ブルガリア共産党指導者、コミンテルン書記長、第二次世界大戦後首相。12歳で植字工徒弟となり、1901年印刷労組の書記に選出される。翌年ブルガリア労働者社会民主党に入党し、同党が分裂すると、のちに共産党に改組される同党左派(狭義派)に加わり、09年、中央委員会委員となる。18年には時の政府の戦争政策に反対して投獄されたが、第一次大戦後も交通ストを指導するなど積極的に革命運動に参加した。21年にコミンテルン第3回大会に出席し、23年には共産党の右翼、軍部のツァンコフ政権に対する「9月蜂起(ほうき)」の指導に参加したが、蜂起が失敗に終わり国外に亡命。欠席裁判で死刑判決を受けた。亡命中はブルガリア共産党中央委員会国外事務局の委員となって活動を続けた。33年、ナチスの仕組んだドイツの「国会議事堂放火事件」に連座して逮捕されたが、裁判で冤罪(えんざい)を晴らし、逆にナチスを攻撃した。翌34年に無罪釈放されるとソ連へ行き、ここでソ連の市民権を得た。
ディミトロフは、1935年以来43年までコミンテルン書記長として反ファシズム運動の組織化に努めた。とくに、35年のコミンテルン第7回大会における彼の報告は、人民戦線政策確定のうえで大きな役割を果たした。第二次大戦中は、ソ連にあってブルガリアの反ファシズム運動の組織化を進め、「祖国戦線」が権力を掌握すると45年ブルガリアに戻り、翌年首相となって反対派を一掃し、社会主義化を推し進めた。49年7月2日、療養先のモスクワ近郊で客死した。
[寺島憲治]
『ディミトロフ選集編集委員会編・訳『ゲオルギイ・ディミトロフ選集』全3巻(1972・大月書店)』▽『ディミトロフ著、坂井信義・村田陽一訳『反ファシズム統一戦線』(大月書店・国民文庫)』▽『ステラ・ブラゴエワ著、草野悟一訳『ゲオルギ・ディミトロフ』(1970・恒文社)』
ブルガリアの政治家。同国西部のペルニク県の農村に貧しい職人の子として生まれた。12歳から植字工見習となり,1902年ブルガリア社会民主党に入党,翌年ブラゴエフの下で同党左派(通称チェスニャキ派。1919年ブルガリア共産党に改組)の結成に参加した。第1次世界大戦勃発の前後にはバルカン社会主義連邦の会議でも活躍して反戦運動を行った。23年9月ブルガリアの労働者の反ファシズム蜂起を指導,それが失敗したのちソ連に亡命してコミンテルン執行部委員となった。33年ドイツ国会放火事件の容疑者としてベルリンで逮捕されたが,裁判でファシズムを弾劾する陳述を行い国際世論の支持により34年釈放された。35-43年にはコミンテルン執行部書記長として活躍,とくにコミンテルン第7回大会(1935)における反ファシズム統一戦線に関する報告は有名である。第2次世界大戦後はブルガリア共産党の書記長および首相としてブルガリアの社会主義化に指導的役割を果たした。
執筆者:萩原 直
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1882~1949
ブルガリアの共産主義者。1933年のドイツ国会議事堂放火事件裁判での法廷闘争や,35年のコミンテルン第7回大会での人民戦線戦術に関する報告で有名である。第二次世界大戦後にはブルガリア首相(在任1946~49)となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
… 統一戦線戦術が新しい装いのもとにコミンテルンで復活するのは,ドイツで1933年のナチズムの政権獲得後,35年のコミンテルン第7回大会においてであった。この大会において,コミンテルン書記長ディミトロフは,プロレタリア統一戦線と同時に反ファッショのいっさいの勢力を結集する統一戦線形態として,反ファシズム人民戦線をフランス等における実際の運動経験に基づいて提起した(その成果は1936年のフランス人民戦線,スペイン人民戦線。37年以降の中国における抗日民族統一戦線など)。…
※「ディミトロフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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