女性シンガー。ダイナミックな歌声で知られる。ロサンゼルスに生まれる。ブルースからソウル・ミュージックまで幅広くこなし、アメリカ黒人音楽の大衆性を失わないことで定評がある。小さいころには名ジャズ・ピアニスト、アール・ハインズEarl Hines(1903―1983)のもとにいたこともあり、天才的な歌唱力が近隣に知れわたっている少女だった。

 1955年、ジェームズとピーチズの共演作「ロール・ウィズ・ミー・ヘンリー」(のちに「ウォール・フラワー」と改題)がリズム・アンド・ブルース・チャートで1位となり、名声を獲得した。当時はロックン・ロールが台頭しアメリカに本格的な若者文化が花咲いた時期であり、またルース・ブラウンRuth Brown(1928―2006)やラバーン・ベイカーLaVern Baker(1929―1997)、リトル・エスターLittle Esther(1935―1984、のちのエスター・フィリップスEsther Phillips)といった若い黒人女性シンガーが堂々と自己主張を歌に込めた変革のときだったが、ジェームズもその大きな流れにのった一人として活躍した。このような女性シンガーの活躍が、アレサ・フランクリンに代表されるソウル・ミュージックにおける女性解放の歌声の基盤となっているのだった。

 1960年代の一時期、ジェームズは麻薬に溺(おぼ)れたが、その後に復活し、1967年には代表的作品となる「テル・ママ」を発表、とくにイギリスを中心としたヨーロッパで、チャック・ベリーらロックン・ロール・スターと並び高い評価を得る存在となった。1998年、「ザ・ブルース・ホール・オブ・フェイム」(ブルースの殿堂)入りを認定される。1950年代から1960年代にかけて活躍した黒人の女性シンガーがつぎつぎと舞台から退きつつある時代にあって、貴重な存在として活動した。

[藤田 正]


ジェームズ(2世)
じぇーむず
James Ⅱ
(1633―1701)

スチュアート朝第4代のイギリス王(在位1685~88)。チャールズ1世の子でチャールズ2世の次弟。1648年、ピューリタン革命の動乱を逃れて大陸に亡命し、60年母国で王政復古がなると同時に帰国。兄チャールズの治世中は、二度にわたる対オランダ戦争で武功をあげたが、しだいにカトリック信仰に接近し、73年すべての公職から退いて自らカトリック教徒たるを公にした。この事実は次期王位継承者がカトリックとなることを予想させたため、議会の激しい抵抗にあったが、結局兄の死に伴い国王に即位した。即位直後には、前王の庶子モンマス公の反乱とスコットランドの反乱を鎮圧して王座を固めたものの、国民の嫌悪する大規模な常備軍を設置したうえ、絶対主義的な大権を振りかざして露骨なカトリック化政策をとったため、急速に人心の支持を失った。88年、王妃が男子を出産したことをきっかけに、有力貴族らはジェームズの長女メアリーの夫オレンジ公ウィリアムに武力救済を請うに至り、ウィリアムの上陸にあたっては国民のみならず軍隊の支持をも失い、国外逃亡のやむなきに至った(名誉革命)。翌年アイルランドを拠点として反乱を起こしたが失敗し、失意のうちにフランスで没した。ジェームズとその直系卑属の王位を正当とみなし続けたジャコバイトは、その後も数度反乱を起こした。

[大久保桂子]


ジェームズ(1世)((1566―1625))
じぇーむず
James Ⅰ
(1566―1625)

スコットランド王(在位1567~1625)兼イングランド王(在位1603~25)。スコットランド王としてはジェームズ6世。スコットランド女王メアリー・スチュアートの子で、母の退位により1歳で即位し、1603年エリザベス1世の死とともにイングランド王位を兼ねてスチュアート朝を開いた。しかし、スコットランド育ちのためイングランドの実状に疎く、宗教面では国教会強硬派を支持して旧教徒、ピューリタン双方の失望を招き、火薬陰謀事件やピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)の新大陸移住が起こった。政治面では王権神授説を信奉して専制支配を企て、国王も法には従うべきことを主張した裁判官エドワード・クックと衝突するなど、議会や国民の反感を買った。また、従来イングランドと対立していた旧教国スペインに接近したことも国民の不満を助長した。一方、チューダー朝諸王の鎮定した北アイルランドに新教徒による植民を推進し、今日のアイルランド問題のもとをつくった。

