コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ディミトロフ ディミトロフ Dimitrov, Georgii Mikhailovich

6件 の用語解説(ディミトロフの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ディミトロフ
ディミトロフ
Dimitrov, Georgii Mikhailovich

[生]1882.6.18. ラドミル近郊コバチェフツィ
[没]1949.7.2. モスクワ近郊バルビカ
ブルガリアの政治家。印刷工出身。 1902年社会民主労働党に参加,21年コミンテルン執行委員となり,ウィーンベルリンで活動。ベルリンでは 33年国会議事堂放火事件で逮捕されたが,ライプチヒの法廷で事件がナチスの陰謀であることを暴露した。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ディミトロフ(Georgi Dimitrov Mikhaylov)

[1882~1949]ブルガリアの政治家。1933年、ドイツ国会議事堂放火事件でナチスに逮捕されたが釈放。コミンテルンの書記長として、1935年の第7回大会で反ファシズム人民戦線戦術について報告。1946年人民共和国初代首相に就任。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

ディミトロフ

ブルガリアの革命運動家。ブルガリア労働社会民主党ブルガリア共産党の指導的メンバー。1923年以後コミンテルン執行委員,1935年―1943年同書記長。第2次大戦後1946年―1949年首相として国家再建,社会主義化を指導した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

世界大百科事典 第2版の解説

ディミトロフ【Georgi Mihailov Dimitrov】

1882‐1949
ブルガリアの政治家。同国西部のペルニク県の農村に貧しい職人の子として生まれた。12歳から植字工見習となり,1902年ブルガリア社会民主党に入党,翌年ブラゴエフの下で同党左派(通称チェスニャキ派。1919年ブルガリア共産党に改組)の結成に参加した。第1次世界大戦勃発の前後にはバルカン社会主義連邦の会議でも活躍して反戦運動を行った。23年9月ブルガリアの労働者の反ファシズム蜂起を指導,それが失敗したのちソ連に亡命してコミンテルン執行部委員となった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ディミトロフ【Georgi Mikhailovich Dimitrov】

1882~1949) ブルガリアの革命家・政治家。1933年ドイツ国会議事堂放火事件で捕らえられ、法廷でナチスを批判。釈放後コミンテルンを指導し、反ファシズム人民戦線を提唱。人民共和国の成立に尽くし、46年首相。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ディミトロフ
でぃみとろふ
Georgi Dimitrov
(1882―1949)

ブルガリア共産党指導者、コミンテルン書記長、第二次世界大戦後首相。12歳で植字工徒弟となり、1901年印刷労組の書記に選出される。翌年ブルガリア労働者社会民主党に入党し、同党が分裂すると、のちに共産党に改組される同党左派(狭義派)に加わり、09年、中央委員会委員となる。18年には時の政府の戦争政策に反対して投獄されたが、第一次大戦後も交通ストを指導するなど積極的に革命運動に参加した。21年にコミンテルン第3回大会に出席し、23年には共産党の右翼、軍部のツァンコフ政権に対する「9月蜂起(ほうき)」の指導に参加したが、蜂起が失敗に終わり国外に亡命。欠席裁判で死刑判決を受けた。亡命中はブルガリア共産党中央委員会国外事務局の委員となって活動を続けた。33年、ナチスの仕組んだドイツの「国会議事堂放火事件」に連座して逮捕されたが、裁判で冤罪(えんざい)を晴らし、逆にナチスを攻撃した。翌34年に無罪釈放されるとソ連へ行き、ここでソ連の市民権を得た。
 ディミトロフは、1935年以来43年までコミンテルン書記長として反ファシズム運動の組織化に努めた。とくに、35年のコミンテルン第7回大会における彼の報告は、人民戦線政策確定のうえで大きな役割を果たした。第二次大戦中は、ソ連にあってブルガリアの反ファシズム運動の組織化を進め、「祖国戦線」が権力を掌握すると45年ブルガリアに戻り、翌年首相となって反対派を一掃し、社会主義化を推し進めた。49年7月2日、療養先のモスクワ近郊で客死した。[寺島憲治]
『ディミトロフ選集編集委員会編・訳『ゲオルギイ・ディミトロフ選集』全3巻(1972・大月書店) ▽ディミトロフ著、坂井信義・村田陽一訳『反ファシズム統一戦線』(大月書店・国民文庫) ▽ステラ・ブラゴエワ著、草野悟一訳『ゲオルギ・ディミトロフ』(1970・恒文社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内のディミトロフの言及

【統一戦線】より

… 統一戦線戦術が新しい装いのもとにコミンテルンで復活するのは,ドイツで1933年のナチズムの政権獲得後,35年のコミンテルン第7回大会においてであった。この大会において,コミンテルン書記長ディミトロフは,プロレタリア統一戦線と同時に反ファッショのいっさいの勢力を結集する統一戦線形態として,反ファシズム人民戦線をフランス等における実際の運動経験に基づいて提起した(その成果は1936年のフランス人民戦線,スペイン人民戦線。37年以降の中国における抗日民族統一戦線など)。…

※「ディミトロフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

ディミトロフの関連キーワードツァンコフコペルニクス原理サニービーチДимитровоПерник明治 アクアブルガリア明治 アクアブルガリアClear明治アクアブルガリアゼロコペルニクス・コードブラゴエフ

今日のキーワード

カルテット

四重唱および四重奏。重唱,重奏の形態のなかで最も基本的なもので,声楽ではルネサンスの多声歌曲の形式であるシャンソンやフロットラから始り長い歴史をもつ。器楽も同様で,特に弦楽四重奏は室内楽の全レパートリ...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ディミトロフの関連情報