イタリア共産党指導者。トリノ大学在学中に社会党に入党,第1次大戦後グラムシらとともに《新秩序Ordine Nuovo》誌を発行して,トリノの労働運動を指導する。1921年イタリア共産党の創設に参加,のちコミンテルン執行委員となる。ファシズム政権に共産党が非合法化され,グラムシが逮捕されたあと,党指導部のトリアッティらはパリに移り,国外から反ファシズム闘争を進めた。コミンテルン第6回大会(1928)でイタリア・ファシズムの性格に関する重要な報告を行ったが,のち社会ファシズム論(ファシズム)を受け入れて党指導部の分裂を招く。しかし,第7回大会(1935)では社会ファシズム論から人民戦線路線への転換を推進し,37年から39年にかけてスペイン内乱を現地で指導した。第2次大戦中はモスクワからのラジオ放送でイタリア国民に抵抗を呼びかけ,連合軍と反ファシズム諸勢力によって南イタリアが解放されたあとの44年3月,ほぼ18年ぶりに帰国した。
この時期,反ファシズム諸政党で構成する国民解放委員会と国王・バドリオ政権との間の対立が深まっていたが,トリアッティはバドリオへの協力を表明して,同年4月諸政党の参加したバドリオ政府の成立をもたらし,みずからも入閣した。サレルノ転回とよばれるこの事件は,以後のレジスタンス闘争の展開に一定の枠組みを与えることになった。トリアッティはこののち46年の第1次デ・ガスペリ内閣のときまで連続して閣僚のポストにとどまる。この間,党の大衆化を試みて,共産党をキリスト教民主党に次ぐ第二党の位置に定着させた。48年,右翼青年の襲撃を受けたが一命をとりとめる。スターリン死後冷戦の緊張状態を緩和した,〈雪どけ〉を背景とした党の第8回大会(1956)で,イタリア社会の構造的諸改革を提案し,従来の革命的変革に代わる構造改革論を打ち出した。この路線は国際共産主義運動の多様化に道を開き,多中心主義の表現を生み出した。
執筆者:北原 敦
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1893~1964
イタリアの政治家。1914年社会党に入党。トリノにおける工場占拠運動を指導したのち,21年にグラムシらとともに共産党を創立。27年にグラムシが逮捕されると亡命し,国外で反ファシズムの運動を行った。第二次世界大戦中はモスクワでコミンテルン書記局に身を置く。44年に帰国し,党を再建して書記長となる。44~46年には副首相,法相を歴任した。スターリン批判後はイタリア独自の革命形態としての構造改革論を主張し注目を浴びた。
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…この立場は,国家の形成と国民の組織化という点でリソルジメントは未完にとどまったとし,その未完のリソルジメントを継承し完成させる運動としてファシズムに積極的な支持を与えた。 第4の立場は,グラムシやトリアッティら共産党指導者の解釈で,グラムシらは,これまでイタリアの支配諸階層は地域ごと産業ごとに分裂していて統一的な政治組織をもたなかったが,ファシズムはこれら支配諸階層を単一の政治機関のもとに統一する役割を果たしたと分析し,その階級的性格を強調した。さらにトリアッティは30年代に入って,ファシズムが大衆の組織化を通じて支配の安定を図っている状況を指摘し,大衆の反動体制という形態をとった階級独裁としてファシズムを性格づけた。…
※「トリアッティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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