[松村 赳]


ジェームズ(1世)((1394―1437))
じぇーむず
James Ⅰ
(1394―1437)

スコットランドの国王(在位1406~1437)。即位後フランスに赴く途中、イングランドの船に捕らえられ、禁固18年。その間、ジェーン・ボウフォート(後の王妃)への愛をつづる寓意(ぐうい)詩『王の書(キングズ・クワイア)』(詩稿発見は死後。1783刊)を書く。この作品の韻律法「ライム・ロイヤル」は、チョーサーの『トロイルスとクリセイデ』などにも用いられた。

[玉泉八州男]

『鍋島能正訳『王の書』(1976・鷹書房)』


ジェームズ(Harry James)
じぇーむず
Harry James
(1916―1983)

アメリカのジャズ・トランペット奏者。ジョージア州オールバニー生まれ。地方の楽団にいたが、1936年ベニー・グッドマン楽団に参加、独奏者として名をあげた。39年には自分の楽団を結成、40年代は甘美なダンス音楽を演奏したが、のちビッグ・バンド・ジャズに意欲を示した。華麗な技巧と輝かしい音色で人気を堅持し、白人のトランペッターではバイダーベック以来の名手とうたわれた。ラス・ベガスで没。

[青木 啓]


ジェームズ(6世)
じぇーむず

ジェームズ(1世)

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改訂新版 世界大百科事典 「ジェームズ」の意味・わかりやすい解説

ジェームズ
William James
生没年:1842-1910

アメリカの心理学者,哲学者。アメリカにおける実験心理学の創始者のひとり,哲学においてはプラグマティズムを広い思想運動に発展させ,現代哲学の主流の一つにした指導的学者として知られる。父親のヘンリー・ジェームズHenry J.(1811-82)は宗教・社会問題の著述家,父親と同名の弟は著名な小説家。ニューヨーク市に生まれ,幼時期(1843-45),少年時代(1855-60)をヨーロッパ各地で過ごし,1860年に画家を志望してアメリカの宗教画家W.M.ハントに師事したが,まもなく才能がないことを知って断念,翌年には,ハーバード大学のロレンス科学学校に入学し,はじめは化学を専攻,後に解剖学と生理学を学び,さらに医学に進んだ。医学部在学中にハーバードの著名な博物学者J.L.アガシーを隊長とするブラジル生物探検隊に参加(1865-66),アガシーによって科学的関心を強くそそられ,実証的精神を培われた。その後療養と実験生理学の研究のため再び渡欧,68年にハーバードに帰ってその翌年医学部を卒業,病気のためしばらく隠居した。73年からハーバード大学で解剖学と生理学を教え,75年からさらに心理学の講義を担当,そして79年から哲学を教えはじめ,しばらく心理学と哲学の教授を兼任したが,97年からは専任の哲学教授となって1907年まで教えた。

