トリアッティ(読み)とりあってぃ(英語表記)Palmiro Togliatti

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

トリアッティ(Palmiro Togliatti)
とりあってぃ
Palmiro Togliatti
(1893―1964)

イタリアの政治家、共産主義運動の国際的指導者。ジェノバの下級官吏の家庭に生まれ、給費生としてトリノ大学に進学。在学中にグラムシと親交を結ぶ。1919年グラムシ、タスカとともに『新秩序(オルデイネ・ヌオーボ)』誌を発行してトリノの工場評議会運動を指導。1921年に創設されたイタリア共産党に参加し、翌1922年の第2回党大会で中央委員に選出される。党内の指導権をめぐるグラムシの反ボルディーガ闘争を支持し、1926年初頭リヨンで開かれた第3回党大会における「新秩序」派の勝利に貢献した。大会直後コミンテルンへの党代表としてモスクワに赴任、以後19年に及ぶ海外生活に入る。共産党がムッソリーニによって非合法化され、グラムシが逮捕されたあと(1926.11)パリに指導部を設置して国外からの指導体制を掌握する。スターリンとブハーリンの間に激動するコミンテルン書記局にあって冷静な対応によって生き残り、1935年のコミンテルン第7回大会ではディミトロフとともに国際共産主義運動の転換(「階級対階級」戦術から人民戦線戦術へ)に尽力した。
 1936年から1939年にかけてコミンテルン代表としてスペインの闘争を現地で指導。第二次世界大戦中はモスクワからイタリアの反ファシズム運動を指導し、ファシスト政権崩壊後の1944年春祖国に帰り、対ドイツ解放闘争に総力を結集する党の新しい政策を打ち出す(「サレルノの転換」)。以後この観点から国民解放委員会を基盤とする諸政府(バドリオから第一次デ・ガスペリまで)につねに閣僚として参加し、合法的大政党としての共産党の地位を確立した。1948年夏、右翼によるトリアッティ暗殺未遂事件は労働者の自然発生的ゼネストを引き起こした。ソ連の第20回党大会に始まるスターリン批判の動向を背景としてイタリア共産党第8回大会で「社会主義へのイタリアの道」、いわゆる構造改革路線を提出し、国際的に注目を浴びた。その核心は「多中心主義」の語に要約される。これによってロシア革命と異なる多様な民主主義的社会主義の道が開かれることになった。1964年8月21日、中ソ論争の激化のさなかに国際共産主義運動の分裂を憂慮しつつヤルタで客死した。[重岡保郎]
『山崎功著『パルミーロ・トリアッティ』(1978・合同出版) ▽選集刊行委員会編『新版トリアッティ選集』全3巻(1980・合同出版)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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