ドゥーフ(英語表記)Hendrik Doeff

百科事典マイペディアの解説

ドゥーフ

江戸末期に来日したオランダ人。道富,ズーフとも。1799年長崎に着き,1803年出島オランダ商館長となる。1817年まで在任し,この間F.ハルマの蘭仏辞書に準拠して蘭和辞書編集を指揮,通詞たちを督励して1816年一部脱稿,完成はドゥーフ離日後の1833年。この辞書は〈道訳ハルマ〉または〈長崎ハルマ〉とよばれ,当時最大・最良の蘭和辞書として多くの蘭学者が利用・転写した。なお同じF.ハルマの辞書から稲村三伯が作成した辞書《ハルマ和解》は〈江戸ハルマ〉とよばれた。→桂川甫周
→関連項目島津重豪馬場佐十郎ハルマ和解丸山

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朝日日本歴史人物事典の解説

ドゥーフ

没年:1835.10.19(1835.10.19)
生年:1777.12.2
江戸後期の長崎出島オランダ商館長。アムステルダム生まれ。1798年オランダ東インド会社商務員補としてバタビアに出発。翌年の寛政11(1799)年夏,書記として出島に着任するが,商館の荒廃ぶりを報告のためいったん帰帆。同12年7月に新館長W.ワルデナールと共に長崎に到着,翌年荷倉役,享和3(1803)年商館長となって商館の立て直しを図ったが,1795年から1813年までオランダはフランス革命・ナポレオン戦争のため事実上フランスの属国となり,英国と戦争状態だったため,出島では米国など中立国の傭船による貿易を余儀なくされ,窮乏生活に陥っていた。この間,英国軍艦フェートン号の長崎港闖入事件(1803),英国東インド総督T.ラッフルズの出島奪取未遂事件(1813)に際し,機敏に危機を切り抜けて,当時世界中で唯一のオランダ国旗を守った。文化13(1816)年,ハルマの『蘭仏辞典』をもとに通詞のため私的に編纂した蘭和辞典を増訂するよう幕府から命ぜられ,翌年12月帰国するまでに中山時十郎,吉雄権之助ら11人の通詞と共に粉骨砕身し,江戸時代最大の本格的蘭和辞典『和蘭辞書和解』(通称『ドゥーフ・ハルマ』または『長崎ハルマ』)をほぼ完成させた。「稲妻やその手借りたし草枕」などの句作があるほど日本語に堪能で,島津重豪ほか多くの蘭癖大名,蘭学者に愛されたが,帰路海難事故で新妻と収集資料の一切を失い,帰国後もシーボルトの策動のため不遇だった。<著作>斎藤阿具訳註『日本回想録』

(松田清)

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世界大百科事典 第2版の解説

ドゥーフ【Hendrik Doeff】

1777‐1835
オランダの長崎商館長。日本名は道富で,ズーフ,ヅーフとも書かれた。1798年ジャワに到着,東インド会社の下級商務員となる。99年(寛政11)長崎商館書記として来日。翌年再び来日した後,1801年(享和1)荷倉役,03年商館長に昇進。このころナポレオン戦争のため本国はフランスに占領され,ジャワとの連絡も途絶したため,日本貿易はアメリカ船を雇い入れて,細々と続けられていた。04年(文化1)ロシア使節レザノフが長崎に来航して通商を求め,08年イギリス船フェートン号が長崎港内で乱暴を働くなど,多難な時期に当たった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ドゥーフ
どぅーふ
Hendrik Doeff
(1777―1835)

江戸後期の長崎オランダ商館長。漢名を道冨。アムステルダム出身。1799年(寛政11)7月、出島(でじま)商館の書記として長崎に赴任、1803年(享和3)ワルデナール商館長離任のおり、その才幹を認められ27歳の若さで商館長となった。彼の在任中、本国はフランスに併合され、フランスに敵対するイギリス勢力によりオランダ船の日本渡航は脅かされ、11年(文化8)にはイギリス軍にジャワ島が占領されて出島商館はまったく孤立した。13年、英人総督ラッフルズは使船を長崎に送り、出島商館の引き渡しを迫ったが、彼はこれを断固拒絶してオランダ商館を死守した。またこれより先、1804年にはロシア使節レザノフが通商を求めて長崎に来航し、08年には英国船フェートン号狼藉(ろうぜき)事件が起こったが、彼は日本の外交当局を援助し、前記13年の英国使船長崎来航の際の適切な処理とともに、対外関係の緊張緩和と、この時期の日本に対する外圧の回避に貢献した。14年にオランダがフランスの支配を脱し、ジャワ島も返還され、17年にようやくオランダ船が長崎に来航したので、彼は同年12月、日本を去った。この間、滞日19年、商館長在任14年にわたり、3回の江戸参府を行った。日本官憲との友好的関係の維持に努めるとともに、フランソア・ハルマの蘭仏(らんふつ)辞書を底本として、通詞の中山時十郎や吉雄権之助(よしおごんのすけ)らの協力を得て、1816年『蘭日辞書』(『道訳波留馬(どうやくハルマ)』『長崎ハルマ』)を完成させ、また幕府の要望により通詞にフランス語教授を行うなど、文化交流の面でも大きな役割を果たした。帰国後『日本回想録』(1833)を刊行した。[加藤榮一]

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精選版 日本国語大辞典の解説

ドゥーフ

(Hendrik Doeff ヘンドリク━)⸨ズーフ⸩ 長崎オランダ商館長。日本名道富。フェートン号事件などで出島でのオランダの権益をイギリスから防衛。また、蘭和辞典「ドゥーフハルマ」を編纂した。著に「日本回想録」がある。(一七七七‐一八三五

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世界大百科事典内のドゥーフの言及

【ドゥーフ・ハルマ】より

…《ズーフ・ハルマ》ともいう。長崎の出島に滞在したオランダ商館長H.ドゥーフがF.ハルマの蘭仏辞典によって,オランダ通詞たちを指導・督励して,1812年(文化9)編纂を開始。完成はドゥーフ帰国後の1833年(天保4)であった。…

【フランス】より


[幕末]
 1807年ロシアのフボストフとダビドフはサハリン(樺太)と択捉(えとろふ)島を襲い,番人を拉致して箱館奉行あてに書簡を置いていった。これがフランス語であったため,幕府はオランダ商館長H.ドゥーフに翻訳を依頼するとともに,オランダ通詞本木庄左衛門(1767‐1822),馬場佐十郎に命じてドゥーフからフランス語を学ばせた。これが公式のフランス語学習の初めである。…

※「ドゥーフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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