 ジェームズは,幼少,青年期における長い滞欧生活に加え,ハーバード大学在任中も療養,研究,学会出席などのためにたびたび渡欧して,深くヨーロッパの風土,文化,思想に親しみ,その影響を強く受けた。したがってもちろんジェームズの思想はヨーロッパ的色彩に濃く彩られているが,一方,彼はまた,だれよりも如実にアメリカの伝統を受け継ぎ,その伝統に根ざした最もアメリカ的な思想を確立した思想家であるとも言われる。しかしジェームズの哲学を一般的哲学史のなかに正しく位置づけて評価することを怠って,もっぱらそのアメリカ的性格を強調し過ぎれば,彼の真の思想と哲学的業績を歪曲することになるという警告があることも忘れてはならない。ともあれ,ジェームズの哲学の核心はなんといっても〈信ずる意志will to believe〉の思想であろう。そして〈信ずる意志〉の哲学として見れば,ジェームズの哲学の諸特性も容易に理解できるであろう。〈信ずる意志〉の哲学であるがゆえに,ジェームズの哲学は顕著に行動の哲学であり,具体的生の哲学である。というのは,〈信ずる意志〉とは〈行動する意志〉のことであり,人間として生きるための積極的かつ具体的な意志,信条にほかならないからである。ジェームズが絶対主義を排して相対主義を,決定論を否定して非決定論を,一元論に対して多元論をとるのも,世界および人生の根底につねに人間の自由意志すなわち〈信ずる意志〉を据えて考えているからである。この立場に立つがゆえに,また,ジェームズの哲学は著しく個人主義的,唯名論的にならざるをえない。プラグマティズムにおいてジェームズがたとえばC.S.パースの場合とひじょうに違うのも,パースが,(一定の条件さえ満たせば)いつでもだれでも確かめられる客観的実験的結果を重視し,それに基づく科学的信念の固め方としてプラグマティズムの方法を考えたのに対して,ジェームズは人間ひとりひとりの具体的意志の行使を重視し,そしてプラグマティズムの意味基準を〈だれかの上に,なんらかの仕方で,どこかで,あるとき生ずる〉結果に見いだそうとするからである。そのほかジェームズの哲学を顕著に特色づけている実践主義,具体的経験主義,反主知主義,反形式主義なども,あるいは彼の哲学的関心が特に宗教の問題に向けられていることも,すべて〈信ずる意志〉の思想に拠っていると言える。主著には〈意識の流れ〉やジェームズ=ランゲ説の主張を盛り込んだ《心理学原理》2巻(1890),《信ずる意志》(1897),《宗教的経験の諸相》(1902),《プラグマティズム》(1907)などのほか,西田幾多郎にも影響を与えた《根本的経験論》(1912)がある。
プラグマティズム
執筆者:


ジェームズ
Henry James
生没年:1843-1916

アメリカ人として生まれ,イギリスに帰化した小説家。ニューヨークで生まれたが,幼少のころから一家はヨーロッパ滞在を繰り返し,型にはまった教育を嫌う宗教哲学者の父の方針もあって,正規の学校教育は受けなかった。18歳のとき近所の火事の消火作業中に傷を受け,南北戦争に参加できなかった。19歳でハーバード大学に入学したが1年で退学し,バルザックやホーソーンの影響下に創作を始めた。1864年に短編や書評が雑誌に載り,以後短編,書評のほかに旅行記,演劇評なども執筆,しだいに新人作家として認められる。成人後もヨーロッパ旅行は続いたが,滞英中に愛していた従妹の死を知り衝撃を受けた。彼女は《ある婦人の肖像》《鳩の翼》の主人公の原型となった。75年以後ヨーロッパに永住の決意を固め,最初はパリでツルゲーネフ,フローベール,ゾラらと交遊,ついでロンドンに移り次々に小説を発表してゆく。

 彼の文学活動は3期に分けて考えられる。第1期は《ある婦人の肖像》(1881)に至る時期で,アメリカとヨーロッパの文明,風俗習慣の相違をテーマとしている。有名な中編《デージー・ミラー》(1878)などでは表面的な風習の対照に力点が置かれているが,《アメリカ人》(1877),ことに《ある婦人の肖像》では両大陸の対比を背景として内面的な心理の葛藤,倫理的問題が扱われている。〈視点〉の技法はすでに第1期に表れている。全知の作者の地位を放棄して,作中人物の一人の視点を通して小説世界を構築する手法である。第2期は〈国際状況〉以外のテーマなどを開拓した過渡期で,まず,作者が〈アメリカのバルザック〉を志して社会を描こうとした《ボストンの人々》《カサマシマ公爵夫人》(ともに1886)がある。劇作も試みたが,《ガイ・ダンビル》(1895)は観客の罵倒を浴びた。しかし劇作は小説作法の上で影響を残した。《メージーの知ったこと》(1897),《ねじの回転》(1898),《やっかいな年ごろ》(1899)など主としてイギリス社交界を内面から描いた作品が発表された。中編《ねじの回転》はこの作者の〈幽霊物〉の代表作で,解釈をめぐって議論が絶えない。第3期は〈国際状況〉のテーマを深く掘り下げ,精緻きわまりない心理分析を行った時期であり,ときに〈円熟期〉と称せられる。《鳩の翼》(1902),《使者たち》(1903),《黄金の杯》(1904)の3作は,徹底した〈視点〉の手法,こみ入ったイメージの交錯,複雑な文などのために近づきにくいが,小説史上まれにみる芸術的完成に達した傑作である。

 ジェームズは円熟した文化と豊かな伝統を誇るヨーロッパに道徳的腐敗を見いだし,低俗な趣味と浅薄な文明のアメリカに潔癖さや勇気を看過せず,両者の融合と総合を一生の理想とした。プルーストやジョイスによって開花した心理小説の祖として,また小説を芸術の一ジャンルとして確立するため精緻な理論を展開し,みずから実践した巨匠として,現代文学への影響は甚大である。なお,哲学者のW.ジェームズは彼の兄である。
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ジェームズ
Jesse Woodson James
生没年:1847-82

アメリカ西部の無法者。ジェシー・ジェームズと呼びならわされる。ミズーリ州に牧師で農民の子として生まれた。南北戦争に際し,兄のフランクとともに南軍に志願,残虐なことで知られるW.C.カントリル指揮下のゲリラ隊に入り,ミズーリ,カンザス地方を暴れまわった。戦後,そのゲリラ仲間10人ほどが集まって銀行強盗を始めると,ジェシーはいつしか首領となり,1873年には列車強盗も始め,神出鬼没ぶりで追跡隊を悩ませた。ただし,彼のあずかり知らぬ事件で,彼のしわざだとされたものも多いらしい。やがて,追いつめられてミズーリ州セント・ジョゼフに隠れ住んでいるところを,部下に殺された。兄のフランクは自首し,裁判の結果,放免されて,平穏な晩年を送った。当時,銀行や鉄道は北部の資本に支配されていたので,ジェシーらの悪業も民衆の喝采を博し,〈西部のロビン・フッド〉的な扱いを受けたのであろう。彼を扱った民謡やダイム・ノベル(10セント小説)や西部劇映画は数多い。
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百科事典マイペディア 「ジェームズ」の意味・わかりやすい解説

ジェームズ

米国の心理学者,哲学者。1872年以来ハーバード大学の生理学,哲学,心理学の教授を歴任。心理学ではブントをはじめとするドイツ心理学の要素的傾向に反対し,〈意識の流れ〉を主張した。機能的・生物学的な心理学を説き,実験心理学の創始者の一人となった。哲学でも〈意識の流れ〉としての〈純粋経験〉を基礎に,あらゆる超越的実在を否定する〈根本的経験論〉を主張し,ドイツ観念論に反対して相対主義,多元論,反主知主義を説く。プラグマティズムはその方法論として確立されたもので,生物学的適応論を基礎に,一切の認識を環境に対する有機体の適応とみて,真理の標準をプラグマ(行為の結果・効用)に求めた。著書は《心理学原理》《プラグマティズム》《根本経験論》など。弟は小説家ヘンリー・ジェームズ。→ジェームズ=ランゲ説
→関連項目機能心理学シラー心霊研究協会善の研究ソーンダイクミュンスターバーグロイス

ジェームズ[1世]【ジェームズ】

イングランド王(在位1603年―1625年)。スコットランド王としてはジェームズ6世(在位1567年―1625年)。メアリー・スチュアートの子。エリザベス1世の死後英国王位を継ぎ,スチュアート朝の祖となる。英国国教会主義をとり,旧教徒・清教徒(ピューリタン)の双方を弾圧したので,1605年旧教徒による火薬陰謀事件が起きた。自ら王権神授説を主張し,重課税・独占権付与・外交問題等で議会と対立し,国民の不満を高め,ピューリタン革命の遠因をつくった。
→関連項目イギリス商館エリザベス[1世]グレート・ブリテン[島]チャールズ[1世]バッキンガム公ユニオン・ジャックロー

ジェームズ

英国の小説家。W.ジェームズの弟に当たる。ニューヨークの裕福な知識人の家に生まれ,少年期に家族とともに数度ヨーロッパに滞在。ハーバード大学にも在籍したが,1865年ごろから雑誌に寄稿を始める。ヨーロッパと米国を往き来しながら作品を書いたが,1875年パリ経由でロンドンに渡り,のち英国に帰化。《ロデリック・ハドソン》(1875年),《デージー・ミラー》(1878年),《ある婦人の肖像》(1881年)など,米国とヨーロッパの新旧文化の衝突という国際問題を扱った作品を書く。その後,別のテーマも試みたが,再び新旧大陸を主題にした《鳩の翼》(1902年),《使者たち》(1903年),《黄金の杯》(1904年)を発表した。その特色は,厳密な構成と入念な文体によって,出来事ではなく心理の複雑さを描いた点にあり,プルーストジョイスらの先駆となっており,現代文学への影響ははかりしれない。ほかに,中編《ねじの回転》(1898年),《密林の獣》(1903年),未完の《象牙の塔》(1917年),《過去の感覚》(1917年),評論《小説の技法》や紀行文など。
→関連項目怪奇小説キャザー

ジェームズ[2世]【ジェームズ】

イングランド王(在位1685年―1688年)。チャールズ1世の子。ピューリタン革命で一時亡命,王政復古で帰国。旧教徒であったため議会に王位継承に反対する動きがあったが,これを抑え,兄チャールズ2世の跡をうけて即位した。旧教復活・常備軍設置により専制政治を行おうとして議会と対立し,1688年名誉革命によりフランスに亡命した。ルイ14世の援助により,その支持者(ジャコバイト)とともに再起を図ったが失敗した。
→関連項目スチュアート朝メアリー[2世]モンマス公

ジェームズ

米国のブルース歌手,ギター奏者,作曲家。割れたガラス瓶の首の部分をギターの弦に押しつけて演奏するボトル・ネック奏法の名手。1951年にR.ジョンソンのカバー曲《ダスト・マイ・ブルームDust My Broom》でレコード・デビューし,これによって全米の注目を浴びた。後に,いとこのホームシック・ジェームズHomesick James〔1910-2006〕らと組んで,《スカイ・イズ・クライングThe Sky Is Crying》などのヒット曲を放ち,エレクトリック・ブルース界に大きな影響を与え,多くの模倣者を生んだ。
→関連項目ベリー

ジェームズ

米国の列車強盗団の首領。南北戦争中,南部軍のゲリラであるカントリル遊撃隊に加わって活動し,兄フランクやヤンガー兄弟と組み,西部で悪名をとどろかせた。1876年ミネソタ州で銀行襲撃に失敗してから落ち目となり,手下に撃たれて死んだ。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジェームズ」の意味・わかりやすい解説

ジェームズ
James, William

[生]1842.1.11. ニューヨーク
[没]1910.8.26. ニューハンプシャー,チョコルア
アメリカの哲学者,心理学者,いわゆるプラグマティズムの指導者。小説家 H.ジェームズの兄。 1861年ハーバード大学理学部へ入学,のち同大学の医学部へ移籍。 67~68年ドイツに留学し,フランスの哲学者 C.ルヌービエなどの影響を受け,心理学,哲学に心をひかれた。 69年卒業,学位を得たが開業せず,療養と読書に過した。 72年ハーバード大学生理学講師。のち心理学に転じ,伝統的な思考の学としてではなく生理心理学を講じ,実験心理学に大きな貢献をした。また,ドイツの心理学者 C.シュトゥンプを高く評価。さらに宗教,倫理現象の研究に進み,その後哲学の研究に入った。その立場は根本的経験論に基づく。そのほか,82年頃から心霊学に興味をもち,アメリカ心霊研究協会の初代会長をつとめた。主著『心理学原理』 The Principles of Psychology (1890) ,『信ずる意志』 The Will to Believe and Other Essays in Popular Philosophy (97) ,『宗教的経験の諸相』 The Varieties of Religious Experience (1901~2) ,『プラグマティズム』 Pragmatism (07) ,『根本経験論』 Essays in Radical Empiricism (12) 。

ジェームズ
James, Henry

[生]1843.4.15. ニューヨーク
[没]1916.2.28. ロンドン
アメリカの小説家。哲学者を父として,名門の富裕な家に生れ,兄ウィリアムとともに幼い頃から何度かヨーロッパに旅行した。ハーバード大学に学び,1875年からヨーロッパに永住,長編『ロデリック・ハドソン』 Roderick Hudson (1875) ,『アメリカ人』 The American (77) ,中編『デイジー・ミラー』 Daisy Miller (79) で文名を確立,以後『ある婦人の肖像』 The Portrait of a Lady (81) ,『鳩の翼』 The Wings of the Dove (1902) ,『使者たち』 The Ambassadors (03) ,『黄金の鉢』 The Golden Bowl (04) など,欧米間の文化,人間性の相違を扱った「国際小説」を発表したほか,旅行記,書簡,評論などを残した。視点人物の設定,内面描写など技法上でも新生面を開き,ジョイス,プルーストらの先駆者として 20世紀最大の作家の一人に数えられる。

ジェームズ
James, George Wharton

[生]1858.9.27. リンカーンシャー,ゲインズバラ
[没]1923.11.8. カリフォルニア,パサディナ
イギリス生れのアメリカ南西部地域の探検家,紹介者。 1881年アメリカに移り,89年までカリフォルニア,ネバダでメソジスト派牧師。アメリカ南西部の地理,インディアンの生活についての調査報告および著述が多く,彼らと親しくつきあったことでも有名。主著『グランド・キャニヨン周辺』 In and Around the Grand Canyon (1900) ,『南西部の先史時代の断崖住居』 Prehistoric Cliff Dwellings of the Southwest (18) 。

ジェームズ
James, Marquis

[生]1891.8.29. メリーランド,スプリングフィールド
[没]1955.11. ニューヨーク,ライ
アメリカのジャーナリスト,作家。 1917~19年軍務に服し第1次世界大戦下のフランスに渡る。 23~32年『アメリカ在郷軍人会月報』 American Legion Monthlyの編集スタッフとなり,アメリカの歴史,伝記を多数著わした。 37年『アンドルー・ジャクソン伝』 Andrew Jacksonでピュリッツァー賞を得た。

ジェームズ
James, Jesse Woodson

[生]1847.9.5. ミズーリ,センタービル付近
[没]1882.4.3. ミズーリ,セントジョーゼフ
アメリカ西部における最も著名な無法者の一人。ジェシー・ジェームズとして知られる。南北戦争当時 15歳で南軍ゲリラ隊に加わり活躍したが,戦後無法者の宣告を受け,1867年に「ジェームズ団」を組織して銀行襲撃,列車強盗を働き,仲間の裏切りにより殺された。弱者や牧師,南部は襲わず,義賊として伝説化された。

ジェームズ
James, Charles

[生]1880.4.27. ノーサンプトンシャー,アールスバートン
[没]1928.12.10. ボストン
イギリス生れのアメリカの化学者。ロンドン大学のユニバーシティ・カレッジ卒業 (1904) 。アメリカに渡ってニューハンプシャー大学教授。希土類元素に関する広範な研究を行い,純度の高い希土の製造,固定を行なった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ジェームズ」の解説

ジェームズ(2世)
James Ⅱ

1633〜1701
イギリス王(在位1685〜88)
チャールズ1世の子,チャールズ2世の弟。ピューリタン革命で一時亡命したが,王政復古で帰国した。熱烈なカトリック教徒で,王権神授説を奉じ,カトリック教徒の公職就任を認めるなど,審査法を無視して専制を行った。国民の不満が高まってホイッグ党もトーリー党も王に反対し,1688年の名誉革命でフランスに追われ,ルイ14世の援助でその支持者(ジャコバイト)とともに復位をはかったが失敗した。

ジェームズ(1世)
James Ⅰ

1566〜1625
イギリス王(在位1603〜25)
メアリ=ステュアートの子。ジェームズ6世としてスコットランド王(在位1567〜1625)であったが,テューダー朝の断絶後,イングランド王を兼ね,ステュアート朝を開いた。王権神授説を奉じて議会と衝突。ピューリタンを弾圧し,国教を強制した。

ジェームズ(ウィリアム)
William James

1842〜1910
アメリカの哲学者・心理学者
『心理学原理』『宗教的経験の種々相』を著し,1906年ごろからは哲学に傾倒。パースとともにプラグマティズムを創始した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジェームズ」の解説

ジェームズ(ウィリアム)
William James

1842~1910

アメリカの心理学者,哲学者。心理学者としては「意識の流れ」を重視して心理現象の流動性,機能性を強調。哲学者としてはある命題が真理であるかどうかはそれにもとづいて行動したときの結果によって定まるとするプラグマティズムの立場をとった。主著『宗教経験の諸相』(1902年)など。


ジェームズ(ヘンリ)
Henry James

1843~1916

イギリスに帰化したアメリカの作家。『ある婦人の肖像』(1881年),『鳩の翼』(1902年)などによって,無垢(むく)で民主的なアメリカと,道徳的に腐敗した古い貴族主義的なヨーロッパを対比的に描く。究極的には欧米文化の統合をめざした。

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367日誕生日大事典 「ジェームズ」の解説

ジェームズ

生年月日:1880年4月27日
アメリカの化学者
1928年没

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世界大百科事典(旧版)内のジェームズの言及

【スコットランド】より

…その後ダンカンの血統が絶え,1371年ロバート2世が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり,ジェームズ5世(在位1513‐42)は2人の王妃をフランスから迎え,その娘の女王メアリー(メアリー・スチュアート)はフランス王妃ともなった。 スチュアート王家,フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として,1559年宗教改革戦争が始まり,J.ノックスの指導のもとにカルバン系の改革教会が樹立された(1560)。…

【スコットランド】より

…その後ダンカンの血統が絶え,1371年ロバート2世が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり,ジェームズ5世(在位1513‐42)は2人の王妃をフランスから迎え,その娘の女王メアリー(メアリー・スチュアート)はフランス王妃ともなった。 スチュアート王家,フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として,1559年宗教改革戦争が始まり,J.ノックスの指導のもとにカルバン系の改革教会が樹立された(1560)。…

【スコットランド】より

…その後ダンカンの血統が絶え,1371年ロバート2世が即位してスチュアート朝を開始。フランスとの提携が強まり,ジェームズ5世(在位1513‐42)は2人の王妃をフランスから迎え,その娘の女王メアリー(メアリー・スチュアート)はフランス王妃ともなった。 スチュアート王家,フランス勢力と結びついたローマ・カトリック教会に対する反抗として,1559年宗教改革戦争が始まり,J.ノックスの指導のもとにカルバン系の改革教会が樹立された(1560)。…

【ある婦人の肖像】より

…アメリカの作家H.ジェームズの小説。1881年刊。…

【感情】より

…いずれもわれわれにとってきわめて身近なものでありながら,この感情の学問的解明は遅れており,相互に対立し合うさまざまな説明が与えられている。たとえば情動は,古い時代には意識の側から説明されていたが,これに対してW.ジェームズは〈悲しいから泣くのではなく,むしろ泣くから悲しいのだ〉と,これを神経興奮に続いて起こる身体的変化の側から説明し(ジェームズ=ランゲ説),心理学に変革をひき起こした。ところが一方,そのように情動は生理的混乱の意識への反映であり無意味な意識現象だとする見方に対して,怒りやヒステリーの発作でさえ,順序だった行動によって対処しえぬ状況を避けようとするそれなりに意味のある行動(P.ジャネ),象徴的行動(S.フロイト),その状況を虚構的に変容しようとする魔術的行動(J.P.サルトル),つまりは意識の全体的な態度だと見る見方が提出されている。…

【経験論】より

…合理論ないし理性主義に対立するが,この対立の代表は17~18世紀の西洋の大陸合理論対イギリス経験論である。W.ジェームズはこの対立を,諸原理によって進む硬い心の人と諸事実によって進む軟らかい心の人との気質の対立として説明した。経験論という邦訳語は《哲学字彙》(1881)以来定着している。…

【ジェームズ=ランゲ説】より

…一般に一つの理論と誤解されている。アメリカの心理学者W.ジェームズは,情動とは原因的場面の知覚にすぐ続いて起こる内臓と筋肉の変化を体験することであると主張した(1884)。これとまったく独立にデンマークの生理学者ランゲC.G.Langeは脈管における変化を体験するのが情動であるとした(1885)。…

【宗教心理学】より

…学問のはじまりは関連ある現象の分類にある。W.ジェームズは〈健やかな精神の人〉と〈病める魂の人〉という二大別を行い,人生を比較的楽天的に,肯定的に見る人と,人生の苦悩を人一倍感受し,その苦悩を通して,神を求める人とに分けた。前者はどちらかといえば,内在的な神あるいは汎神論的な考えに魅力を感じ,自分自身の中に神性,仏性をやどし,あるいは自然の美しい現象の中に神の営みを体験するタイプであり,後者は,超越的な神,きびしい父性的な神を信ずるタイプである。…

【心理学】より

…この考えは,デカルトのコギトから出発して意識の志向性(〈意識はつねに何ものかについての意識である〉)を人間理解の中心に据えたサルトルに受け継がれたが,心理学それ自体のなかでは力をもたなかった。W.ジェームズの機能主義心理学も,有名な〈意識の流れ〉という言葉からわかるように,個々の要素ではなく一つの全体的流れとしての意識の機能を問題とした。W.マクドゥーガルの本能論心理学も,精神の能動性を主張する学派の一つで,精神のあらゆる活動の推進力として生得的な本能を考えた。…

【心霊研究協会】より

…当初の目的は,死後生存にまつわる諸現象およびメスメリズムmesmerism(催眠)の厳密な調査,研究であった。歴代会長には,W.ジェームズ,ベルグソン,クルックス,ドリーシュら一流の学者が名を連ねる。3年後にはジェームズらの努力で,アメリカにも同様の団体が組織されている。…

【政治意識】より

…それは年齢や社会構造に応じての気質や性格の変化と結びつけることによって,さまざまな類型論を生んでいる。それらの中でも,W.ジェームズの〈かたい心〉〈やわらかい心〉と急進・反動型,保守・漸進型を結びつけたローエルAbbort L.Lowellの類型論は,その後,H.J.アイゼンクによって調査データの因子分析による裏付けをえて,広く用いられている。S.フロイトは,このような性格の形成をリビドー(性衝動)の発達と下意識の抑圧構造と結びつけ,政治意識の解釈に新しい領域を開いた。…

【多元論】より

…近世では,表象能力と欲求能力とを備えて無意識的な状態から明確な統覚を有する状態まで無数の段階を成すモナドを説くライプニッツ,近代ではその影響下にあって経験の根底に多数の実在を認め心もその一つとするJ.F.ヘルバルト,真の現実界は物質界を現象として意識する自由で個体的な多数の精神的単子から成ると説くH.ロッツェなどである。さらにまたW.ジェームズは自己の根本的経験論は多元論であり,世界はどの有限な要素も相互に中間項によって連続せしめられており,隣接項とともに一体を成しているが,全面的な〈一者性oneness〉は決して絶対的に完全には得られぬとして,多元論の立場から多元的宇宙を説き,一元論的な絶対的観念論の完結した全体的な宇宙観を退けた。【茅野 良男】
[インドの多元論]
 インドでは,ニヤーヤ学派バイシェーシカ学派の説が,多元論の代表とみなされている。…

【プラグマティズム】より

…プラグマティズムは哲学へのアメリカの最も大きな貢献であり,実存主義,マルクス主義,分析哲学などと並んで現代哲学の主流の一つである。プラグマティズムを代表する思想家にはC.S.パースW.ジェームズJ.デューイG.H.ミードF.C.S.シラーC.I.ルイスC.W.モリスらがいる。プラグマティズム運動は〈アメリカ哲学の黄金時代〉(1870年代~1930年代)の主導的哲学運動で,特に20世紀の最初の4分の1世紀間は全盛をきわめ,アメリカの思想界全体を風靡(ふうび)するとともに,広く世界の哲学思想に大きな影響を与えた。…

【霊媒】より

…有名な霊媒には,ヒューム(ホーム)Daniel Dunglas Home,パラディーノEusapia Palladino(以上物理的霊媒),パイパーLeonore Piper,ギャレットEileen Garrett(以上心理的霊媒)などがいる。そのうちパラディーノに関しては犯罪学者ロンブローゾらが,パイパーに関しては心理学者W.ジェームズらが,ギャレットに関しては生理学者カレルらが実験的研究を行っている。霊媒を通じて,通常では得られない死者に関する正確な情報が得られても,その由来を解釈する場合,死後生存仮説の対立仮説として,実在するあらゆる情報源から超感覚的に関連情報を探し出し利用したとする超ESP仮説があり,死後生存の証明はきわめて難しいとされる。…

※「ジェームズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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